「どくとるマンボウ青春記」 その12 P-68 北 杜夫 新潮文庫 (平成12年)
さて、どこの旧制高校にも名物教授というのがいる。松高のそれは、やはり数学のヒルさんに指を屈さねばならぬだろう。
蛭川幸茂というその先生は、生徒からヒルさん、或いはヒル公という愛称でしか呼ばれなかった。身なり風体をかまわぬこと生徒以上であった。伝説であろうが、松高に赴任してきたとき、物売りと間違えられ、受付で追い払われたと伝えられている。
髭づらで容貌は野武士のごとくである。しかし、その目はすこぶる優しい。旧制高校を愛し、高校生を愛したこと、この先生に比すべき者はあるまい。しかし、言葉はわるく、「おめえ」と言い、奥さんが病気になったときは、「あいつ棺桶に両足突っ込んで首だけ出してやがんだ」などと言うが、そこにまた親しみが湧くのである。
服装はもっとも悪い。荒縄を帯代わりにして着物をしばったいたこともある。私もこの先生をはじめに見たときは乞食だと思った。ヒルさんは陸上競技の部長であったから、校庭で砲丸を投げたり走ったりしている。乞食がなんであんな真似をしているのか、さすが高等学校というところは変わった場所だと思った。ヒルさんはインターハイなどへ行っても、グラウンドでムシロをかぶって寝たりするので、頻々と乞食と間違えられた。
私の在学中、ヒルさんは家がなくて、一時、学校内の弓道場に住んでいた。私はヒルさんに習ったことはないが、先輩から聞くところによると、腹の筋肉がたいそう強く、仰向いて寝たまま腹にのせた皿でも何でも空中高く飛ばしてしまうそうである。まさしく腹芸である。また「ナントカ節」というのが得意で、生徒たちに「やりまっしょ! 」(ヒルさんの場合は「やめまっしょ」の反対である)と慫慂(しょうよう)されると、授業中にそれを唄いだし、時間はそれで終わってしまう。しかし学問はおろそかにしなかった。休み時間になってから、住居の弓道場の外の板壁に白墨で数学の公式を書いておく。生徒たちはそこへ行ってそれを写すのである。
(続く)
さて、どこの旧制高校にも名物教授というのがいる。松高のそれは、やはり数学のヒルさんに指を屈さねばならぬだろう。
蛭川幸茂というその先生は、生徒からヒルさん、或いはヒル公という愛称でしか呼ばれなかった。身なり風体をかまわぬこと生徒以上であった。伝説であろうが、松高に赴任してきたとき、物売りと間違えられ、受付で追い払われたと伝えられている。
髭づらで容貌は野武士のごとくである。しかし、その目はすこぶる優しい。旧制高校を愛し、高校生を愛したこと、この先生に比すべき者はあるまい。しかし、言葉はわるく、「おめえ」と言い、奥さんが病気になったときは、「あいつ棺桶に両足突っ込んで首だけ出してやがんだ」などと言うが、そこにまた親しみが湧くのである。
服装はもっとも悪い。荒縄を帯代わりにして着物をしばったいたこともある。私もこの先生をはじめに見たときは乞食だと思った。ヒルさんは陸上競技の部長であったから、校庭で砲丸を投げたり走ったりしている。乞食がなんであんな真似をしているのか、さすが高等学校というところは変わった場所だと思った。ヒルさんはインターハイなどへ行っても、グラウンドでムシロをかぶって寝たりするので、頻々と乞食と間違えられた。
私の在学中、ヒルさんは家がなくて、一時、学校内の弓道場に住んでいた。私はヒルさんに習ったことはないが、先輩から聞くところによると、腹の筋肉がたいそう強く、仰向いて寝たまま腹にのせた皿でも何でも空中高く飛ばしてしまうそうである。まさしく腹芸である。また「ナントカ節」というのが得意で、生徒たちに「やりまっしょ! 」(ヒルさんの場合は「やめまっしょ」の反対である)と慫慂(しょうよう)されると、授業中にそれを唄いだし、時間はそれで終わってしまう。しかし学問はおろそかにしなかった。休み時間になってから、住居の弓道場の外の板壁に白墨で数学の公式を書いておく。生徒たちはそこへ行ってそれを写すのである。
(続く)