雨垂れ石をも穿つとは、どんな事でも一心に続けてやると雨水でさえ石に穴をあけることができる、という継続の素晴らしさを表すことわざです。昔から好きな言葉のひとつです。
お山の神様の事を教えてくださった山さんに会ったとき、私は水を眺めると良いですよ、と言われました。妹は高い所に行くとエネルギーチャージされると言われていました。
山さんに会った当時の私は職場の人間関係に悩み、心が濁って淀んでいました。そんな自分が嫌にもなりました。気持ちを切り替えるのがこんなに下手な人間だと思いしらされました。
山さんと別れた後、桂浜に連れて行ってもらいました。私の心のように、あの時の桂浜は綺麗ではありませんでした。心が今ははっきり変わったと実感しています。この間訪れた桂浜は最高に綺麗でした。
海や川は大好きで、家族旅行はもっぱら海や川。子供より子供に戻り、全身でずぶぬれになり童心に戻り遊びます。私は川や海を見たり、泳いだりするのが好きです。流れる水は無常と循環の象徴ですね。
だいぶ昔。津野町力石で水遊び
ところで、穴が空いた石を実際に見たことがあります。耳の神様の場所です。石は2つです。耳の神様だから2つなのかな。ひとつは以前妹達が参拝した時に草むらから見つけたようで、祠に奉納していました。
もうひとつは、この間母といった時に見つけました。耳の形に似ていました。
山の中なのに、穴の空いた石が2つも出てくるなんて、耳治しのために昔は石を誰かがここに奉納し祈願したんやねぇ、と母と話しました。誰かがおそらく昔置いたのでしょう。石板の上に2つ目の石は置かれていました。
耳の神様は、「人と、神をつなぐ」神だと教えてもらいました。御神体は穴のあいた石、つまり磐笛です。
自然の石や岩に穴があく。不思議です。石に穴をあけるのは水で間違いないのですが、雨かな?いや違う、、
ふと、耳の神様の石の写真を眺めながら水は水でも、「涙」かもしれないと思いました。
何年も、何十年も積もった悲しみ。
届かない思いの蓄積。
滴る涙。
大きな石を貫通させてしまうほどの深い悲しみ。
石にあいた穴に通じる心、悲しみの心の声、無言になった声に共鳴できる人のもとに石は辿り着くのだとも思いました。言葉では伝えられない思いを奏でて欲しいと。
磐笛は御神器であり、耳の神様の御神体。
笛は、穴に人が息を吹きかけ、息が空洞(筒)を振動し、音色を奏でます。そして神と人が共鳴した時、癒しがおこるのだと思いました。
昔この場所に穴の空いた石を持ってきた方がいて、そして、神様に言葉にならない悲しみを語りかけたのだと想像します。その方の悲しみを無言で聴いて心を癒した耳の神様が確かにあの場所にはいると思いました。
そして、何十年も昔にお山のお宮を下ろしてしまったことを発端に、金比羅様や恵比寿様をお護りする耳の神様は、お護りする神々へ土地の人がした不敬に怒りました。パタリとお祀りが途絶え参拝に誰も来なくなり、そうして、忘れさられた深い悲しみの思いを何十年も石に刻んだのかもしれない。
コウジンゴウと地元で呼ばれている耳の神様。この地で見つけた石に貫通した穴は、色んな深い悲しみの傷跡を私に想像させました。
母や妹の周囲でおこった耳に関わる(不可解な)出来事から、母は幼い頃に歩いて側を通っていた耳の神様の祠を思い出しました。母はそれを「ドカンと降りてきた」と言いました。
居ても立っても居られなくなり、車を走らせ津野町力石に飛んでいき、頭を擦り付けて謝ったといいます。母のその思いは石の穴から通り抜けて、耳の神様に伝わったと信じています。
耳で実際聴こえている音は、実は雑音かもしれない。目で実際見えるものは、実はそんなに大事でないかもしれない。
声なき声を聴こうとする耳、見えないものを大切に思う心眼、これを持てるようになりたいと思いました。
2度と同じ過ちを繰り返さないと、これからも津野山神界の耳の神様の御神体として、あの場所で磐笛を大切に祀らなければならないと思いました。
そして、磐笛について教えてくださった方がやっていらっしゃるように、山のすぐ麓を流れる綺麗な四万十川の水で磐笛を沐浴してさしあげたいねと妹と話しました。