民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

「誤解しないで」 マイ・エッセイ 32

2018年01月09日 00時22分36秒 | マイ・エッセイ&碧鈴
   「誤解しないで」
                                                  
 二月のある晴れた日、(年配の)彼女を連れて、大谷を見学に行った。
 オイラは大谷を案内するときは、いつも大谷資料館の前に車を停めて、そこだけ見学して帰っていた。だけど、今回は、市営駐車場に車を入れて、まわりの景色をゆっくり眺めながら歩くことにした。
 平日なのに、思ったよりも人がいる。
「オレたち、どんな関係に見られているんだろう?不倫の関係に見られているってことはないのかな」
「まさか。夫婦に間違えられるってことはあるかもしれないけど」
 彼女が反論してきた。
「そうか。オレはどっちも結婚しているからそう思ったけど、みんなはそんなこと知らないから、夫婦って思うほうが自然かな」
 彼女は三つ年上のいとこ。いまはアメリカに住んでいて、娘の出産の世話をするために十四年ぶりに帰ってきている。ボランティア志向が強く、通訳ガイドのボランティアができないかと探していたところ、大谷が人気があると聞いて、連れて行ってほしいと頼まれた。彼女と会うのは小学校以来だから、五十数年ぶりになる。
 前の日、気になってインターネットで調べた知識をひけらかした。
「浮気と不倫の違いってわかる?」
「本気か、本気じゃないかの違いじゃない?」
「一番の違いは、一時的か、継続的かの違いなんだって」
「うん、わかりやすいね。浮気グセっては言うけど、不倫グセっては言わないね」
「それじゃ、不倫って言葉はいつごろから使われるようになったと思う?」
「えっ、いつごろだろう?」
「昭和五十八年、テレビドラマの『金曜日の妻たちへ』からだって。覚えている?」
「金妻ね。♪もしも願いが叶うなら、『恋におちて』だっけ?」 
「それまではよろめきって言ってたんだって。三島由紀夫の『美徳のよろめき』がきっかけで」
「よろめきか。そんな言葉もあったね」
 彼女はちょっと顔をしかめた。
「前のダンナ、女グセが悪くってね。それで離婚して、アメリカに留学していた娘のところに行ったの。そして、アメリカの大学に入って、教わったアメリカ人の大学教授と結婚したの。彼は十七歳も年下。信じられる?彼ったら結婚式の日まで私の年を知らなかったのよ。さすがに私のほんとの年を知った時はびっくりしてたけどね」
「へぇー、日本の女性は若くみられるっていうけど、ほんとうなんだ」
 若いダンナのせいか、アメリカ暮らしのせいか、実年齢よりはだいぶ若くみえる。

 大谷石が敷き詰められた細い道を入って行くと、正面に平和観音が見えてきた。今までは背中からまわって見上げていたので、こういう見え方は初めてで新鮮だった。
 みやげ物店に入ったり、並んで歩いたりしているうち、すれ違う人のいぶかしげな視線が気になってきた。オレたち二人の様子がなんとなく不自然で、長年連れ添った夫婦には見えない。もしかして、不倫の関係なんじゃないかと疑っているのかもしれない。
 

「本屋さんで待ちあわせ」 その24 三浦 しをん  

2018年01月07日 00時12分57秒 | 本の紹介(こんな本がある)
 「本屋さんで待ちあわせ」 その24 三浦 しをん  大和書房 2012年

 希望が生まれてくるところ その3
 ――『花宵道中』宮木あや子・著(新潮社/新潮文庫) P-162

 彼女たちが、男性との恋に希望を見いだすのではないところが、この作品を通り一遍の「遊郭小説」とはちがうものにしている。
 山田屋で寝食をともにする遊女たちだが、当然、そりの合わない相手もいれば、いたわりと信頼で結ばれた相手もいる。ふだんは反目しあう仲でも、たまに一致団結して浮気な客をとっちめたりもする。女同士の友情、嫉妬、楽しい会話、そっけないようで相手を思いやる距離感が、細やかに描かれる。遊女たちは、男との恋によってではなく、仲間の遊女とのかかわりを通して、希望を抱いていくのである。

 惚れた腫れたからではなく、孤独と連帯の狭間で揺れ動く人間関係のなかからこそ、希望は生まれる。ひとを生かす力は、そこから芽生える。『花宵道中』は、高らかにそう告げている小説だと私は思う。

 遊女たちが主人公であるからして、『花宵道中』にはもちろん、官能的シーンがたびたび出てくる。しかしこの官能は決して、読者を快楽に浸らせるためのものではない。むしろ、「げっへっへ」と喜んですり寄ってくる好色なおじさん(イメージ)を、冷たい刃で切りつけるような誇り高さと美が感じられる。『花宵道中』の官能は、一個の肉体と精神をもって生きる人間の、魂の咆哮なのであり、意志が発する叫びなのだ。青白い炎を宿す快感と痛みと怒りを知れ。

