気比神、ツヌガアラシト、神功皇后、神宝など取り留めなく書いてきました。
これらは、夏の九州旅行から持ち帰った宿題で、気比の神様が九州に沢山祀られているのは何故だろう?どうしてだろう?から始まって調べたことでした。
九州は大陸との窓口でしたから、遺跡や太古の跡地、神社にも様々な神話と結びつくものが多くありました。そして、そこで見せられる小さな生き物にさえ、何らかのメッセージを感じました。
九州の宗像大社のそばにあります、織幡神社を参拝した時に、小さな白蛾を見つけました。
白蛾について、気比神に纏わる話が残っていますので、まずは紹介します。
ケヒ神の原名を、『記』仲哀天皇段は、イザサワケ(伊奢沙和気)神であったとする。このイザサワケ神は、のちにヤマト朝廷ではケヒ(笥飯)神とよばれることになるが、その段階になって、この神への直接のかかわりをもつ記事が出現するようになるのは、六九二年以来のことである。
すなわち、越前(現、福井県)国司が、角鹿郡の浜で白蛾をとり、これを祥瑞として献上したために、朝廷は「笥飯神」に封戸二〇戸を加増したというのがそれである(編八八・八九)。
とありました。
織幡神社で白蛾を見たときに、機織りの蚕を想像しました。この神社は、神功皇后が三韓征伐の際の幟をおったとされる神社でした。
この角鹿の白蛾を献上の話から、シラガとシラギ(新羅)は響きにも似ているし、白蛾(シラガ)は、新羅経由で来た渡来人を指しているのかもとか想像を膨らませました。
新羅という国はかつて朝鮮にあり、白村江の戦いなど日本とは因縁が多い国です。
ところで、日本へかつて多く渡来した秦氏は新羅を経て5世紀中頃に渡来した氏族集団と考えられています。渡来する際、新羅人の妨害にあうも、武内宿禰の子(仁徳天皇と名前を交換した平群木菟)らの助けで日本に渡来できた話がありました。
また、秦氏が多く住んでいたとされる地域から発掘された瓦は新羅系のものが圧倒的に多いようです。
日本書記に、第14代「仲哀天皇」の時代、弓月国の王が日本の朝廷を公式訪問し、養蚕の蚕の種を献上したとありました。この、中央アジア弓月国にいたユダヤにルーツをもつ一族は、秦氏と関連性があるようです。
応神天皇の子、仁徳天皇の代に秦氏は秦姓を賜り、雄略天皇の代に太秦の地を賜ったとされます。
「秦」は「はたおり」の「はた」と関連しているともいわれ、文字どおり、養蚕、絹、麻、木綿などの織物産業に優れた才能と技術を有する一族であり、また、土木建設業、瓦製造業、金工、刀剣製造、酒造などの幅広い技術を手中に収め、古代日本における大いなる職能集団でした。
秦氏が絶大な影響力を日本に及ぼしたのは間違いないですし、八幡神社のハタも秦氏のハタと同じです。宇佐神宮でみました、小さな神様八幡大神の説明が書かれた話は、まるで、神話で語られるスクナビコナのようでもありました。
宇佐神宮では、八幡大神は応神天皇(神功皇后の子)とされています。
これらこのとから、新羅を経由して渡来してきた秦氏と八幡大神には関係があると思いました。また、神代の時代、大国主命を助けたスクナビコナ神は、一寸法師のモデルというイメージだったのですが、応神天皇や秦氏と結びついてしまいました。
つづく