母は、神社に鈴を奉納しました。この神社の御神木は雷に打たれて、その後、土地の人に切られて本当に可哀想、奪われるばかりで可哀想、だからせめて社に鈴を奉納し、与えることをしたんだと言っていました。母が奉納した綺麗な新しい鈴が社殿につけられています。
御神木に雷が落ちる、台風で倒木する、自然がなせることで仕方がないです。ただ、雷が落ちた御神木が倒れ、社殿を壊す恐れがあるから切るというのは、お山に神様がいる事を教えてくださった山さんご指摘の通り、大変に失礼なことだったのだと思いました。
日本書紀の「神の道を軽(あな)づること」といった条に「生国魂社(いくくにたまのやしろ)の木を切りたまう類これなり」とあります。神社の木を切るのは、神の道を軽んずることだと。御神木への態度は人の心を顕しているのかもしれません。
神社にいくと、たまに、木の切り株から新たな命が生まれていたりする姿を見かけます。凄い生命力と、必死に生き続けようとする姿に感動すら覚えます。
鶴岡八幡宮の御神木の銀杏が倒壊したニュースが2010年に流れました。鎌倉に行った際は何度か立ち寄り参拝させていただいた神社で、記憶に深く残る御神木でした。
鶴岡八幡宮御神木画像検索より
今どうなっているかなと調べると、台風で倒壊したからはいさようなら、ではなく、再生の道を辿り、銀杏のあった元の場所に芽生えたひこばえから選抜された若木が植えられ、数メートルになっているそうです。
母が生まれた土地の氏神様の御神木も、石碑でなく、再生の道を模索できなかったのかなと残念に思います。もう過去には戻りませんが。
山さんがいうには、今では違う木がこの神社の御神木になっているので、その木を大切にしてくださいとのことでした。
無くなった御神木は大人7、8人が手を広げて囲えるほど大きかったそうです。磁場のエネルギーが高くないとそこまでは育たないだろうと思います。
太古は社殿は無かったため、何となく感じる磁場だったり空間の清浄さ、なんとも言えない優しい感じだったり、自然の木々や磐座なんかに人知を超えたエネルギーを感じ、畏怖と敬虔な気持ちを捧げ祈ったのだと思っています。
時代の変遷や風景の変化とともに、そのようなわかりにくい自然崇拝はなくなりやすいから、「肉眼で」見える社殿を建て祈りを継続させたのだとも思っています。
神社では御神体や御神木とされる木々や磐座、山や滝、また脇を流れる小川とそのせせらぎ全てを含む空間の氣を感じるのが好きです。
傷ついた自然の命があれば、自然の形での再生を人は模索し、破壊は神様にお任せするのが神様を信じる道に繋がるように思います。