 登場人物たちの切実で繊細で力強い心を、私は愛する。

「本屋さんで待ちあわせ」 その23 三浦 しをん

2018年01月05日 00時02分28秒 | 本の紹介(こんな本がある)
 「本屋さんで待ちあわせ」 その23 三浦 しをん  大和書房 2012年

 希望が生まれてくるところ その2
 ――『花宵道中』宮木あや子・著(新潮社/新潮文庫) P-162

 だがなにより素晴らしいのはやはり、登場人物の内面に注がれる作者の眼差しだ。
 たとえば一話目の「花宵道中」では、朝霧という遊女の燃え上がる恋と哀しみのすえの選択が描かれる。彼女が選んだ凄絶な、けれど強さを秘めた結末に、私は人間の真実を見て涙した。ところが、三話目の「青花牡丹」において、朝霧が恋した男の心が明らかになる。思いを通じあわせた両者のあいだに、実は大きな断絶が横たわっていたことが、残酷なまでに淡々と語られていく。ひりつく痛みと虚無を、慄然と感じぜずにはいられない。しかしそれもまたたしかに、人間の真実の一面なのである。

 作中で救いが明確に描かれることはない。人間に心があるかぎり、生きても死んでも、私たちを完全に満たしうる救いなど訪れようもないからだ。だが、希望は描かれる。

 登場する女性のほとんどが、貧困にあえぐ村と吉原のなかしか知らない。「外」の世界を空想するよすがすら与えられていないのだ。それでも彼女たちは希望を抱く。諦念の泥沼に沈みそうになりながら、それでも自分自身の喜びと希望を力強く胸に抱く。

「本屋さんで待ちあわせ」 その22 三浦 しをん  

2018年01月03日 00時06分10秒 | 本の紹介(こんな本がある)
 「本屋さんで待ちあわせ」 その22 三浦 しをん  大和書房 2012年

 希望が生まれてくるところ その1
 ――『花宵道中』宮木あや子・著(新潮社/新潮文庫) P-162

 情景を眺めるのではなく、情景のなかに生きるとは、こういうことか。『花宵道中』を読んで、そう思った。
 映像を喚起する描写は、比較的容易にできる。しかし、物語のなかに自分も立っているかのように、読者に感じさせる文章はなかなか書けない。『花宵道中』は、その至難の業を軽々となしとげた小説だ。においや肌触りを、読者はまざまざと体感するだろう。

 舞台は、江戸吉原の女郎屋「山田屋」だ。五篇からなる連作形式で、山田屋で生きる遊女たちと、そこを訪れる男たちの姿が描きだされる。
 読者のなかで、江戸時代の遊郭に行ったことがあるものはいない。もちろん、作者だってないはずだ。にもかかわらず、私は『花宵道中』を読んで、山田屋の廊下の冷たい板を足裏で感じた。美しいぎやまんの器に入った冷やし飴を飲んだ。そっと襖を開けて、暗い部屋で客をとる姉さんの女郎の白い肌を見た。読書のあいだじゅう、行ったことのない江戸吉原に、私はたしかに生きていた。

「作者だってないはずだ」と書いたのは、もしかすると作者の宮木あや子さんは、ひそかにタイムマシンでも持っていて、吉原の大門を自由に出入りすることができるのかも、と思ったからだ。そんな夢想をしてしまうほど、空気と質感が生々しく読者を取り巻く。

「本屋さんで待ちあわせ」 その21 三浦 しをん  

2018年01月01日 00時23分42秒 | 本の紹介(こんな本がある)
 「本屋さんで待ちあわせ」 その21 三浦 しをん  大和書房 2012年

 読まずにわかる『東海道四谷怪談』 その6
 第三夜 ワルが際立つ名台詞(めいぜりふ) その2 P-134

 劇中で『塩治家』といえば「赤穂藩の浅野家」、「高野氏」といえば「高野家筆頭吉良上野介」のことだ、という「お約束」がる。そこで観客は、「そうか、伊右衛門は赤穂藩の浪人なのだな」と了解する。史実では見事に主君の仇を討ったわけだが、さて、我らが伊右衛門はどうだろうか。

 伊右衛門は悪人エピソードに事欠かない男なのだが、有名なのは、「首が飛んでも動いてみせるわ」と言い放つシーンだろう。この直前にも、伊右衛門は背後から女に忍び寄り、川に蹴落として殺害している。「おまえはいったい、何人殺すつもりだ!」と観客が驚きあきれた瞬間に、悪びれたふうもなく「首が飛んでも動いてみせるわ」!ぶるぶる、すごいワルだ。

 しかしこの台詞、実は初演当時の台本には書かれていない。上演を重ねるなかで、「伊右衛門の極悪非道ぶりを、もっと際立たせる台詞はないものか」と、役者さんたちが考案していった台詞なのだろ。

 『四谷怪談』の上演を通して、多くのひとが、人間の心にひそむ「悪」とはなんなのかを考えつづけたからこそ、伊右衛門は暗黒の名台詞を発するようになったのだ。