民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

「昔話の呼称と伝承形式」 その2 佐藤義則

2014年05月19日 00時17分36秒 | 民話(語り)について
 「全国昔話資料集成」 1 羽前小国昔話集  佐藤 義則(昭和9年生) 岩崎美術社  1974年

 「昔話の呼称と伝承形式」 その2  (編者ノート 佐藤義則 より)

 また、教訓を結びとする語りおさめには、
「ドンビン、サンスケ、人の真似ざ、するもんでねェ」がある。
「今は昔」の「今昔物語り」の語りおさめ「ものうらやみはすまじきこと」と同じく、
人まね話の「隣の爺婆」は、ほとんどこれが付かぬと、おさまりがつかぬようである。
 「猫さえ、こがえ性(しょう)があるもんだ。人ざ恩忘へるもんでねェ」は、
「猫の恩返し」話につき、「雀コさえも・・・」となれば、「腰折れ雀」話に付け加えられる。

 また、「ネズミの小便」や「カラスの灸」などの禁忌(きんき)も語りおさめの句に使われる。
「昼のムガスコ 馬鹿語る」
「昼ムガス語っと、梁の上のお姫様コ(ネズミの隠語)がら 小便ひっかけられる」
「昼ムガス語っと、カラスがら口さ灸たでらっれて 口利(くずただ)んねぐなる」
ネズミの小便が目に入ると盲人(めくら)になるといって子供らをいましめるが、
「カラスの灸」も口角炎のこおtで、これも激しい制裁である。
いずれも、昔話は「夜に語るもの」であることをいっている。

 そして、同じ夜でも、
「一夜に百ムガス語っと、『百ムガス』って云(ゆ)う化け物(もオ)コ出はて来て呑まれんぞ」
というのである。いわゆる「百物語」の怪奇さといましめである。

 また、昔話の語りの時季としては、
「雪のない時は、ムガスコ語るもんでない」
「夏にムガス語りすっと、雪ァ降る」
「お正月様来ねど、ムガスコ語りさんねもんだ」
「節句(三月)すぎでの馬鹿ムガス」
といって、冬のものとしている。

 かつては、特定の時、所で語られていたものであろう。
それはハレの日の集まり、山仕事仲間の「山神講」、水利組合の「水神講」、
神参りの「お山」(出羽三山)、「お伊勢」「古峰ヶ原」「金華山」「太平山」「月待」「巳待」
「お庚申待」などの講、村共同体の「契約講」、最上三十三札所のお札打ち巡礼の「お観音講」
「地蔵講」、幼児を持つ母の「お疱瘡日待」の講など、各々の年齢層な集団があり、
寺社のまつり時の「堂篭(どごも)り」「宵宮(ヨオミヤ)などの夜篭りに、
また神饌物のオサガリをいただくナオライの宴などは、重要な語りの場であった。その語りは、
一に、そのまつりの主意を説く語り、また、郷土発生の伝承など、
二に、村にまつわる話や世間話など、
三に、大口などヒワイな下の話になり、大体がこのような筋で、話がそれからそれとなく語り継がれてゆくのである。

「昔話の呼称と伝承形式」 その1 佐藤義則

2014年05月17日 00時43分55秒 | 民話(語り)について
 「全国昔話資料集成」 1 羽前小国昔話集  佐藤 義則(昭和9年生) 岩崎美術社  1974年

 「昔話の呼称と伝承形式」 その1  (編者ノート 佐藤義則 より)

 小国郷における「昔話の呼称」は、「むがすコ」「トントむがすコ」である。
単に「むがす」と云えば、昔の世間話や伝説をさして「昔話」ではなくなるのである。

 「昔話の伝承形式」について、語りはじめの句は、
「昔」「昔昔」「昔昔、ざっと昔」「昔、あったけド」「昔、あったずォン」「さる昔、あったけド」
「さる昔、あったずォ」「トント昔」「昔昔、トント昔」「トント昔、あったけド」など、
大同小異であるが、「トント昔、有った事だったが、無え事だったが、知しゃねげんとも」となると、
次の句を考えねばならない。
「トント昔のまた昔、あったごんだが、なえごんだったが、トントわがり申さねげんとも、
トント昔ァあった事えして、聞かねばなんねェ、え」

