民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

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「白洲次郎の生き方」 その4 馬場 啓一

2016年07月11日 00時06分19秒 | 生活信条
 「白洲次郎の生き方」 男の品格を学ぶ 馬場 啓一  講談社 1999年  装画 佐々木 悟郎 

 「老人は叱ることが仕事だ」 P-56

 白州が後半心血を注いだのは、軽井沢ゴルフ倶楽部である。会長職にあったころの白州は、会員の無作法を厳しく戒める怖い老人という存在であった。
 老人は叱ることが仕事だと、白州は思い込んでいたふしがある。怒るのではなく、叱ること。これこそが老人の特権であり、かつ義務である。そう考えた白州は自分の信条すなわちプリンスプルを人々に強要した。ゴルフ場ではルールを重んじ、迅速なプレイを旨とすべしと説いた。

 戦後の民主主義の世の中は、白州のような高圧的な意見を煙たく取る風潮を生んだ。だが50年を過ぎて今日思うのは、老人の意見を煙たがる態度や柔弱な発想が日本を悪くしてしまったことである。いまさら気付いてももう遅いが、何をやっても民主主義だからと許してきた結果が現在の状況を生んだとするなら、これは放ってはおけない。

 (中略)

 またゴルフ・クラブは会員制であるから、メンバーでない人物はたとえ一国の宰相や大使であろうと、敢然とはねつけた。何もゴルフ場はここだけではあるまい、というのが白州なりの理由である。(中略)彼は横車を押す人々に対しては厳しく接した。

「白洲次郎の生き方」 その3 馬場 啓一

2016年07月09日 00時02分24秒 | 生活信条
 「白洲次郎の生き方」 男の品格を学ぶ 馬場 啓一  講談社 1999年  装画 佐々木 悟郎 

 まえがき その3

 それでは白洲が解釈しようとしたものは、いったい何だったのか。
 白洲が解釈しようとしたのは、西欧にはプリンシプルが存在するというこの一点であった。これこそ西欧の真髄であると。
 若くして西欧人の生活に溶け込み、彼らと寝食をともにする中で、西欧の思想の根幹にあるものをプリンスプルと、白洲は看破した。

 プリンスプルは基本的な規則や原則、といったものだが、正しく解釈することは日本人にはじつは至難の業(わざ)だ。日本が融通とか例外がはびこる国だからである。一度決めたことは頑として変えない。これがプリンスプルだ。頑固とか石頭と表現してしまうと、本当の姿は見えない。人間の生きる基本原理を確かなものとして定めること。これがプリンスプルである。言葉では簡単だが、日本人はいとも簡単にこれをネジ曲げ、正しく伝わらない。

 ここで重要なのは白洲が英国に渡ったのが、まだ10代半ばを越えたばかりの年齢だったということである。無垢の状態であったからこそ、白洲はプリンスプルの存在を見出したのだ。日本人が世界に伍して行くために、プリンスプルこそ必要だと説き、自分の生き方にそれを反映させたのである。本書を「白洲次郎の生き方」と題したのはこのためだ。

 白洲の生涯はストレートで、無人の荒野を高性能車で駆け抜けるようなものであった。思うところを信じ、ひたすら走り抜けた。しかし、他人には見えなくとも、これによって白洲がいかに傷ついていたかを、想像すべきだ。彼の生涯に漂う一種の品格は犠牲の上に得られたものである。

 今日、白洲次郎の名が輝いた存在として語られるのも、じつは彼の真っ直ぐな生き方と、流されたおびただしい心血のためであることを、知っておくべきだろう。
「男の品格」と副題を付けた理由も、じつはここにある。

「白洲次郎の生き方」 その2 馬場 啓一

2016年07月07日 00時10分13秒 | 生活信条
 「白洲次郎の生き方」 男の品格を学ぶ 馬場 啓一  講談社 1999年  装画 佐々木 悟郎 

 まえがき その2

 四方を海に囲まれた日本は、太古から海外の文物を積極的に取り入れて成長してきた歴史を持つ。古くは朝鮮半島を通じて中国大陸の影響を受け、その後わずかな期間であったがスペイン、ポルトガル、そして徳川時代には、かすかに開かれたオランダへ通じる窓によって西欧の姿を垣間見た。

 明治になって初めて西欧の事情を知ることになった日本は、慌てふためいて西欧化を図る。それから約80年後、西欧化を修得したつもりだった日本は戦争に負け、こんどはアメリカの強い影響化に入り、今も続いている。これがわが国の海外文物輸入の歴史である。

