民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

「どくとるマンボウ青春記」 その6 北 杜夫

2016年06月20日 00時16分15秒 | 本の紹介(こんな本がある)
 「どくとるマンボウ青春記」 その6 P-42 北 杜夫  新潮文庫 (平成12年)

 更に上級生は、ストームなるものを寮に復活した。ストームにもいろいろあるが、その一つは説教ストームである。真夜中、寝ている下級生を叩き起こし、なんのために入寮したのかとか高校生活の意義だとか質問を発す。どのように答えても、バカヤローの怒声が返ってくる。つまり、それまでの一般世間の常識、価値概念をすべてくつがえし、高校生としての自覚に目ざめさせるのである。これはやるほうにも相手を即座にやりこめるだけの頭脳を要するけれど、やられるほうはネボケマナコだし、寝巻き一枚でふるえていなければならぬし、十人の説教強盗にはいられたよりも災難だ。

 ただのストームというのは、やたらに騒々しい。単細胞の権化のごときデタラメのエネルギーの発露である。深夜、朴歯をはき、ホウキをふりまわし、せい一杯の声でデカンショをがなりたてながら、寮じゅうの廊下をねって歩く。いや、とびはねてゆく。朴歯で廊下を蹴り、あるいは手に持って打ちあわせ、ホウキ、ボウ切れでそこらじゅうを叩き、いかにしてもっとも凄まじい音響を立て、惰眠をむさぼる奴輩(やつばら)を覚醒させるかという狂宴である。

「どくとるマンボウ青春記」 その5 北 杜夫

2016年06月18日 00時14分17秒 | 雑学知識
 「どくとるマンボウ青春記」 その5 P-38 北 杜夫  新潮文庫 (平成12年)

 敗戦後の社会は混乱していた。学校内も混乱していた。軍隊に行っていた上級生も戻ってきていて、やがて彼らは松高内の軍国的色彩を排し、自治の獲得をめざし、校長をはじめ三教授退陣を迫る運動を起こした。
 私たち1年生は上級生の話を聞き、感奮した。どんなにか私たちは感激家だったことだろう。むろん教授らはわるく、高校生は正しいのだ。実際、この世で高校生くらい清く正しい存在はないとまで私たちは思っていた。
 若者に感激性がなくては困る。それが彼らの取柄で、かけがえのない貴重なものだ。といって、私はいま当時をふり返り、私たちの多くが単なる感激屋だったことや、付和雷同性を多分に帯びていたことも認めざるを得ない。しかしながらそのとき私たちは心底から感奮したのであり、なかんずく一人の男などは、自分らが歴史に残る純粋無雑な改革をやっているのだと信じこんでいた。その男とは誰あろう、この私である。
 生徒大会が開かれ、偉い上級生が次々と登壇し、演説をぶった。こうした高校生仲間でカシラだつ人間には二種ある。一つは頭の切れる理論派で、もう一つは弊衣破帽の情熱派である。
 今しも、どっしりと体格のいい人物が熱弁をふるいだした。彼こそいわゆる高校オンチの代表であり、たぐい稀な熱血漢であった。ただ、燃えたぎる青春の血こそ何人前も所有していたが、演説の内容となるといささか語彙に乏しいといわねばならなかった。
 彼は、
「鬱勃たるパトスをもって・・・」
 と腕をふりあげた。1分もすると、また、
「ウツボツたるパトスをもって」
 と吠えた。
 こうして彼は長からぬ演説の中で、実に30回ばかりも「ウツボツたるパトス」と吠えたもので、以来パトスと渾名されるようになった。

「どくとるマンボウ青春記」 その4 北 杜夫

2016年06月16日 00時38分11秒 | 雑学知識
 「どくとるマンボウ青春記」 その4 P-36 北 杜夫  新潮文庫 (平成12年)