 これは語りはじめの句であるが、「トント昔、あったけド」と語りだす一話の前置きとは異なり、
語りの場の雰囲気をととのえる約束ごとなのである。
語り手が「聞かねばなんねェ、え」と念をおし、聞き手が「ん」と答えるのを待って語りだすのである。

 聞き手の相槌は「問い口(ぐず)」ともいい、「オゥ」「オゥオッ」と一ト句切りごとに
間をおかず受け答えせねばならない。
夜に幼児と寝ながらの語りなどでは、どこまで聞いているかの確認にもなるものである。

 語りおさめの句は、
「ドンビン、カラリン」
「ドンピン、カラリ、ネッケド」(新庄周辺や庄内地方)
「トンピン、カラリン」「ドンビン、サァンスケ(サンスケ)」
「ドンビン、サンスケ、ホーラの貝」
「ドンビン、サンスケ、ホーラの貝ァ、ポーポーど鳴ったドサ」
「ドンビン、サンスケ、赤むぐれッ」
「ドンビン、サンスケ、酒田の猿の尻(ケツ)、真っ赤(か)っ赤(か)」(「さ」音の言葉遊び)
「ドンビン、サンスケ、猿眼(まなぐ)、猿な眼さ毛コ生えで、ケンケン毛抜きで抜えだれば、
メッメッ片目(めッこ)えなったドサ」(村山地方)
「終わりキンチャグ、猫のフンドス」(村山地方)
「ドンベ、カラッコ、ナエケド」
「ドンビン、カエンコ、スッカエコ」
「ドンビン、スカンコ、猿の尻(けッつ)さ、牛蒡(ごんぼ)焼えで打(ぶッ)つげろ」(尾花沢市)
「ドン、パラリ、プー」
「ドーンと、おはれェ」(岩手県 どっとはらえと同系)
「トンピン、カラリン、さんしょの実」(北隣接の秋田県雄勝町)
「ヨーズコ、ポーンとさげた」(東隣接の宮城県鳴子町)


「編者ノート」 高橋 勝利

2014年05月15日 00時22分37秒 | 民話(語り)について
 「全国昔話資料集成」 18巻 下野昔話集 (栃木)

 編者 加藤嘉一(かいち)・高橋勝利 岩崎美術社 1975年

 「編者ノート」 高橋 勝利 P-180

 <地名と伝説>

 私が生まれ、そして育ったのは飯(いい)村という珍奇な名の山村である。
私の家の東南側に焼森(やけもり)山と呼ばれる300メートル台の山がでんと座っていて、
朝日も月の出もその山の上に出るので、夜の明けるのがそれだけ遅くなる勘定であった。
私は毎日その山を見ながら成長したのである。

 中略

 宇都宮を起点として、飯村・小貫(おぬき)を経て仏の山(ほとけのやま)峠を越して、
笠間・水戸につらなる道を水戸北街道と呼ぶのは、水戸の徳川氏の日光参詣のためであるらしい。
この道は坂東19番の益子・西明寺から、20番常陸の佐伯寺(笠間)を結ぶ巡礼道路で、
仏山(ほとけのやま)峠も巡礼坂の一つであったのであろう。

 仏の山の朝日堂の伝説は、仏の山の四郎左衛門が
巡礼姿に身をやつした娘オセンを殺したので、発心して仏門に入り、
上がり下りの巡礼のために朝日・夕日の両堂を建立したと言う和讃の筋が本流らしいが、
磯系図には磯四郎左衛門義輝が吊天井を引き落とすと、光明輝き観世音菩薩の姿と出現したのを見て、
悪心変じて菩提心を起こし仏門に入り、上がり下りの旅人のために両堂を建立したとあり、
オセン娘は見えぬのである。

 房州勝浦のオセンコロガシ、三浦半島突端のオセンガハナ、和歌山県の毒魚の方言の
「オセンコロシ」等、殺される娘の名のオセンについては、柳田先生に聞いたことがある。
先生からは奥州のミコにオセン・オマンがあるから、
オセンミコの関与であろうかとの返書を頂いている。