 文物(ぶんぶつ)を輸入するためには、必ずそこに解釈を行う人間が必要となる。解釈をして初めて、海外のものが日本人に理解されるからである。その意味で、日本の知識人は海外文物の解釈者と、ほぼ同義語であった。

 白洲も、この解釈者の一人として、ここでは規定している。ただ、その姿が解釈者として見えにくいのは、われわれが海外の思想や規律(と言ったもの)を、ややもすると軽んじる傾向があるからだ。白洲が解釈しようとしたものがじつはそういう内容だったため、今日、彼を解釈者として位置づけできない結果となっている。


「白洲次郎の生き方」 その1 馬場 啓一

2016年07月05日 00時29分54秒 | 生活信条
 「白洲次郎の生き方」 男の品格を学ぶ 馬場 啓一  講談社 1999年  装画 佐々木 悟郎 

 まえがき その1

 これは今世紀の初め、明治後期に生まれたひとりの日本人について書いた本である。
 白洲次郎。
 若くして英国ケンブリッジ大学に留学し、10年を彼の地で過ごす。日本を出たときはまだ10代の半ばを越えたばかりである。人間として未完成のまま、欧州に旅立った。今日いう帰国子女の一人だ。若き白洲が英国で会得した西欧の真髄を、どのように生かしたか、これが本書の主題である。

 当時の欧州は大戦争と呼ばれた第一次世界大戦が終結したばかりで、旧秩序と新たなる息吹がせめぎあいを見せていた。人間でいうならまだ首のすわらない状態の白洲は、新しい時代が音を立てて築き上げられる様を目のあたりにする。あわせて、当時の超大国である英国の特権階級と親交を深め、英国的なるものを自らの血肉とした。

 こうして、自動車にたとえるなら、シャ-シーは日本製、エンジンと車体、タイヤ、そして内装は英国製といった格好の日本人が出来上がる。白洲の半生は、この和洋折衷の自動車をいかにして日本の悪路で走らせるかの厳しいロードレースのようなものであった。当然犠牲を伴う。しかし、走り抜ける彼の姿に、人々は一種の品格をかぎ取ったのである。

 一般には、白洲次郎の名前は太平洋戦争直後の数年間の終戦連絡事務局次長という肩書きによって記憶されている。長い戦争で疲弊した日本を、どのようにして立ち直させるか。これが白洲に与えられた職責であった。だが本書はそのような戦後史に、新らしい解釈を加えるものではない。貴重な一部ではあっても、白洲個人の人生において戦後は一つの章でしかないからである。

「どくとるマンボウ青春記」 その13 北 杜夫 

2016年07月03日 00時05分00秒 | 本の紹介(こんな本がある)
 「どくとるマンボウ青春記」 その13 P-69 北 杜夫  新潮文庫 (平成12年)

 ある中学の校長先生に聞いた話だが、中学の数学の教師が集まってヒルさんに講義をして貰ったことがある。当然、お礼をした。するとヒルさんは悪いと思ったらしく、返礼の包みらしきものをかかえて校長の家にやってきた。奥さんが、
「そんなことをされては・・・」
「そうですか」
 とひとこと言い、また包みをかかえて帰ってしまったという。
 やがて六三三四制ということになり、私たちの二年あとの年代が最後の旧制高校生で、旧制高校は廃止と決まった。当然ヒルさんは新制大学の教授となるはずである。しかし彼は、旧制高校以外を教える気になれなかった。それで、まだしも情熱を抱けそうな小学校の先生となった。田舎の小学校である。
 村では、そんな偉い先生が小学校にきてくれるというので、村長、校長以下が出迎えた。荷を積んだ小型トラックが到着した。荷の上にはヒルさんの子供たちが乗っており、その一人は降り立つといきなり道端でオシッコを始めた。そんなことはよいとして、出迎えの村の有力者たちは首をかしげた。肝腎(かんじん)の偉い先生の姿が見えなかったからである。実はヒルさんはちゃんといたのだ。しかし、あまりに汚ない風体をしていたので、引越しを手伝う人夫と間違えられていたのである。
 私にはヒルさんの真の人物像の百分の一も伝えることはできぬ。ただ言えることは、実に多くの松高生がヒルさんから他の場所では得られぬ精神面の薫陶を受けていることだ。
 高校の教師たちは一風変わってもいたけれど、やはりいい先生が多かったと今更のように思う。