民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

「負け犬の遠吠え」 酒井 順子

2014年08月18日 18時13分39秒 | エッセイ(模範)
 「負け犬の遠吠え」 酒井 順子(1966年生まれ)  講談社文庫 2003年

 「負け犬の先達」 P-223 (注)負け犬とは未婚、子ナシ、30代以上の女性のことを示す(著者)

 前略

 独身女性にとって憧れの女性とは、どんな人たちなのでしょうか。そこには一人のカリスマが存在します。独身女性にとっての永遠の大スター、それは市川房江でも土井たか子でもありません。彼女の名は、向田邦子。

 仕事でも活躍するのはもちろんのこと、美人でおしゃれで料理も上手だった向田邦子。彼女はとある男性と長いあいだ不倫関係にあったことが、今では発表されています。不倫によって婚期を逸する(逸するとか逸しないという問題ではない、とご本人は思っていたとは思いますが)とは、まさに高齢未婚女性の典型的パターンであり、現在でも多くの同類の共感を呼んでいます。

 彼女は飛行機事故によって独身のまま、50代で命を閉じました。まるで桜花のようなその散り方がまた、不世出のカリスマ独身女、という感を高めた。

 今、向田邦子に続く憧れの独身スターは、存在しません。が、「憧れの独身女」には二種類あるのです。
一つが向田邦子的、つまりは「美しくて女っぽくて、異性のにおいはしつつも結婚しない」という、いい女系の独身女。もう一方は、「あまりにも一芸に秀でるあまり、異性がつけ入る隙がない」という孤高の人系の独身女。

 私は、後者の独身女パターンというのも、割と好きなのです。してその代表例が、やはり故人ではありますが、長谷川町子なのだと思う。

 後略

「むかし卓袱台(ちゃぶだい)があったころ」 久世 光彦

2014年08月16日 12時33分07秒 | エッセイ(模範)
 「むかし卓袱台(ちゃぶだい)があったころ」 久世 光彦 著 ちくま文庫 2006年

 「願わくは畳の上で」 P-10

 前略

 ふと思うと、日本の家屋や調度は低い視点からの<見た目>を考えて作られているような気がする。死者の視点とまでは言わないが、臥せっている者の視点である。日本間の真ん中に立っていると、なんとも落ち着きが悪い覚えは誰にだってあるだろう。とにかく坐りたくなる。坐ってみると障子窓の高さも、陽の差し具合も、障子に映る八ツ手の葉の影も、なかなかいい。ところが、もう一つ視点を低くしてみると、つまり臥せってみると、もっといい。たとえば、雪見障子というのは、間違いなく日本間に寝ている者のために作られたとしか私には思えない。坐っていて庭に降る雪を眺めるには、上半身を屈め、首を曲げて覗かなくてはならないが、床に臥せって枕の上から見るとちょうどいい高さに風花(かざばな)が舞い散るのである。
 
 中略

 家で死ぬということは、長いことその部屋に臥せって、自分の死を待っているということである。もし私がそうするなら、私はきっとあの病気の日とおなじ怖れに取り囲まれて、長い時間を過ごすのではなかろうか。日本の家は、そういうことを考えさせるために作られているのだ。低い視点から見る日本の家の視界には、生きてきた日々について静かに考えさせるものが、あちこちに佇んでいる。枕の上で朝を迎え、高くなっていく陽を静かに目で追い、畳に落日の海を見て、やがてやってくる怖い夜を待つ。漱石も鴎外も一葉も、みんなそういう一日を何日も繰り返し、痩せ衰えながら、また何日も繰り返し、その果てに死んでいったのだと思う。私の病の日々が、怖かったけれど、いま思うと懐かしくも幸せだったように、畳の上に臥せって迎える死は幸せである。(病院の)白い天井や壁を眺めて、私たちの心はいったい何を思うことができよう。怨みも、悔いも、愛さえも、白い壁にはね返って、また我が身に戻ってくるだけである。だから、畳の上で死にたいと思う。切実にそう思う。ただ闇雲に走ってきたような人生ではあったけど、せめて最後のときに、そんな夕暮れをいくつか持つことができたなら、私は私が愛したものが何だったのか、はじめて知るかもしれない。ほんの瞬く間のことではあったが、それでもそれは温かな時間だったことが、わかるかもしれない。そしてもしかしたら、生まれてきたことと、こうして死んでいくこととは、つまりはおなじことだったことに気づいて、死んでいく者には似合わない、小さな笑いを浮かべることだってできるかもしれないのだ。
 だから私は、畳の上で死にたい。

