民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

「中高年のための文章読本」その10 梅田 卓夫

2014年11月09日 00時15分11秒 | 文章読本(作法)
 「中高年のための文章読本」その10 梅田 卓夫 著  ちくま学芸文庫 書き下ろし 2003年

 「短い文章を多く書く」 P-153

 創造的な文章の方法とは、「自分の書きたいこと」をことばでとらえていくこと、のうちにあるといえるでしょう。
これはまた逆に、とらえたことばがほんとうに自分の書きたいことなのかを点検すること、のうちにあると言い換えることができます。
この往復作業は、メモをとりながらの思索の時間から、下書きの過程を通じて無限にくり返されることになります。

 「書きたいこと」は、ただの観念であるから、客観的にはどこにも存在しない。
本人だって、ばくぜんと頭のなかにある予感のようなものとして感じられるだけです。
それを<ことば>にして書きとめることによって、はじめて本人にも見えてくるのです。
この予感のようなものをことばで追究していくことは、本人にとっても大きなよろこびになります。
自分の「書きたいこと」が客観的に見えてくるからです。
文章を書くことによる自己表現のよろこびです。

 しかし、おとし穴があります。
いったん<ことば>として書きとめられると、多少ズレていても、それが「書きたいこと」であったかのように思えてしまうという一面があるからです。
もともと予感のようなはかないものですから、多少ズレた<ことば>に置き換えられても、それに席を譲ってしまうのです。
ここに、出来合いのことばや他人の考えが忍び込んでくる余地があります。
創造的な文章表現にとって最大のおとし穴です。
このおとし穴と自己発見の間に、すべての文章表現はおこなわれている、といっても過言ではありません。

 創造的な文章表現へいたるためには、短い文章を数多く書いてみて、このおとし穴の自覚と自己発見のよろこびを経験することが大切です。

「中高年のための文章読本」その9 梅田 卓夫

2014年11月07日 00時57分51秒 | 文章読本(作法)
 「中高年のための文章読本」その9 梅田 卓夫 著  ちくま学芸文庫 書き下ろし 2003年

 「<まっさらな自分>からの出発」 P-144

 <メモ>はまっさらな自分を回復するための場でもあります。
文章を書こうとして、実際にメモをとってみるとわかることですが、最初は既成の知識とか、以前から持っていた考えが頭に浮かんできます。
それらは、いわば他人の考え、出来合いのことば、一般常識といってもようようなことがらです。
わざわざ自分が書かなくても、すでにわかっていることがアイディアの顔をして浮かんでくるのです。
他人のことばや、他人の考えに汚染されている自分を知る―――これもメモの効用の一つといえるでしょう。

 そういった自分を一度「無」にして、新たにスタートし直す。
白紙のメモ用紙をひろげることは、その意志を自分自身に対して表明することでもあるのです。
メモ用紙をひろげることは、文章表現を創造的に進めようとする意志を行動に移すことです。

 といっても、むつかしいことを書けといっているわけではありません。
日常の惰性のように流れている自分を、いったん否定して<まっさらな自分>を回復するところから始めるのです。

「中高年のための文章読本」その8 梅田 卓夫

2014年11月05日 00時10分02秒 | 文章読本(作法)
 「中高年のための文章読本」その8 梅田 卓夫 著  ちくま学芸文庫 書き下ろし 2003年

 「発想は断片的にあらわれる」 P-134

 <よい文章>が書かれる場合、作品を想定して最初に作者が頭のなかで考えることは、結果としてできあがった作品の叙述とは関係なく、イメージや発想が、ときには映像として、ときにはことばとして、断片的に、入り乱れて、浮かんでは消えることをくり返します。
この浮かんでは消える発想を、なによりもまず消え去るまえにすくい取り、<ことば>(文字=走り書き)として定着(対象化)することが必要です。
さらにすくい取ったものを貯え、選り分けることも必要でしょう。
そして、それらに秩序を与える・・・・・。
これらの作業をおこなうのは、メモ用紙の上です。
メモ用紙の上の<ことば>は、文章の部品として動かしたり、つなげたりして扱うことが可能です。
この作業が文章を次第に具体的なものとして作っていくのです。
準備などという軽いものではありません。
文章表現にともなうもっとも創造的な<思索>そのものです。
まだ原稿用紙をひろげるまえの話なのに、です。

