民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

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「中高年のための文章読本」その15 梅田 卓夫

2014年11月19日 00時25分49秒 | 文章読本(作法)
 「中高年のための文章読本」その15 梅田 卓夫 著  ちくま学芸文庫 書き下ろし 2003年

 「<謎>を含む文章―――<空白>の魅力」 P-239

 文章の魅力は、必ずしも、わかりやすく納得できるということだけにはよらないものです。
途中に<飛躍>したり<欠落>している部分があって、その<空白>がかえって読者の興味と関心をそそり、くり返して読み味わいたくなるということもあるのです。

 <メモ>の段階では当然、論理的にも、時間的にも、つながらない発想の<断片>が記されています。
これを論旨のつながるものとして叙述していく際に、作者は飛躍や欠落のかげにあるストーリーを探っていくわけです。
それは自身にとっても、ときには謎であり、ときには意外性に満ちた発見の連続です。
文章を書くことの楽しみですね。
読者のためにも、この楽しみを残さなければなりません。
叙述にはある程度の<飛躍>と<欠落>をのこして、読者がそれを補う(=ストーリーをつくる)楽しみを保証したほうがよいのです。

 それが読者に対する、作者としての信頼であり、よき読者は、あなたの作品をいったん受け止めたあと、さらに自分のこころのなかで再生していってくれるものです。

「中高年のための文章読本」その14 梅田 卓夫

2014年11月17日 01時05分50秒 | 文章読本(作法)
 「中高年のための文章読本」その14 梅田 卓夫 著  ちくま学芸文庫 書き下ろし 2003年

 「ギクシャクを楽しむ」 P-217

 文章を勉強するとき理想とするのは、やはり「珠玉の短編」とか「神品」とか、あるいは「非のうちどころのない完成作でしょうか。
どうしても、中高年の人々にはその傾向があります。
無意識のうちに、そういったことをめざしてしまうのです。

 そして構成や文体の「粗削り」とか「ギクシャク」などということを嫌う。

 しかし、それでは、文章の「かたち」にばかり目がいってしまいます。
欠点がないことへ注意力が奪われ、発想が保守的になってしまいます。
「かたち」に収まりそうなことしか書けなくなってしまうのです。

 ほんとうに大切なことは、なによりも自分の<発想>を生かすことです。
メモや走り書きのことばとして書きとめられた<発想>の鮮度を、いじくりまわしているうちに、落としてしまわないことです。

 そのためには、既成の形式にたよらない、むしろ外れても仕方がない、くらいの気楽な(?)気分で、新しい一歩を踏み出したいものです。
場合によっては、思わぬ新形式が実現することだってあるのです。

 文章は<断片>から作られます。
<発想>として浮かんできたイメージや記憶、あるいは思考の<断片>がことばとしてつなげられてできてくるものです。
当然、ギクシャクしながら進んでいくものです。
かえって、あまりスムーズにつながるときは、疑ったほうがいい。
こんなに単純に進んでいっていいものか、と。

 新しい発想、未知の領域へ踏み込もうとしている思考、自由に羽ばたく想像力の産物、それらが<ことば>として書きとめられるとき、既成の日本語の文脈(一般常識・先入観)とのあいだに軋轢を生じます。
それがギクシャクとしてあらわれてくるわけです。

 ギクシャクは人を(読者を)たち止らせます。
不整合の部分が、<ひっかかり>の感覚を呼ぶのです。
ときには不快感や反発として。
ときには、謎、興味、好奇心へとつながり、読者のこころをかきまわし、そそのかし、惹きつける要素とさえなります。

 つまり「退屈」の正反対のものを与えてくれるのです。

「中高年のための文章読本」その13 梅田 卓夫 

2014年11月15日 00時01分26秒 | 文章読本(作法)
 「中高年のための文章読本」その13 梅田 卓夫 著  ちくま学芸文庫 書き下ろし 2003年

 「レトリックは技術ではない」 P-200

 レトリックを知識として学習しても、それでよい文章が書ける保証にはなりません。
レトリックの知識は、書かれた<他人の>文章を分析するときには役立つけれども、自分が文章を書くときには、ほとんど無力です。
「あのレトリックを使ってやろう」「この比喩で書いてみよう」などというものではないのです。

