スサノオ尊について昨日書きましたので、今日は月読尊(月夜見命、月詠尊)について感じたことを書きます。
古事記ではイザナギ命が黄泉国から逃げ帰って禊ぎをした時に右目から生まれたのが、月夜見尊、もう片方の目から生まれた天照大御神です。
月夜見尊はこの話しの後古事記で語られることはありません。では、何故語られないのか?
私なりに色々考えましたが、陰を嫌う、陰ゆえに隠すのかな、あとは、隠さないといけない何かがあるのかも、とも思いました。
月は、夜空のどんな星より地球にとって明るい存在ですが、自ら光るわけではなく太陽光を反射することにより光って見えるだけです。太陽のお陰で光って地球からは見えます。
本来の形は変わらないにも関わらず、太陽が地球を照らす部分が月に投影され、影(陰)をつくり毎日毎日姿を満月→新月→満月と変えます。
それは、太陽が人にあたり影を作りますが、物体の影は太陽のあたる角度、季節によって刻々と変化することにも似ています。
月がないと、地球は存在出来ないと言われています。地球の引力にも作用して海の干満に作用します。お産も満月(月が満ちる)が安産になり易いとも言われていますし、ワイン好きの友人が言っていましたが、葡萄の味は月に影響していて、葡萄の収穫時期は月の満ち欠けを目安にするとか。
太陽ほど華々しくは無いけれど、地球が様々な生命の循環を繰り返す為になくてはならない隠れた存在が月です。
面白いことに、地球と同じように月も自転と同時に公転している為に月の裏側を人は肉眼で一生見ることができないと言われています。謎の多い惑星です。

日(太陽)の影響を受けながら、地球に多大な影響を与える月。
太陽(日)に近づいたり (=明) 離れたり (=日 月)しながら、見せかけの姿を変える月。
この月を指す月夜見尊が天照大神より前に右目から生まれます。明るいの漢字も右が月です。陰陽は陰が先で次に陽です。あとから左目から生まれたのが天照大神=陽です。
両「目」で物を「見」るとはっきりと「明」るく見えるのは、この2つの目は、「日」(天照大神様)と「月」(月夜見尊)の明(日+月=ヒツキ)を見る、ということでしょうか。漢字のつくりが全て似ています。
この、日と月の漢字を持つ観音様がいらっしゃいます。
薬師如来の脇で祀られることの多い日輪観音(左)と月輪観音(右)です。この如来様は人々の病に対処するための薬を手にお持ちで、昼夜人々を助けるので、日と月の観音様といると聞いた事があります。

月に関しては、ローマ神話でLuna ルナは月の女神様です。このlunaはラテン語からですが、これを語源にする英語lunaticは「狂気の」という心の病に関連する意味に派生します。
陽、長所、明るい部分だけを重んじるとこがありがちです。勝負も、勝てば官軍、負けたら敗北、歴史においても跡形もなく消されます。
この陰陽の陰、短所、暗い部分を月が背負って吸収しすぎると影を濃くして身体や色んな所にまで影響が出る=lunaticな状態になるのかもしれません。
一方、太陽光についてですが、絶大な恵みを与え生命を育み循環させますが、実際はそのエネルギーの強大さから地球の磁場が無ければ太陽光が地球の海と大気を奪いすべての生き物は生きられないそうです。
つまりは、陰陽、短所長所、暗い明るいところ、大小あっても、両方が不可欠かつ、ホドホドがよく行き過ぎはどちらもダメで、バランスがピッタリとれたら和になります。
ところで、2年前伊勢神宮を妹と妹の友人と参拝しました。その当時、職場の人間関係で私の心はスサんでいました。そんな私を心配して妹が長年友達と2人でずっと参拝していた伊勢神宮参拝に私を誘ってくれました。
外宮の近くの月夜見宮を初めておとずれました。私が御神木があまりに見事なので眺めていると、妹が動かないで!と写真を撮ってくれました。凄い御神木が光っていたとの事で確かに写真も光っていました。妹の撮る写真は何故か光ります。
その月夜見宮の写真は私のお気に入りです。
神社に参拝すると、ひとつひとつ心の邪が削がれます。辛い気持ちの中に、自分を顧みる所、弱い所、悪かった所も見つけます。今では日々穏やかに暮らせるようになりました。月夜見宮の陽光は、何か行き過ぎて、本来の自分を失いかけた私に優しく語りかけてくれたようにも感じています。
因みに余談ですが、元伊勢の籠神社には日と月を合わせるお守りが、新月と満月の決められた時だけ手に入れられるようです!欲しいなぁ。

【画像は月画像検索、薬師如来三尊像画像検索、籠神社HPより】