 中略

 加藤嘉一君の家はその木幡にあった。
またの名を芳賀富士と呼ばれる形の好い大平山の山麓の村である。
大平山はダイダラ坊が藤蔓で背負って来た山だと言われている。
ダイダラ坊は耳緒山(三妙山)を耳に挟み、小摑(こつかみ)山をつかんで来たが、
藤蔓が切れて大平山がここに落ちたので、耳緒山も小摑山も捨てて行ってしまった。
その時の足跡が芹沼だとのことである。

 中略

 <地勢と特産物>

 昭和29年に逆川(さかがわ)村、茂木町、須藤村、中川村が合併され、現在の茂木町になった。

 中略

 戦後の高度経済成長の余波を受けることも少なかったから、目立つほどの工場もなく、
町の様相も戦前と大きな変化は見られない。
旧茂木村の一部を除けば、純農村と言ってよく、
今もなお茅や藁葺き屋根の農家がそこここに見られる。
交通の便がよくないためもあって、はなばなしい脚光を浴びることが少なく、
栃木県にあっても最も旧態をとどめる村落が存在する。

 後略

 <採集の思い出>

 加藤嘉一君の家のある木幡と私の生家の飯村は4キロほどの距離である。
私は飯村にある逆川尋常高等小学校に行き、加藤君は木幡尋常小学校に行ったから、
小学校時代のつき合いはなかった。
加藤君の祖父は私の遠縁の家から加藤家に養子に行ったのであり、
また私の父が局長であった逆川郵便局の事務員をいていたとのことで、
私の家と親類つき合いをしていたから、私の中学時代には獅子舞を見に招かれて行ったりしていた。

 加藤君と親しく交際するようになったのは、加藤君が茂木町の小学校の教員になっていた時であり、
私が病身の父の代理に郵便局や逆川村の仕事を手伝っていた頃である。
私は仏教美術の研究をしていたのであるが、
父が病身なので生家の面倒を見なければならなくなって引き籠もっていたのである。

 加藤君は文学青年で、その頃童話集の「ひとつ星」を自費出版していた。
野口雨情や江口渙などを茂木町に招いて話を聞く会を主催したりしたので、
私も参加して一緒に旅館に泊まって歓談したことを覚えている。

 中略

 昭和4年の6月に私の「栗山の話」が出来、12月には加藤君と二人で「芳賀郡童謡集」を出版した。
 昭和何年であったか覚えていないが、
加藤君夫妻は満州国の日本人小学校の教師を志願して渡満したのである。
 きびしい風土になじめなかったのであろうか、加藤君の死を風のたよりに聞いたのは、
まだ日支事変のきびしくならないうちであったと思う。

 岩手県の佐々木喜善さんが私に「聴耳草子」を送ってくれたのは、
柳田先生から私のことを聞いたからだとの手紙がつけてあった。
柳田先生は私にも「遠野物語」のような昔話を採集させたかったのである。
私も「遠野物語」や「聴耳草子」の美しい昔話に魅せられていたから、
栃木県の昔話を採集する努力を重ねていたのである。
明治時代に県の命令で作った村々の郷土誌に伝説と昔話の項目があるので、
芳賀郡内の小学校を廻って見せてもらったが、昔話は載せていないのである。

 その頃、芳賀郡教育会芳賀郡誌を作る計画があり、私はその編集委員に委嘱されていたので、
各小学校の先生方に昔話の採集を依頼したのであるが、その結果は零に近かった。
たまに採集したものを寄せられたが、芳賀郡オリジナルではなく、
何かの本で読んだものを聞いて来たようなもので私をがっかりさせた。

 栃木県の昔話はどこそこの話は、何かと土地と人が結びつかぬと興味をひかなかったのかと思う。
ホトトギスは腹をさいて殺した妹を思って、のどがさけるほど鳴くんだとか、
雨蛙は親不孝で親の死に際の頼みだけは聞いて川の辺に墓を作ったので、
雨が降るたびに鳴くんだという程度の昔話は私の子供の時から聞いているが、
昔話集としてまとめられるものではなかったのである。