「待ったの巻」 奥山 紅樹

2014年08月14日 09時16分44秒 | エッセイ(模範)
 「待ったの巻」 奥山 紅樹

 待った、で頭に浮かぶのは、奨励会員・中原誠にまつわるエピソードである。
 ―――奨励会の対局で、中原誠は同門兄弟子の安恵照剛(現6段)と顔が合った。
指し進めるうち、中原誠に二歩のミスが出た。
 ―――兄弟子・安恵は、二歩を見た瞬間「元へ戻してもいいですよ」と小声で中原に言った。
 ―――すると中原少年は「いえ、けっこうです。負けました」。
言うが早いかパッと駒を投じた。
 「これは、えらくキツい子が入会してきたもんだと思ったねえ」
 とは当時を知る先輩棋士の回想である。

 「待った」をみずからに許すかどうかは、ルールの問題でもあるが、自尊心の問題でもある。
自尊心とは文字通り自らを尊ぶ心である。
自身を低きに置かぬアンビシャス(大志)があって生じるものであり、他人に対するくだらぬ見栄・意地とは関係ない。

 近年、自尊心の「質」がえらく落ちてきて、やたら自尊心をいたく傷つけられる女、批判されてカッとくる男がふえてきた。
自尊心の大安売りである。
 だが、本当の自尊心とは、奨励会員・中原のように、リンとした精神のありようから生じるものではあるまいか。
 「すみません、ついうっかりしちゃって。じゃ、お言葉に甘えて」
 などと言い、二歩をもどしていたならば、大棋士・中原は誕生していただろうか?

 「待った」が禁止されている理由は、それを許すと一局の勝負がつかなくなるからと以前なにかで読んだことがある。
だが本当の理由は、人の将棋上達に大きく有害だから禁止されているのだろう。

 上達と自尊心は密接に関係している。
「待った」厳禁ルールは、人間の成長・進歩と「やり直し不可」との関係を深く洞察した、先人の知恵というべきものであろう。

 奥山紅樹(おくやまこうじゅ)1936年生まれ。観戦記者。農林水産省職員を経て、赤旗記者。
著書に「プロ棋士―――その強さの秘密」「前進できぬ駒はない」(晩声社)など。
本編は「盤側いろは帳」(晩声社)から収録。

