民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
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「世の中に絶えて化粧のなかりせば」 その1 林 望

2015年10月20日 00時54分38秒 | エッセイ(模範)
 リンボウ先生から「女たちへ! 」  林 望  小学館文庫 2005年

 「世の中に絶えて化粧のなかりせば」 その1 P-101

 私は化粧ということが大嫌いである。世の中に化粧なんて下らないことがなくなってしまわないかと思う。
それは、反動でも石頭でもなく、「女は化粧」という「常識」の中に、悲しい差別が内在していると思うからなのだが、いっぽう、清潔であること、それは、ただ垢や汚れにまみれていないという物理的な清潔さのみをいうのではない。己というものに、真剣に対峙して、自己を受容するところから自信を持って等身大に生きる、その潔さこそがもっとも尊いのだ。

 テレビに、まるで歌舞伎の女形(おやま)みたいに真っ白に顔を塗りたくったオバサンが出てきて、彼女の作った白塗り化粧品を塗れと勧めるのを見た。ところがまた、口元はニコニコしつつ、目はちっとも笑っていない強面(こわもて)風のオジサンが出てきて、肌の汚れを完璧に洗い流す高価な洗顔石鹸のセットを買えと勧めるのも見た。
 これでは果たして、漆喰壁のごとく塗りたくったらよいのか、それとも、途方もなく高価な石鹸を用いて、素肌で勝負したらいいのか、世のご婦人方は甚だ迷うところではないかと思った。
 私自身は、「化粧という行為」そのものを好まない。化粧などという野蛮な風習がこの世からすっかりなくならないものだろうかと、そう思って暮らしている人間の一人である。

 中略

「僕が色気を感じるとき」 その4 林 望 

2015年10月18日 00時06分55秒 | エッセイ(模範)
 リンボウ先生から「女たちへ! 」  林 望  小学館文庫 2005年

 「僕が色気を感じるとき」 その4

 私の感じる形而上的な色気は、まず何はともわれ「品格ある話し方」である。いかに億万長者であろうとも、巴里の社交界でちやほやされようとも、あのナニガシ婦人に、私がまるっきり色気を感じないのは、彼女の言葉遣いが余りにも下品だからである。
 反対に、たとえばNHKの道傳愛子さんと話していると、心がへなへなとなるような色気を感じるのは、彼女の言葉遣いが天女のように上品だからである。
 また「飾らない素直さ」ということも形而上的色気の重要な要素である。
 いかにスイスの花嫁学校を卒業し、「ハイソな暮らし」に彩られていようとも、そのハイソ評論家なる女史に一切の色気を感じないのは、この人の態度の背後に、いたずらに背伸びして上品ぼっている哀しさが見え透いてしまっているからである。
 反対に、まるで素顔で、歯に衣着せずに物を言い、お世辞もお上手もないけれど中山千夏さんに爽やかな色気を感じるのは、彼女の態度がまったく背伸びのない等身大の自然だからである。
 同じ一度きりの人生、虚飾の色気で下らない男の気を引くのが幸福か、正々堂々虚飾を排し、品格ある暮らしをして、上等の男を得るのが幸福か。分かれ目はここのところである。

「僕が色気を感じるとき」 その3 林 望

2015年10月16日 00時05分40秒 | エッセイ(模範)
 リンボウ先生から「女たちへ! 」  林 望  小学館文庫 2005年

「僕が色気を感じるとき」 その3

 ここから類推して、たとえば、ボディコンスーツ、むせ返るように濃すぎる香水、裸同然にあらわな水着、ヘアヌード、鼻にかかった「色っぽい」声、などという、いわゆる「お色気満点」なるものに男は魅かれると思い込んでいる浅はかなる女たちがたくさん出現してもそれはそれで仕方があるまい。
 けれども、肝心なことは、仮に、そのような「仕掛け」に釣られて言い寄ってくる男がいるとしても、そういう男が果たして「共に語るに足る」人物であるかどうか、というこの点である。
 いっぽうで、女が「色気がない」と思っているなにごとかに男は思いがけず反応したりすることもある。
 たとえば、地味なスラックスを穿いて歩いている人のお尻や充実した太もものいかにも丸くたおやかな曲線、また、温泉などに行ってふとすれ違った湯上り女の上気したような素顔、スポーツで一汗かいて顔をごしごしとタオルで拭っているときの口元や首筋、香水とは無縁の女の体の自然な体臭、屈託なく無防備に大笑いをしている人の生き生きとした口の中、短く切り揃えられた若々しい爪先の桜貝のような色、そんなものに男たちは無上の色気を感じたりするのである。分かりますか。
 こうした天与の色気に比べたら、渋谷や歌舞伎町や銀座の裏町あたりをうろうろしている女たちの、ごてごてに飾り立て、鼻の曲がりそうな香水の匂いをさせ、いやらしい付け爪に妙な絵を描いたりしている作り物の風体など、ひとえに月の前の星に同じである。
 以上は言ってみれば「形而下的色気」だが、さて、このうえにまた「形而上的色気」というものがある。


