民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

「外郎売」 東海道中膝栗毛より

2014年05月08日 23時19分34秒 | 大道芸
 「薬の社会史」日本最古の売薬 外郎・透頂香(ういろう・とうちんこう) 杉山 茂 著 1999年

 外郎の行商人が、中山道の本山宿の辺りで路上で口上を述べている光景を、
十返舎一九の「続膝栗毛」(1816)の弥次、喜多が次の様に述べている。

「向こうのかたより多ぜい両側にならびて、こえごえに呼はり、売りひろめゆくは、
相州小田原ういろう売りなり」とあって、

「コレハ相州小田原の名物ういらう、御用はござりせぬかな、~エヘン~。
そもそも拙者小田原のういらうの義は、お江戸をたって二十里かみがた、相州小田原の宿におきまして、
お上りならば左の方、お下りならば右の方、表竪(おもてたて)看板には、
桐に金けいの紋御赦免ありて、むかしは虎屋藤右衛門、唯今は名を頂戴仕りまして、
虎屋藤右衛門円斉武重と名をあらため売広めまするういらうの義は、一両、一貫百両百貫まで、
お買調(もとめ)くだされましても、おまけといふは一分一厘もござりませぬ。
なれども袖の振合せも、他生の縁とござりまして、お立合いのおかたへは一粒づつお振舞申ます。
江戸表におきましても、浅草お蔵前などにて、桐に菊、きんけいの紋を贋(にせ)まして、
をだはらの、ほだはらの、灰俵のういらうういしゃくいせっくいなどと書記(かきしる)しまして
甘茶、甘草さとうこせう(胡椒)、氷砂糖黒ざとう、鍋炭はうろうのかけ、そくひなどにて調合仕り、
売り広めまするういろうとは違ひまして、
拙者ういろうの義は、一粒をくちにくわへますれば、くるくるまわる所が、盆ござ盆米ぼんむしろ盆牛蒡、つみたてつみあげつみざんしょう、ここんこごめの粉生米、親も嘉兵衛子も嘉兵衛、親嘉兵衛子嘉兵衛、
かげまからがさかげま下駄、となりの茶釜はからちゃがま、こちらの茶釜もからちゃがまと、
かようにくちがまわるはまわるわ。」

 この外郎の販売員のセリフは、歌舞伎の「外郎売り」に大きく影響されているが、
古くからの販売員のそれに忠実な部分も多くあると思われる。
金鶏紋のセリフ等は昔から在ったものであろう。

「東海道中膝栗毛」 十返舎一九

2014年05月07日 00時06分23秒 | 古典
 「絵で見てわかるはじめての古典」九巻 東海道中膝栗毛・江戸のお話  監修 田中 貴子

 「『東海道中膝栗毛』は、こんな本」

 「今から今からおよそ200年前に、十返舎一九が書いた、滑稽本(ユーモア小説)です。」

 『東海道中膝栗毛』は、江戸時代の後期、十返舎一九(じっぺんしゃいっく)という
戯作者(ユーモア作家)が書いた滑稽本(娯楽小説)です。
主人公は、まるで漫才コンビのような弥次郎兵衛(やじろべえ)(弥次さん)と
喜多八(きたはち)(喜多さん)。
ギャグやだじゃれ、なぞかけもいっぱい。
いたずら好きで、おっちょこちょいの二人が、江戸(東京)・日本橋を出発して、
いろいろな人と出会い、あちこちの名所を訪ねながら上方(京都や大阪など)を目指します。
二人の行き先には、当然次から次へとハプニングが・・・・・。

 伊勢神宮(三重県)に参拝するお伊勢参りなどの旅行ブームが起こった江戸時代、
どこまでも明るくばかばかしい話のあちこちに、旅の名所や名物がちりばめられたこの本は、
大ベストセラーになりました。
次々に続編が書かれ、二人は延々と珍道中をくり広げ、江戸に帰ってきたのは、
旅に出てから21年後のことでした。

 「江戸時代、木版印刷の普及でベストセラーが誕生。」

 江戸時代になって、それまで手書きが多かった本は、木版印刷で作られるようになりました。
木の板に文字や絵をほり、墨などをつけて紙に写すのです。
現在の出版社と書店をかねた「本屋」がこれを作り、販売していました。

