標高330mのモノローグ

富士山の10分の1、東京23区最高峰の10倍の山間に暮らして20年。地域の自然や思いを綴ります。

やった大坂なおみ選手!おめでとう!

2019-01-26 20:25:12 | 日記
今日は、17時半から夕食を食べつつ、じっとテニス中継をを見ていた。
1セット目を取った大阪選手は、2セット目は相手のクビトバ選手に取られたが、第3セットは動揺せず、2ブレイクで、勝った。
この大会の大阪選手は試合を重ねるごとに強くなっていった。何より気持ちを立て直す術を得たのだと思う。

対戦相手のチェコのクビトバ選手もベテランらしく粘り強いプレーをしていた。
でも、それを超えた大坂選手の、プレーは、素晴らしかった。
おめでとうと。世界ランキングも1位になった。

今後の活躍に期待したい。
ドキドキハラハラしながら見ていた、妻と共に祝杯をあげよう。

大坂なおみ選手、本当におめでとう!!
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昨日の記事に写真を添付しました。今日は会議のため休みます。

2019-01-25 08:26:26 | 日記
昨日の記事は、写真を題材に書いたのですが、添付するのを忘れてしまいました。昨日の記事は再編集しました。
なお、今日は会議のためブログは休みます。
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夕日を浴び伸びた影法師。世界でひとつのもう一人の自分。

2019-01-25 08:22:39 | 日記
だいぶ日が延びた。今日は強風が吹いていたが、陽ざしは明るかった。16時過ぎでも西に傾いた太陽は明るい。天気予報によると、昨日から東京地方の日没時刻は17時台になったという。

タロ(犬)の散歩道の緩やかな下り坂で、背中に日没直前の太陽光を浴びるところがある。今日は16時過ぎで、タイミングよく背中に西日が当たっていた。私の影法師は、少なくとも10mは伸びていた。


夕日を浴びながーく伸びた影法師

よくよくみると影法師は、まぎれなく私だった。影なのでまったく口・目・鼻などは分かる由もない。しかし、伸びてはいるが、その輪郭は何十年間と鏡や写真で見た私に違いなかった。影も世界で一つの存在なのだと、しばらくタロの影と私の影を見つめていた。

帰宅後、ネットで“影法師”ということばの由来を調べたが、確固たるものは得られなかった。“法師”とは、仏教経典では人の師となるほどの学識・経験を備えた僧侶に対する敬称とのこと。また、僧侶全般に関する呼称、僧侶姿の呼称。中世以前においては、一人前でありながら自らの坊を持たない僧侶のことを指したとあるという。使われ方や時代によりニュアンスが異なるようだ。
そして、転じて人物一般の呼称、また、それらに似た物に対する呼称となっているとのこと。

次のような興味ある解釈もある。
ドイツ語でドッペルゲンガー(Doppelgänger)という言葉があり、「自分自身の姿を自分で見る幻覚の一種で、「自己像幻視」とも呼ばれる現象」とのこと。「自分とそっくりの姿をした分身。第2の自我、生霊の類。同じ人物が同時に別の場所に姿を現す現象を指すこともある。超常現象事典などでは超常現象のひとつとして扱われる」という。日本語でいえば幽霊もその一つかもしれない。

今日見た影法師は、私が移動すると、先に進むか付いてくる。光が無ければ消える。しかし、常に私の分身で親しみがわく。
子供の頃、影踏み鬼という遊びを行った。影を踏まれないように逃げるのに必死だった。まだその頃は、影に対する感慨はなかったが、子供ながら踏まれると、何となく心の痛みを覚えていたようにも思う。

散歩の帰り道の上り坂、すでに日は沈み、影法師はなかった。昼間ほど強い風ではなかったが、名残の北風が冷たかった。
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林野火災のため出動した消防隊が、現場は管轄地域外なので、引き返したという信じられない今日の出来事。

2019-01-23 20:30:59 | 日記
午後、地域の防災通知メールで林野火災を知らせるメールが流れた。私が住んでいるところからはだいぶ遠いが、隣接する市だ。そして、30分ほど過ぎてから、再びメールが入った。もう鎮火したのかと思い開いたところ、驚いた。

「先ほどの火災は、別の地域の担当エリアなので、出動した消防車などはすべて引き返した」というニュアンスの内容だった。

これは「対岸の火事」ということわざを実行しているだけだはないか。火災は地域には関係なく広がるのに。出動したのに管轄外だから引きかえすとは?
安心・安全のための消防隊であるはずだ。地域外でも、出動した以上消火に当たっても良かったのではないかと思う。

「所轄が違うので手を出すな!」というのは、ミステリードラマの中だけかと思っていた。しかし、生命の安全を脅かしかねない実際の火災でも、「所轄」を重んじた対応をしているとは? もし、我が地域に類焼したなら、他地域の消防隊は、引き返してしまうのだろうか? 