「僕が色気を感じるとき」 その2 林 望

2015年10月14日 00時51分55秒 | エッセイ(模範)
 リンボウ先生から「女たちへ! 」  林 望  小学館文庫 2005年

「僕が色気を感じるとき」 その2
 
 私たち凡俗の男は、やっぱり、多少スタイルが悪くても、とびきりの美人でなくとも、同じ肌の色をして、同じように小柄で、どこにでもいる「隣のお姉さん」タイプの人を見たときに初めて現実的な意味での「色気」を感じるのである。(中略)
 ところが、その「隣のお姉さん」タイプの人が、どのように自己評価をしているかというと、たいてい、「スタイルが悪い」「顔も垢抜けない」とかいうふうに概して自己否定的で、どうかしてフジワラノリカみたいになりたいものだと思っていたりするのである。
 たぶん、あの花魁道中の中のぽっくりみたいように高い靴を履いて、足の長さを水増しして歩いている若い女たちは、それで15センチほどはフジワラノリカに近づいたつもりでいるのであるが、実際は歩きにくいものだから、変に膝の曲がったぶざまななりでよちよち歩いているじゃないか。はてさて、まことに笑うべきことである。もう分かっていないことおびただしいと言わねばならぬ。
 女が一般的に「色気」だと思っているものに男はそれほど反応しない。
 たしかにテレビを見ていると、胸もとに「谷間」をあらわにした女だの、ハイレグ水着で立っている女だの、たくさん出てくるから、ただ、ああいう凸凹のはっきりした、露出的な格好さえすれば男はそこに色気を感じるものだと女たちが誤解をするのも無理はない。


「僕が色気を感じるとき」 その1 林 望

2015年10月12日 00時13分33秒 | エッセイ(模範)
 リンボウ先生から「女たちへ! 」  林 望  小学館文庫 2005年

 「僕が色気を感じるとき」 その1 P-94

 前略

 男の色気、などと大上段に構えたことを口幅ったくも書くつもりなどない。ただ私自身は、男でありながら、いや男であるからこそ、男の「色気」が、奈辺にあるのかということについては、実はよく分かっていないのだということを言いたいのである。
 逆に言えば、女の色気とはどんなもので、男たちがどのように反応するかということを、たぶん女自身はよく分かっていないだろうということでもある。
 けれども、女たちは、日ごろから、どうしたら自分が魅力的に見えるかということを、おさおさ怠りなく研究しているので(よろずの女性誌を見ればそれが分かる)、よもや自分が自分の色気について分かっていないとは思ってもいない。その結果、そうじゃないよと正直な意見を男が述べても、絶対に聞く耳を持たぬ。これがなにしろ大問題だ。
 私から見ると、女の「色気の自己評価」は多分に同性への視線に依拠し、男の感覚がどうであるかということについて、女たちは驚くほど鈍感である。
 たとえば、藤原紀香という「美人」がいる。女たちの目には、フジワラノリカという存在は、ひとつの「理想形」として映っているらしく、ああいうのに対して男たちは無条件に色気を感じるものだと疑わないのであるが、じつはね、そんなことはないのだよ。
 ああ、たしかに足は驚くほど長い。胸はたわわに大きい。まるで「絵に描いたような肢体」である。
 でもなぁ、と男たちは思うのである。
 あれは、たしかに、驚くような姿形の女であるが、しかしその分、実に現実感が希薄で、あたかもお人形か絵空事みたように感じられる。それ故、色気の面では却って普通一般の男たちの琴線には触れてこないかもしれないのだ。それはちょうど、スーパーモデルが、まったく別世界の存在で、同じ人間としての親しみや色気を覚えないのと良く似ている。