民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

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「昭和幻燈館」 久世 光彦

2014年08月10日 00時13分39秒 | エッセイ(模範)
 「昭和幻燈館」  久世 光彦(くぜてるひこ) 中公文庫 1992年

 ひとりだけのスクリーンに映し出す暗い幻影、ひそやかな追憶―――第二次世界大戦末期に少年期を過ごした著者が、記憶の回廊のなかで反芻する建築、映画、文学など、偏愛してやまない、憂いにみちた昭和文化の陰翳を、透徹した美意識で記す(キャッチコピー)

 「砂金、掌に掬えば」 P-169

 前略

 詩人の魂とは、<恥>のことだと私は思っている。<恥>と言ってもその次元は意外に低いものだとも思っている。怯懦(きょうだ)とか躊躇とか、脆弱とか怠惰とか、抽象名詞に置き換えて言えば上等めいて聴こえるが、女を騙して逃げたり、喧嘩する度胸がなくてにやにや笑って誤魔化したり、人の憐れみに甘えて金を借りたり、そんな人生のおよそ凡俗な痛みこそが詩人の魂なのだと思う。恥ずかしくてとても医者に見せられない傷だから、こそこそと詩に書いて痛みを和らげようとするのである。拭っても拭っても汚れの落ちない不快な傷痕だから、言葉で飾って束の間の安堵を求めるのである。だから詩篇の透明度とは詩人の人生の汚染度とも言えるし、珠玉の数は恥の数だとも言える。恥の上にまた恥を重ね、数え切れない恥の数を南京玉のように繋ぎ合わせ、それをずるずると未練がましく引きずって歩くのが詩人の姿である。恥の数だけ不安が増して、その人生の不安に追われて振り返り振り返り逃げ惑うのが詩人の後姿なのである。

 後略

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