標高330mのモノローグ

富士山の10分の1、東京23区最高峰の10倍の山間に暮らして20年。地域の自然や思いを綴ります。

「虐待への対応」と「統計不正」の問題に共通する要素は?

2019-02-06 19:49:04 | 日記
10歳の少女が、父親の虐待により亡くなった。一時保護のケアを受けながら、児童相談所の対応の不備により、防げなかったという。昨年も児童相談所の連携の不備により少女が亡くなるという事件があった。何とも悲しい事件だ。
メディアでのコメントでは、わが国は「こどもを守る」という基本的な行動ができていないと指摘する。

今回の事件について、児童相談所長は、会見で淡々と経過を話す。児相の行為が不備であったことを認めているのだが、事の重大さの認識があるのだろうかと感ずる。
今回の事案は、組織運営、施設の不備など様々な面での問題点があるが、一番欠けているのは、「こどもが生きる」ことの大切さだろう。こどもを守ることは大人の義務だ。親とか、児相とか、学校とかの立場の問題にしてはならない。どの組織も当事者より、親や周囲の顔色を伺ってしまう。こどもより親の意向に沿ってしまう。また、児相は学校に対処を任せようとする。学校も児相や親に任せてしまう。親は、学校や児相とは対立の関係となる。児相はこどもより、自ら組織(を守る、の論理での行動)のことを第一に対処する。こども中心であるべきなのに、大人たちの塩梅で動いている。

これら、他人任せの傾向は、残念ながら日本社会、文化の中にその根もあると思える。
私も度々指摘するが、政治・行政の世界にも当てはまる。今回の統計不正問題の発覚についても、先ずは自らの組織を守るという考えから、厚労省は動き始めた。第3者委員による調査というのも名ばかりで、内々に済ませ、早々に処分とし、幕引きを図った。大臣も自分の行った行為でないので、責任はないとの態度。

第3者の調査報告書も厚労省の職員が作成している。国会の答弁書も詳細に至るまで内部で作成している。大臣等は、自らの発言をしないで、答弁書を読んでいるだけだ。

誰一人として、責任を痛感している者はいない。官僚や大臣の「今後二度と同様のことが生じないように厳正に対処していく」などという発言は何度聞いたことだろう。発言が悪いわけではない。眼前の事態の収拾を図るだけに終始するのではなく、未来に向かって誠実な行動を示し、正すべきは正して欲しい。
そのためには痛みもあろう。自らの痛みを感じたくないために、問題点をすり替えたり、他人の性にしたりする。痛みを一番感じているのは、当事者(こども)なのだ。何よりも当事者の痛みを第一に捉え、それに対処すべきだ。
コメント
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