まさか“消防の管轄の領域まで、トランプ風の自己優先という「保護主義」が、浸透してしまったのではないか”と錯覚する。
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「いじめ母子心中」。“事勿れ主義”“穏便に”という対応の結果か?

2019-01-22 21:23:07 | 日記
昨日、「いじめを苦に母子心中した父親が市長・教育長あてに、調査を求める要望書を出した」というニュースが流れた。
いじめは学校も把握し、保護者とも話し合っていたが、学校や教育委員会は、事態の深刻さに十分な対応をしなかった。
このため母親と長女は体調を崩し、精神的に追い詰められ、昨年11月に母子が無理心中をしたという。

教育や福祉だけではないが、ある課題への対応が不十分なために大切な命が失われるということは、絶えない。いじめ、パワハラ、モラハラ、長時間労働など自死至るケースが目につく。

これらに共通するのは、本来課題に正面から取り組まなければならない側(学校や福祉施設、会社、行政機関など)の“事勿れ主義”や“穏便に”という姿勢の表れではないかと思う。

“事勿れ主義”を広辞苑では「(『事勿れ』は、これという事件がないように、の意)ひたすら何事も起こらず無事ばかりを望む消極的なやり方。」とある。
また、同様に“穏便”は「おだやかなこと。かどがたたないこと。」となっている。

とくに組織の中では、上位に行けば行くほど、そう願うようだ。
私が中間管理職として勤めた職場で次のようなことがあった。
課長として赴任した初日だったが、課長席に座り書類等を机の引き出しにしまうため開けたところ、奥には封筒があった。

その封筒の宛先は前任課長宛てで、サービスの利用者からのものだった。
すでに開封されていたので、前課長は目を通していただろう。中を読んで驚いた。
サービスに係る苦情申し立てであった。この組織では課長が苦情処理の責任者だったからだ。

私が赴任したのは4月1日だった。その手紙が書かれたのは正確な日付は忘れたが3月中旬だった。その時期は、移動の内示がされた後だった。
前課長は悩んだだろうが、自らの安泰を選んだのか。移動に係る事務引き継ぎの際には、この苦情申し立て書の存在の申し送りはまったくなかった。

この申立書を読んだ直後は、切なさというか情けないというか、もやもやした気持ちになったのを覚えている。同時に、これは取り上げなければならないという気持ちも沸いてきた。

この苦情の処理について、私の上司は言葉には出さないが、“穏便に”というニュアンスがあったのは歪めない。私はその意向を忖度しようと思えば、できたのかもしれない。しかし、実際は組織あげて苦情として取り上げ、第3者委員に依頼・相談しながら対応した。結果の良し悪しは疑問だが、申立人と管理者と話し合いの場を設け、和解ということになった。方向としては“穏便”だったのかもしれない。しかし、そのプロセスにおいて、第3者委員の活用と申立人と管理者の話し合いができたのは評価できる点だと思う。

今日の主題からそれた。本題に戻ろう。
自死という結果に至らないためには、“事なかれ主義”“穏便に”の観念で動くのではなく、課題が発生した初期の段階で取り組んで欲しかった。このとき、“いじめ”の事態は、ネガティブで忌み嫌うもので“問題”ととらえがちだ。しかし、たとえネガティブな事案でも、“課題”として捉えたらどうだろうか。いじめをする人にとってもその行為を行ってしまうのは“課題”だ。いじめを受ける人にとっても“”課題だ。両者の保護者にとっても“課題”だ。そして、対応する学校側などにとっても“課題”なのだ。“問題”ととらえると、どの立場の人もネガティブで、忌み嫌う、厄介なものとしてイメージしてしまう。

“問題”としてではなく “課題”として捉え、ポジティブな方向へと向かうというスタート地点に立てばよいのではないかと思う。

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