 江戸時代には、庶民の子どもたちに勉強を教える寺子屋が増えたため、
多くの人が文字を読んだり書いたりすることができました。
本は貴重品で値段も安くはありませんでしたが、町に登場した「貸本屋」のおかげで、
たくさんの人々が気軽に本を楽しむことができるようになりました。

「モヒカン刈りの若者」 マイ・エッセイ 5

2014年05月05日 00時13分25秒 | マイ・エッセイ&碧鈴
 「モヒカン刈りの若者」
                     

 昨年の夏、「ふるさと宮祭り」の日であった。街の中はたくさんの人であふれていた。
 「ジャマくせぇーな、このクソオヤジ!」
 歩道を自転車を押して歩いているとき、後ろからそんなどなり声が聞こえてきた。
ほどなくして、モヒカン刈りの若者が肩を怒らせて私の横を通り過ぎた。
(あれっ、もしかしてオレのこと?)
 後ろを振り返ってみたが、それらしき人はいない。
(あちゃー、オレのことか)
 自分のことだとわかって、「ひでぇこと言うな」という怒りと、
初めて言われたショックが頭の中をかけめぐった。
そして(今の若いヤツは礼儀を知らないんだから)という捨て台詞をかみしめ、若者を見送った。

 そんなことがあってからは、折にふれ、あのひと言が頭をよぎるようになった。
最初は怒りもあったが、そのうち冷静になってきて、
そう言われないようにするにはどうしたらよいかと考えるようになった。
 年々衰えていく体力は隠せない。
だが、私には何十年生きてきたという積み重ねがある。
生きていくってことは大変なこと、そのひとつひとつを乗り越えてきたという事実がある。
そんな気骨といったものを表に出すことはできないものだろうか。

 私が子どもの頃はどこにでも頑固オヤジと呼ばれる人がいて、
子どもが悪いことをすると叱ってくれた。
 世の中が伝統を守ろうとする頑固オヤジと、伝統を破ろうとする若者で成り立っているとすれば、私は断然、頑固オヤジに徹して若者を叱ろう。
その代わり、若者は「熱血ヤング」になって不甲斐ない大人を叱ってほしい。

 それにしても、私はいままで、自分の背中に哀愁をただよわせていたつもりでいたが、
それはとんでもない、ただの「ジジくささ」だったのか、と唖然となる。
 それを気づかせてくれたあのモヒカン刈りの若者に、
あんな雑言を吐かれないようにするにはどうしたらよいか、聞いてみたいものだ。

「一色一生」 志村 ふくみ 

2014年05月03日 01時07分59秒 | 雑学知識
 「一色一生(いっしょくいっしょう)」 志村 ふくみ 著  平成17年

 「日記」 昭和32年3月22日  志村(著者) 32才  黒田 52才

 昨日、清水坂(きよみずざか)の黒田辰秋さんのお宅に伺った。はじめての訪問である。
 出かける前、母が、今まで長い間、苦労してこられた体験をしっかり聞いてくるようにと云った。
黒田さんは長い間、木工家として世に出ず、貧乏暮らしであったが、
どんな貧乏の中でも仕事の節を曲げず、芸に精進された方だと常々母から聞いていた。

 昨年やっと、その辛苦が実って、拭漆欅棚(ふきうるしけやきだな)が朝日新聞賞をうけた。
私は母と日本伝統工芸展でその棚を拝見し、たくまず、堂々としたその風格に感動した。
母は今日までの苦しい生活を知っているだけに、その棚の前で涙を流していた。
「明日のお米がなくても仕事を大切に守ってこられた。奥さんも一緒に守ってこられた」と云う。

 私はこのところ、じりじりと仕事に追いつめられて、何とかこの苦境から脱したいと焦っていた。
老いた父母にこれ以上の負担はかけられない。東京の子供を一刻も早く引きとりたい。
併(しか)し、一枚のテーブルセンターも買ってくれる人はなかった。
収入を得たい。糸を買うお金がほしい。せっぱつまった思いで私は清水坂をのぼっていった。

