ワニをトーテムにしたワニ一族について書いてみます。
ワニには色んな漢字があてられますが、古墳時代の米餅搗大使主命(たがねつきのおおおみのみこと)が和珥氏の祖です。
米や餅をついた名前の米餅搗大使主命がワニ氏の祖とは、言霊から、米や餅に縁があるというのは、因幡の白兎や月をイメージします。
ところで、古代史の中でワニ氏が出てくる場面は、神功皇后の摂政時における忍熊皇子の反乱の際、討伐に遣わされた人物、または和珥武振熊(わにのたけふるくま)🟰難波根子建振熊命とも言われています。
菟道稚郎子と忍熊皇子の逸話が似ている点は以前書きましたが、菟道稚郎子の家庭教師に王仁(わに)博士がいました。ワニさんなだけに、こちらも、ワニ一族なのでしょうか。儒教と千字文を日本に伝えた優秀な御方でした。
難波津に 咲くやこの花 冬ごもり
今は春べと 咲くやこの花
これは、百済から日本に渡来し、儒教や漢字を伝えたという王仁博士が仁徳天皇の即位を祝って詠んだ歌とされています。
仁徳天皇の異母兄弟であり、応神天皇から次期天皇にと将来を託されるも、兄に皇位を譲るために宇治川で自害したとされる菟道稚郎子の家庭教師が王仁博士です。
菟道稚郎子の家庭教師の王仁博士が生きたのは西暦300年ごろ。
仁徳天皇への讃歌とありますが、繰り返される皇位継承争いの悲劇を嘆いた歌のように私には感じます。
王仁博士が菟道稚郎子のそばにいた御方だとしたら、菟道稚郎子を木の花に例え、冬ごもり(お隠れ)されましたが、春(日の出の世)になると、木の花を自然と咲かせれように、あなたの辛かった思いも春の陽気に導かれ咲くトキがくるでしょう、とかいう意味のように感じてしまいました。
この難波津や〜の和歌のTシャツは、実は百人一首好きの娘ご愛用。我が家では、夏はよくみます。😊
娘によると、この和歌は百人一首の試合が始まるのを知らせる序歌だとか。今まで王仁博士の詠んだ歌とは知りませんでした。
始まりの和歌、、なんですね。
歌の言霊にのせて奏でる思いは、
喜びも悲しみも美しい。
富士山は、全ての始まりの山なのかもしれない、「この花」は始まりの花なのかもしれないと、今はそう感じています。
コノハノサクヤヒメとは、富士山山頂にある浅間大社の御祭神。「この花咲くや姫」のことですが、この女神の名前を和歌に詠んだ御方が実は王仁博士だとは、、。
コノハノサクヤヒメには桜のイメージがありますが、
驚いたことに、
木の花とは「梅の花」の意味であるようです。
荏原神社 梅とエビスさま
梅は他の花に先立って咲くため「花の兄」とも呼ばれ、
木の花を「兄の花(このはな)」とも書くようです。
ところで、昭和のカリスマである、出口王仁(オニ)三郎氏について王仁繋がりで書いてみます。実は、王仁三郎氏を知ったのは1〜2年前で詳しくはないのですが。。
王仁三郎氏は大本教創始者であり、強烈な個性と魅力により、昭和前期の大本を日本有数の宗教団体に発展さ聖た御方です。
王仁三郎氏は、本名の喜三郎氏の名前の喜を鬼へ→王仁にしたようですね。王仁には、ワニに響きがあるから、私には和して喜び、ニッコニコ、仁の御方、「和仁」のようなイメージも王仁三郎氏の逸話を知るにつけ感じます。
そして、オニの響きからも、何故鬼が鬼にされなければならなかったのか、、?陰陽の絡まったニホンの糸を🧵ただ(糺)し、ニホンを大元、大本に糺して和を以て尊しとする、これをオニの響きから感じます。
ニホン、日本人、大和の人の役目は大きいなと感じます。和です!
艮の金神、国常立神、金龍が御坐す山が富士山。この艮の金神を隠した歴史、富士王朝の歴史についてはまた近いうちに書いてみたいと思います。
元主(もとす)の神(元を糺す、統べる神、主)。
ところで、王仁三郎氏が明治31年の高熊山修行の際に、木花姫命の神使・松岡芙蓉仙人が一番最初に連れて行かれた場所が、富士山、皆神山でした。
また、大本神諭には、
「三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ。神が表に現れて三千世界の立替え立直しを致すぞよ」
という言葉があります。
「この花」は梅の花。
菟道稚郎子の家庭教師の王仁博士は、冬ごもりして春を待つ花として木の花(梅の花)の和歌をよみ、
また
王仁三郎氏の大本神論では、
梅の花が三千世界に一度咲く、艮の金神の世になりたぞよ
とあります。
令和というのは、梅の花を愛でる時代。
富士山と山中湖