「遅刻」 向田邦子との20年 久世 光彦

2014年08月12日 00時03分38秒 | エッセイ(模範)
 「触れもせで」 向田邦子との20年  久世 光彦 著  講談社 1992年

 「遅刻」 P-7

 あれは4月の午後だった。春雨というにはちょっと激しすぎる雨が少し前から降りだして、ガラス窓の向こうの街は急に紗をかけたように白っぽくなった。私はその午後表参道の近くにある喫茶店で向田さんを待っていた。いつも必ずと言っていいくらい遅れて来る人だったから、その分を勘定して行ったつもりだったのに、それでも向田さんはまだ来ていなかった。彼女が死んだあと、誰かが書いた追悼文を読んでいたら、約束の時間に一度も遅れたことのない礼儀正しい人だったというのがあって驚いたことがあるが、それはとんでもない話で、あんなに約束の時間にいい加減な人も珍しかった。でも、もしかしたらそれは私に対してだけで、ほかの人には律儀だったのかもしれない。そう思うと、あの人がいなくなって10年も経った今になって急に腹が立ってくる。私はいつもあの人を待っていた。もう約束の時間を30分も過ぎている。いつも遅刻の言い訳は決まっていた。出がけに電話があって、というのか、猫が逃げてしまって、というのか、他にもう少し知恵がないのかと思うくらいこの二つの言い訳で一生を賄った人だった。今日もそのどっちかで誤魔化すつもりなのだろう。突然の雨に追われて何人かの傘のない客が逃げ込んで来る。雨というものには匂いがあるもので、その客たちが私の席のそばを通り過ぎたとき、どこか艶めいた春の雨の匂いがしたのを覚えている。
 白い雨に煙ると信号の色もにじんで見える。ふだんはさほど風情があるようには思えない青山通りが、こんな日は巴里(パリ)の街角のように見えたりする。そんなことをぼんやり考えながらガラス窓の外を眺めていたら、信号が青になった横断歩道を、向田さんが薄いベージュのスカートをひるがえして走って来るのが見えた。私がここから見ているのをちゃんと知っていて走っているのだ。せめてもの申し訳に走るのである。傘をさしているところを見ると、つい今しがた家を出て来たに違いない。ここは彼女のアパートから2分とかからない。スローモーションのようにゆっくりと、それなのにひらりひらりというのがあの人の走り方だった。女学校のころハードルの選手だったというのも本当かもしれない。
 私はあからさまに嫌な顔をしてみせたつもりだったが、彼女はしらばっくれてにこにこ笑っていた。言い訳は電話だったか、猫の脱走だったか忘れたが、とにかく向田さんはほんの2、3分遅れてきたような顔で私の前に格好よく足を組んで座る。取り立てて長い足とは言えなかったが、足の組み方の上手な人だった。そして、その日も素足だった。私の知っている向田さんは、いつも素足だった。くるぶしのあたりに、走って跳ねた泥が飛んでいた。ストッキングに跳ねてこびりついた泥は醜いものだが、素足のそれはちっとも嫌な感じではなかった。でも、それは向田さんだったからそう思ったのかもしれない。その泥を気にしておしぼりで拭いたりしないで、平気な顔をしているのが彼女らしかった。そういう無頓着のふりをして無邪気な可愛らしさに見せるあたりは、ちょっと人に真似のできないものがあった。手に持った裸の財布と、キーホルダーもつけないやはり裸のドアの鍵を、何気なくテーブルの上に投げ出し、格好よく足を組んでみせるだけで、相手に30分も待たせたことを忘れさせてしまう、そんな狡(ずる)くて可愛い人を私は彼女以外に知らない。向田さんは、人生のすべてにおいて、あの雨の日の<素足)のような人だった。

 後略

「昭和幻燈館」 久世 光彦

2014年08月10日 00時13分39秒 | エッセイ(模範)
 「昭和幻燈館」  久世 光彦(くぜてるひこ) 中公文庫 1992年

 ひとりだけのスクリーンに映し出す暗い幻影、ひそやかな追憶―――第二次世界大戦末期に少年期を過ごした著者が、記憶の回廊のなかで反芻する建築、映画、文学など、偏愛してやまない、憂いにみちた昭和文化の陰翳を、透徹した美意識で記す(キャッチコピー)

 「砂金、掌に掬えば」 P-169

 前略

 詩人の魂とは、<恥>のことだと私は思っている。<恥>と言ってもその次元は意外に低いものだとも思っている。怯懦(きょうだ)とか躊躇とか、脆弱とか怠惰とか、抽象名詞に置き換えて言えば上等めいて聴こえるが、女を騙して逃げたり、喧嘩する度胸がなくてにやにや笑って誤魔化したり、人の憐れみに甘えて金を借りたり、そんな人生のおよそ凡俗な痛みこそが詩人の魂なのだと思う。恥ずかしくてとても医者に見せられない傷だから、こそこそと詩に書いて痛みを和らげようとするのである。拭っても拭っても汚れの落ちない不快な傷痕だから、言葉で飾って束の間の安堵を求めるのである。だから詩篇の透明度とは詩人の人生の汚染度とも言えるし、珠玉の数は恥の数だとも言える。恥の上にまた恥を重ね、数え切れない恥の数を南京玉のように繋ぎ合わせ、それをずるずると未練がましく引きずって歩くのが詩人の姿である。恥の数だけ不安が増して、その人生の不安に追われて振り返り振り返り逃げ惑うのが詩人の後姿なのである。

 後略