 重要なのは、あなたのこころのなかで動く、一見たわいもないように思われるかもしれない、かすかな発想やイメージをとらえることができるか、どうか、です。
それがなければ、あなただけの文章は書けないのです。

 創造的な文章を書くのに必要な、<ことば>のほんとうの能力とは、それができるということです。

 発想をメモとして書きとめられるかどうか。
自分の感性を信じ、こころに耳を傾け、<ことば>として書きとめる作業ができるか、どうか、です。

「中高年のための文章読本」その12 梅田 卓夫

2014年11月13日 00時36分40秒 | 文章読本(作法)
 「中高年のための文章読本」その12 梅田 卓夫 著  ちくま学芸文庫 書き下ろし 2003年

 「<思ったこと>より<見たこと>を」 P-176

 「<頭>で書かれる文章の退屈」

 中高年の人は、知識も見聞もひととおり持ちあわせているから、どのような状況を描こうとしても、それを抽象的な概念で集約し、説明できてしまうのです。
なまじっかことばを知っている(語彙が豊富である)から、個々の断片的な対象をとらえるよりもまえに、一般概念をあらわすことばで「まとめ」てしまうのです。

 集約とか概念的把握というと高度なことのように聞こえるけれども、認識の段階からいうと、これは低次元にとどまった認識です。

 例えばある人が、サッカーの試合を見て「おもしろい」といい、テレビを見て「おもしろい」という。
本を読んでも「おもしろい」という。
この「おもしろい」が大まかな概念的把握です。
対象は、これによってほとんど区別されません。
けれどもなんとなくわかったような気がする。
ふつう、私たちの認識はこの概念的把握から対象に迫っていくのです。
努力しなければ、そこで留まってしまいます。

 この「おもしろい」が語彙の豊富な人になると「すごい」「感動した」「感銘を受けた」「永久に忘れない」などとモッタイぶった表現になりますが、本質は変わりません。

 中高年の人々の文章の退屈さのひとつの典型です。

「中高年のための文章読本」その11 梅田 卓夫

2014年11月11日 00時25分00秒 | 文章読本(作法)
 「中高年のための文章読本」その11 梅田 卓夫 著  ちくま学芸文庫 書き下ろし 2003年

 「<思ったこと>より<見たこと>を」 P-176

 「思ったこと」を文章にすると、抽象的になります。

 たとえば、「楽しかった」とか「感銘を受けた」とか述べるとき、そのことばが抽象的であるということを、私たちは自覚しているでしょうか。
うっかりすると、その自覚がないまま「楽しかった」と書いて、自分のこころの楽しさが相手にも伝わると考えてはいないでしょうか。
「感銘を受けた」と書けば、相手も感銘を受けると錯覚してはいないでしょうか。

 具体的な事実や現実の裏づけはなくても、抽象的なことばだけで述べることができるのが、文章というものの性質です。

 中高年の人々の文章によく見られる味気なさ、物足りなさは、いわばこの裏づけとなる部分の叙述が不十分なまま、いきなり「感銘を受けた」などと作者の「思ったこと」を押しつけてくるところにあるといってもいいでしょう。
読者としては、「ああ、あなたは感銘を受けたのね」ということは頭で理解できるけれども、いっこうに「感銘」そのもののなかには入っていけないのです。

 もしも「感銘を受けた」ことを文章にするのならば、自分が受けた「感銘」を読者のこころのなかに再現するように仕向けなければなりません。

 そのとき、<描写>が力を発揮します。

 「思ったこと」を具体的にイメージとして読者のこころのなかに再現するようにこころがける。
これが客観的な叙述です。

 この場合、「読者のこころのなかに」ということは「文章の中にことばで」ということです。
このことによって、叙述が作者の独善から離れて客観的なものへと移っていくのです。

 読者のこころのなかに(イメージ)が再現されれば、「感銘を受けた」などという説明はなくても、読者はその情景そのものから「感銘」をうけることになるのです。
そのように仕向けるために、作者は叙述を工夫するのです。