 私の母の実家は茂木町なので小さい頃よく連れられて行った。
茂木町は愛着のある町なのです。
 加藤嘉一さんのような人がいたおかげで茂木町に伝えられた民話が残っている。

 私たちは加藤嘉一さんという人がいたことを、
そして、加藤さんが残した民話を次世代に伝えなくてはならない。









「屁一つで村中全滅」 加藤 嘉一

2014年05月13日 00時09分44秒 | 民話(昔話)
  全国昔話資料集成 18巻 編者 加藤嘉一(かいち)・高橋勝利 岩崎美術社 1975年
 
 下野茂木(もてぎ)昔話集 加藤 嘉一 編

 「屁一つで村中全滅」

 昔、ある村に屁っぴりの娘がありました。
あんまり屁を放(ひ)るので、
「こんな悪い病気のある娘は一生嫁にも出られない」
と、両親は心配していました。

 ところが、隣村のお大尽様から不意に嫁に貰いたいと話がありましたので、
こんな良い縁はないと早速承知しました。
 
 いよいよ輿入れという時になって、母親は娘を呼んで、
「嫁に行ったら十分気をつけて、決して粗相なことをしてはいけません」
と、言って聞かせました。

 四、五日の間は我慢に我慢をしていましたが、もうどうすることもできず、
思わずブーと一つやってしま(え)ました。(茂木では(い)を(え)と発音する)
娘はくれぐれお母さんにも言われたのにと思うと、
「この先追い出されもされたなら、それこそ顔向けがない」
と、心配して、とうとう村の大池に飛び込んで死んでしま(え)ました。

 すると、その婿様は、
「屁一つぐらいであんないい嫁を殺してしまって、申し訳ない。自分もお供をして死んでしまう」
と、やはり池に飛び込んで死んでしま(え)ました。

 嫁と息子に死なれた両親は、
「頼りにする子供たちに死なれて、何でこの世に楽しみがあろう」
と、また続いて死んでしま(え)ました。

 すると、
「村のお大尽様が死んでしまっては、この村にいても暮らしようがない」
と、村の人々は皆んな池の中に飛び込んで死んでしま(え)ましたので、
たちまち村は全滅になってしまったということです。

 加藤嘉一(かいち)明治35年、栃木県芳賀郡茂木町に生まる。栃木県師範学校卒業後、足尾、
黒磯、大田原、茂木、益子各小学校教員のかたわら民俗資料を採集し、雑誌「旅と伝説」などに寄稿。
昭和20年2月、満州にて死亡。著書に童話集「ひとつ星」など。

 昭和10年の頃、加藤嘉一さんが採集した話のようです。
こうしてたった一人の努力によって昔話が伝わる地域があるんですね。
 この本ではほかに栗山村の話、高橋勝利 編、
常盤村(ときわむら、合併して葛生町)の話、箕輪田良弥 編が収録されている。

「外郎」 戸板康二 

2014年05月11日 00時05分35秒 | 伝統文化
 「外郎」    「歌舞伎十八番」所載  戸板康二 著

 「外郎(ういろう)」は、正しくは「外郎売」で、「勧進帳」の前型、
「助六」の初演等に引きつづいて演じられたものである。
享保三年正月、森田座が初演。
二代目団十郎が「若緑勢曽我(わかみどり・いきおいそが)」に畑六郎左衛門という役名で
外郎売に扮して登場、滝のような弁舌で、いい立てをしたという記録が、
その長いセリフとともに「歌舞伎年代記」に載っている。

 鎌倉建長寺を開山した大覚禅師について日本へ渡った外郎という人物が、小田原に住んで売り弘めた
「透頂香」を、俗に外郎といい、婦人病に特効がある薬だったというのだが、
この芝居はその外郎を宣伝して歩く行商人の身振りをたくみに舞台にとり入れたおもしろさと、
団十郎独特の雄弁術が評判になって、その後も演じられている。

 中略

 この演目は二代目団十郎の当たり芸として市川家に記録された出し物というに過ぎず、
役柄も荒事ではなく、演技の骨子は、よどみなくのべるセリフにあった。
おのずから、ほかの「十八番」とは、区別されるべきものであろう。