 よき時代の旧制高校生には、まず内面への沈潜(これが得意の言葉であった)があり、ついで外界があったのだが、私の場合、どうしてもコーリャンの飯だのナスのヘタの煙草のほうが先にくるようだ。
 といって、まるきり精神面での胎動がなかったわけではない。それはまず上級生という形をとって私の前に現れた。どんなにか彼らは偉く見えたろう。私が名前しか知らぬ、カントとかヘーゲルとかキエルケゴールとかいう人物にも彼らは直接習ったことがありそうだったし、シェイクスピアやゲーテやドストエフスキイなどとも友達づきあいをしているかのようだった。共同社会(ゲマインシャット)とか止揚(アウフヘーベン)とか理性(ロゴス)だとか情熱(パトス)だとかいう面妖な言葉を発した。むろん彼らをバカにしているのではない。彼らはあきらかに理想をもち、情熱をもち、見るも汚ならしい現実社会に背をむけ、ひたすらに何ものかを求めようとしていた。たとえそれが精神の思春期の錯覚であろうとも。
 私たちは彼らに感服し、自分らも彼らのようになりたいと思った。いいにせよわるいにせよ、これが旧制高校の伝統とかいうものであろう。

「どくとるマンボウ青春記」 その3 北 杜夫

2016年06月14日 18時04分25秒 | 雑学知識
 「どくとるマンボウ青春記」 その3 P-25 北 杜夫  新潮文庫 (平成12年)

 昭和20年8月1日、新入生たちはヒマラヤ杉に囲まれた古風な校舎のある松本高等学校の門をくぐった。そして一場の訓示のあと、校舎とは縁を切られ、そのまま大町のアルミ工場へと送られた。
 この動員生活は、仕事そのものからいえば中学のそれと変わりがなかったものの、やはりどこか異なっていた。自分らは子供の中学生ではなく、白線帽をかぶった高校生であるという、気負った自覚のようなものがあったからであろう。
 新入生を指導してくれる上級生はいなかったものの、しかし何人かの落第生がいた。このドッペリ生は、旧制高校の伝統をせい一杯に私らに伝えてくれた。大体ほかの学校では落第生は小さくなっているはずだのに、高校では彼らは大きな顔をし、堂々たる指導者なのであった。彼らは寮歌を教え、集会(コンパ)を開くことを教えてくれた。その多くは観念的な形骸で、今の世にもってきたら噴飯物であることも確かだが、それでもやっぱし何ものかが含まれていたと言ってよい。
 部屋の消灯は9時であった。しかし、廊下の電気はつけられていた。すると学生たちのかなり多くが、防空煙幕のはられたこの廊下に本を持って出ていって、固い板敷の廊下に座り、ほの暗い電球の下で読書をした。あの古びた光景を憶い出すと、私は現在、自分があまりにグウタラしているような気もするのである。


「どくとるマンボウ青春記」 その2 北 杜夫

2016年06月12日 00時54分56秒 | 雑学知識
 「どくとるマンボウ青春記」 その2 P-20 北 杜夫  新潮文庫 (平成12年)

 ところが、私は、読書するよりも、もっとくだらぬ外形にまず時間を割いてしまった。帽子に、夢にまで見た白線(旧制高校生は白線帽が特徴であった)を巻き、それに醤油と油をつけて古めかしく見せようと努力した。次に、一人の友人から当時には貴重なものであった地下足袋とひき換えに、でっかい朴歯の下駄を獲得した。それには普通の鼻緒がついていたが、私はどえらい苦心ののち、直径4センチもある鼻緒を自ら作りだし、これを朴歯にとっつけた。旧制高校生の弊衣破帽というのはむろん彼らなりの裏返されたおしゃれで、いつの世にもわざと異様な格好をし、一般の世人とは区別されたがる人種がいるのと同様である。

 私はそのとてつもない太い鼻緒に、更に墨くろぐろと、「憂行」と大書した。憂行(ゆうこう)とは、おそらく『昭和風雲録』辺りから由来した、右翼的で感傷的な、つまり「混濁の世を憂い行く」という意味くらいの雅号のつもりであった。ちなみに、憂行生なら号になるが、憂行では意味をなさない。しかし私は、素晴らしい雅号をつけたつもりで内心大得意で、ゴム版を彫って憂行の印を作り、これを自分の持ち物、友人に出す手紙などに、片端からベタベタと押しつけた。