 まず<思索する>ことが必要なのです。思い出したり、想像したり、推理したり、そういう作業を紙の上に、ときにはポツリポツリと、ときには走り書きで、記録し、消えていかないように蓄積するのが<メモ>です。
そうして見えてくるもの、これが当面のところ、あなたの<全財産>なのです。
そのなかに「他の人が書きそうもないこと」を見つけるのです。
この作業なしで、いきなり書き始めたりすれば、自然に「他人の考え」が忍び込んできてしまいます。
中高年の人は過去からの持ち合わせがあるから、いっそう足をすくわれやすいのです。

 <メモ>の作業は、文章の長短に関係なく必要です。

 原稿用紙をひろげる(ワープロ画面を開く)まえの、時間をかけた思索と、それを蓄積した<メモ>の存在こそ、<創造的な文章を>を生み出す基本です。

「中高年のための文章読本」その7 梅田 卓夫

2014年11月03日 00時43分21秒 | 文章読本(作法)
 「中高年のための文章読本」その7 梅田 卓夫 著  ちくま学芸文庫 書き下ろし 2003年

 「カタカナは表現をひろげる」 P-108

 カタカナにはことばを音声へ還元する働きがあります。
 漢字表記によって見慣れてきたことばには、知らないうちに他人の手垢(時代の垢)が付着しています。
その手垢は、ときには倫理的・道徳的な思想であったり、美文調を思わせたり、センチメンタリズムであったり、します。
記号としてのことばのプレーンな意味のほかに情念的なプラス・アルファが付きまとうのです。
この手垢を洗い落としたいとき、あるいはこの手垢に抵抗感を示したいとき、カタカナが使われます。
(必ずしも、漢字を知らないとか、忘れたとかの理由ではないのです。)
音声へもどることによって、漢字とそれに付きまとう古い思想(先入観)をふり払い、記号としてのことばのプレーンな意味を回復しようとするのです。

 これまであたりまえのようにして漢字で書いてきたことばを、あるときカタカナで書いてみようとするとき、<自分にしか書けないこと>にふさわしい新鮮な日本語を求める自分がいるのです。
このデリケートなニュアンスを求める感覚を大切にしたいものです。

「中高年のための文章読本」その6 梅田 卓夫 

2014年11月01日 00時09分11秒 | 文章読本(作法)
 「中高年のための文章読本」その6 梅田 卓夫 著  ちくま学芸文庫 書き下ろし 2003年

 「<かたち>より<中身>を」 P-86

 文章というものは、どれだけ「かたち」に気を配って書いても、その成果は結局、他人が見て指摘できるような間違いや不備がなくなるといった程度のことが多いのです。
逆にいえば、「かたち」の不備は、他人でも指摘し、直してやることができるのです。
いわゆる指導者による添削も、このところで止まらざるを得ない。
添削は、書かれたことばを動かしたり、消したりすることができるだけです。
模範解答がある答案の添削ならいざ知らず、創造的な文章では、書かれていないことばを他人が付け加えることはできません。
内容にまで踏み込む添削などというものを、信用しないほうがいいのです。
そんなことをされたら、その作品は、あなたのものであって、あなたのものでなくなってしまうからです。

 文章の内容とは、なにを書こうとしたかという幻想(=願望)ではなくて、目のまえに置かれていることばそのものです。内容を追求するとは、<ことば>を追求することです。
作者としては、その<ことば>(=内容)をしっかり準備することが必要なのであって、容れものとしての「かたち」にばかり目を向けても、よい文章は書けません。