 中略

 話しにくそうに、ぼそぼそと低い声で話をされるのだが、静かに熱をこめて、
一言一言吟味して絶えることなく話は続いてゆく。
自分の生い立ち、歩んで来た道、柳宗悦先生、民芸運動、工芸、現代作家の道等々、
延々五、六時間にわたって、初対面の私のようなとるに足りない者に、
こんなにも真剣に話して下さってよいのかと、私は勿体無く思いながら、
海綿が水を吸うように、私の中にしみこんでゆくのだった。

 今まで胸の中に濛々(もうもう)と渦巻いていた迷いや焦燥が次第に影をひそめ、
一つの熱いかたまりのようなものが胸にひろがっていった。

 中略

 黒田さんは、「自分のようにわがままで、怠け者で不器用な人間は、
こつこつ仕事をしてゆくしかない。
自分にはこれしかできないのだ。自分の好きなものしかつくれないのです。
仕事は地獄のときもある。生活は苦しい。
だから、私はあなたにこの仕事をしなさいとすすめることはできない。
ただ、あなたがこの道しかないと思うならおやりなさい。
まず、自分の着たいと思うものを織りなさい。先のことは考えなくていい。
ただ、精魂こめて仕事をすることです。云ってしまえば、誠実に生きることです。
『運、根、鈍』とはそういうことです。
何年も何年も、黙々とひとりで仕事をつづけてゆけるか、中みがよっぽど豊かで、
ぬきさしならぬことでなければ続かないものです」。
黒田さんの話は尽きることなく、次第に熱を帯びてきたが、気が付いたら夕闇が迫っていた。
帰りがけ、清水さんにお参りして家路についた。

 汽車を下りたら猛烈な吹雪で一寸先もみえなかったが、私はその中を走りながら、
「仕事をしよう。仕事をしよう」と叫んでいた。


 黒田辰秋(くろだ たつあき)1904年9月21日 - 1982年6月4日、京都府生まれ。漆芸家、木工家。
刳物(くりもの)、指物などの木工と乾漆(かんしつ)、螺鈿(らでん)などの漆芸で知られる。
1924年(大正13)頃に河井寛次郎の講演に感銘を受け、柳宗悦らの民藝運動に加わる。
1970年(昭和45)「木工芸」の重要無形文化財保持者(人間国宝)。

 志村 ふくみ(しむら ふくみ)1924年(大正13年)9月30日 - )日本の染織家。
紬織の重要無形文化財保持者(人間国宝)、随筆家。
草木染めの糸を使用した紬織の作品で知られる。

「古屋の雨漏り」 佐藤義則 編著

2014年05月01日 02時09分39秒 | 民話(昔話)
 「全国昔話資料集成」 1 羽前小国昔話集  編者 佐藤義則  岩崎美術社 1974年

 「古屋の雨漏り」 P-38

 トント昔。
ある所(ど)さ、爺様婆様あったけド。
ある夜(よ)ん間(ま)、唐土(とオど)の虎つうもんが、
爺婆の家でァ何(なん)ぞ食い物無えべがとて、
戸の口さ屈(こご)んで覗込(のぞこ)みしてだけド。

 すっと、家(え)ん中でァ、婆様「爺や爺や。この世の中で何ぁ一等(えッと)おっかねべや。
やっぱす、唐土(とォど)の虎、らべが」って、聞いったけド。
戸の口の虎「俺ァ、世の中で一番と恐(おッか)ね者(もん)だ」って、喜んでっと、
爺様「ほれァ唐土の虎もおっかねげんと、
やっぱすハァ、古屋の雨漏(あまむ)りァ一等おっかね事(ごん)だや」
「ほだほだ。古屋の漏(む)りど鳴る(米櫃が空になって鳴る)ァ、一等おっかねちゃなァ」
って否消(ひげ)しったけド。

 虎ァびくらして、「あじゃ。俺よりおっかねフルヤノムリやナルさァ、何(どげ)な物(もん)だべ。
ああ、こがえしてァ居(え)らんねちゃ。おかねェ、おかねェ」って、どがすか逃(ね)げ出して、
唐土さ渡ってすまったさえ、日本にゃ虎は居(え)ねんだド。

 ドンビン、サンスケ。

 (岸 久助)