標高330mのモノローグ

富士山の10分の1、東京23区最高峰の10倍の山間に暮らして20年。地域の自然や思いを綴ります。

戦後の日本も「アメリカ・ファースト」だったのでは?

2017-11-07 19:15:54 | 日記
イバンカさんとトランプ大統領が来日した1週間は、アメリカン・ウィークだった。警備は言うまでもないが、テレビ・新聞などメディアの大報道や道路・駅の利用など生活にも支障がでた。日本におけるアメリカ・ファーストだった。



私の幼いころを思い出した。
多分小学校4年生ごろまでは、外国人と言う言葉は使ったことがなかったと思う。また、日本や韓国、中国という区別も無かったかもしれない(戦前の日本・ファーストの名残?)。つまり、東洋人は漠然と日本人と思っていた。一方では、イギリス人であろうが、アメリカ人であろうがドイツ人であろうが、いわゆる白人は、すべて”アメリカ人”と呼称していた。外国と言えばアメリカだった。アメリカ・ファーストどころか、1にも2にもアメリカがすべてであった。

しかし、次第に小学校高学年になると、アメリカ以外の国の存在が認識されだした。何故今まで西洋人を見るとアメリカ人と言っていたのだろうかと、自問した。父母も周囲の人達もそう呼んでいたからだろう。高校や大学時代になって、幼少期における世間からの影響(教育?)は、多大なものがある。疑いもなく洗脳されていたのかもしれない。改めて戦前の「天皇陛下万歳」や「お国のため」「非国民」といった概念を受け入れなければならなかった時代は、恐ろしいと思った。

幼少時に住んでいた実家の西側は、あぜ道が南北にあった。あぜ道から田んぼを挟んで200mほど離れたところに、広い砂利道が南北にはしっていた。あぜ道からは砂利道が左右つまり、南北に500mは見渡すことができ、直線だった。今でいえば少なくとも3車線の幅はあった。何故ならばその砂利道を東富士演習場を往来する米軍の戦車などが砂煙りを舞い上げ走っていたからだ。時々休憩のためか、左右いっぱいに戦車など様々な戦闘車両が止まっていた。あぜ道から見るその車列は、子供の眼には模型の戦車のように思えた。戦争は知らなかった。

その車列に近づき、いわゆる「ギブ ミー チョコレイト」といって、貰っていた勇気ある友達もいた。私は軍用車に近づくのが怖く、眺めていただけだ。チョコレートをもらった記憶はない。

戦後直後に生まれた我々の世代の日本は、連合国軍の統治下におかれていた。前年に調印された「サンフランシスコ講和条約」が1952年4月28日に発効し日本の主権が回復した(沖縄の返還はあとになったが)。この中で戦争に加担した過ちを起こさないという固い決意のもと現行の日本国憲法ができ、今に至っている。

今回、ビジネスマンとしての本領を発揮したトランプ大統領は、日本への防衛装備の売り込み発言をした。一方、日本国内では、憲法改正が話題となっている。

国民的な議論がしっかりされない中、政党や内閣が主体となって改正論議が進んでいる。改正前から現行憲法の「国民主権」を犯していると言えるのではないだろうか?

憲法9条改正、防衛装備、自衛隊の海外派遣、武器の使用、集団的自衛権そして「「リメンバー・パールハーバー(真珠湾を忘れるな)」など物騒な文言・発言があふれている。戦前、戦時中に戻っていないだろうか?と、危惧される。

もし9条が改正されたら、苦難を背負うのは、将来の子供や孫たちだ。将来を担う子、孫たちに負の遺産とならないように願うばかりだ。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする