大善人へ身魂磨き

善でありたいと思う。日々精進。感情の渦に呑み込まれそうな時もあるけれど最後には明るく静かな大海原に和合したい。

ワニ族 ②難波の地名縁起

2022-12-26 05:43:00 | 神仏について

応神天皇(神功皇后)vs忍熊皇子の際、忍熊皇子の討伐に参加したのが、和珥武振熊(わにのたけふるくま)🟰難波根子建振熊命。


応神天皇の子、仁徳天皇に皇位を譲ったのが異母兄弟の菟道稚郎子。その家庭教師が王仁博士。王仁博士の詠んだ和歌が


難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花

また、難波。。


難波にある神社で妹が参拝した難波八坂神社。



大阪巡礼 ①難波八阪神社 - お山にお宮がたちました

大阪巡礼 ①難波八阪神社 - お山にお宮がたちました

大阪巡礼のスタートは難波八阪神社からです。姉が外国人にとても人気のある神社が、ホテルの近くにあるから行こうよと言うので、お詣りすることにしました。ネットで調べて...

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どちらも、ワニさん。和珥の漢字は、和と王と耳。この名前も、気になるところです。耳は、角のような、アンテナのようなイメージです。

🐊🟰ワニ🟰鰐🟰和珥🟰和邇🟰丸邇🟰丸🟰王仁🟰オニ🟰鬼

沢山の漢字や響きからイメージを膨らませます。


鰐は水とは切っても切れない。水は陰の要素。しかも、因幡の白兎の中では、鰐なのか鮫なのかの議論さえあるようです。

鰐🐊?鮫🦈?

共通点は、どちらも水の生物としては最強かな。これは、陰陽の陰を司る陰極まる一族の象徴なのかも?です。


陰極まれば、陽転するわけですが、、消されたり、隠されたり鬼にされながらも、この花が咲く🟰3000年に一度の梅の花が咲く時間を待たなければいけなかった方かもです。。。


八坂神社は、スサノオ尊を祀る神社です。


難波八坂神社の八は、ヤマタの大蛇の八とかをイメージし、また、坂からは、サカ族思い浮かべます。


難波は、波が難しい。船乗りには梶がとり難く、海人族には、なかなか難しい土地なのかも、、です。


この難波八坂神社に纏わる話に下記の話があります。


仁徳天皇の時代、この付近一帯に疫病が流行り出したところ、牛頭天王が現れたのでこれを祀ったのが当社の始まりとされる。それ以来「難波下宮」と呼ばれており、難波一帯の産土神となりました。


19745月に完成した獅子殿という素盞嗚尊の荒魂を祀る大きな獅子の頭の形をした舞台があることで有名で、関西ならではのユーモアも感じますね。


王仁博士に関しては大阪を中心に多くの伝承地があるようですね。ユニバーサルジャパンがあるのは大阪の此花区(コノハナ区)。




太古の昔に、論語を日本にもたらして、


難波津に、咲くや木の花冬籠り、

今を春べと咲耶 木の花


と詠んだ、王仁博士の縁がとりわけ強いようですね。


此花区の西側は古代の難波津、今の大阪湾に面していたようで、渡来人の王仁博士と海との関連が感じられます。古代の大阪や、難波あたりは日本と大陸の交流の中心地であったといえそうです。


応神天皇時代、忍熊皇子を討伐した難波根子建振熊命(ワニ氏)

応神天皇の子、菟道稚郎子(仁徳天皇に皇位を譲る)の家庭教師であり、難波津に〜の和歌を詠んだ王仁(ワニ)博士。


忍熊皇子、菟道稚郎子ともに、関西の宇治川で亡くなっており、大阪湾にそそぐ宇治川からは、瀬戸内海を経て朝鮮半島につながる難波江との繋がりも感じます。古代から大陸に開かれた日本の門戸が難波ともいえそうです。


それ故に、さまざまな人が入り乱れ争いも絶えず、皇位継承争いにより辛い非業の最期を遂げるものも多くでた地といえそうです。陰陽にわかれての一大対決、記紀神話は深くよむと、敵すらも味方のように描き、エネルギーをとり込む仕組みがありそうに思います。それは、敗者の御魂を取り込みあげるのか?もしくは、隠蔽か?はわかりませんが。。


難波八坂神社創建は、菟道稚郎子が皇位を譲った仁徳天皇の時代に疫病が流行った話がありました。諸々の話を繋げると、祟りへの鎮魂のお宮、もしくは封印のお宮なのではないかとも思いました。


楽しい遊園地のような🎡エネルギーの集まる地、お笑いの地、笑ってなんぼの地は、太古において陰が蓄積された地を少しずつ人のエネルギーにより癒しの地に変えるのかもですね。



妹のブログより難波ネギが有名だとか。ネギは禰宜。「労(ね)ぐ」と言う言葉に由来し、神意を慰めると言う意義を持ち、古くは祈祷を行なう者のこと。


今は、難波ネギ、身体に良いネギを食べてねぎらいましょう、かな。鴨肉とネギを使った鴨なんばの由来だとか。鴨からは、加茂族を思います。役小角は加茂族。鴨と葱がマッチングして、食も和することでさらに味わい深くなる。



難波葱



鴨なんば


日本はどんな無念な思いをもってお亡くなりになった御魂も、神上がりするようにと、縁ある身魂が鎮魂して魂を天にと祈ります。それは、敵味方関係ない。

その御方が生きた時代の苦労も含めて労う(ねぎらう)事も意味する気もします。

土地の地名や逸話、食すらも繋げ想像すると、人々の積年の故人や土地への慈しみや本当の愛を感じられる気すらします。


神をおもう気持ちや善意に、我がなくなれば、素晴らしいですね。


神社ではお願いではなく、感謝の参拝が大切。

参拝者の身魂と、自然を交わらせる、また、かつて生きた御霊(生きたかった身魂)を交わらせる、そういう純粋な祈りの地こそが自然と様々なな思いを霧散させたり溶かすのかもなと思いました。



つづき


ワニ族

2022-12-25 05:28:00 | 神仏について

ワニをトーテムにしたワニ一族について書いてみます。

ワニには色んな漢字があてられますが、古墳時代の米餅搗大使主命(たがねつきのおおおみのみこと)が和珥氏の祖です。


米や餅をついた名前の米餅搗大使主命がワニ氏の祖とは、言霊から、米や餅に縁があるというのは、因幡の白兎や月をイメージします。


餅つき夫婦円満、杵と臼


ところで、古代史の中でワニ氏が出てくる場面は、神功皇后の摂政時における忍熊皇子の反乱の際、討伐に遣わされた人物、または和珥武振熊(わにのたけふるくま)🟰難波根子建振熊命とも言われています。


菟道稚郎子と忍熊皇子の逸話が似ている点は以前書きましたが、菟道稚郎子の家庭教師に王仁(わに)博士がいました。ワニさんなだけに、こちらも、ワニ一族なのでしょうか。儒教と千字文を日本に伝えた優秀な御方でした。


難波津に 咲くやこの花 冬ごもり

今は春べと 咲くやこの花


これは、百済から日本に渡来し、儒教や漢字を伝えたという王仁博士が仁徳天皇の即位を祝って詠んだ歌とされています。


仁徳天皇の異母兄弟であり、応神天皇から次期天皇にと将来を託されるも、兄に皇位を譲るために宇治川で自害したとされる菟道稚郎子の家庭教師が王仁博士です。


菟道稚郎子の家庭教師の王仁博士が生きたのは西暦300年ごろ。

仁徳天皇への讃歌とありますが、繰り返される皇位継承争いの悲劇を嘆いた歌のように私には感じます。

王仁博士が菟道稚郎子のそばにいた御方だとしたら、菟道稚郎子を木の花に例え、冬ごもり(お隠れ)されましたが、春(日の出の世)になると、木の花を自然と咲かせれように、あなたの辛かった思いも春の陽気に導かれ咲くトキがくるでしょう、とかいう意味のように感じてしまいました。


この難波津や〜の和歌のTシャツは、実は百人一首好きの娘ご愛用。我が家では、夏はよくみます。😊

娘によると、この和歌は百人一首の試合が始まるのを知らせる序歌だとか。今まで王仁博士の詠んだ歌とは知りませんでした。




始まりの和歌、、なんですね。

歌の言霊にのせて奏でる思いは、

喜びも悲しみも美しい。

富士山は、全ての始まりの山なのかもしれない、「この花」は始まりの花なのかもしれないと、今はそう感じています。


コノハノサクヤヒメとは、富士山山頂にある浅間大社の御祭神。「この花咲くや姫」のことですが、この女神の名前を和歌に詠んだ御方が実は王仁博士だとは、、。

コノハノサクヤヒメには桜のイメージがありますが、

驚いたことに、

木の花とは「梅の花」の意味であるようです。



荏原神社 梅とエビスさま



梅は他の花に先立って咲くため「花の兄」とも呼ばれ、

木の花を「兄の花(このはな)」とも書くようです。




ところで、昭和のカリスマである、出口王仁(オニ)三郎氏について王仁繋がりで書いてみます。実は、王仁三郎氏を知ったのは1〜2年前で詳しくはないのですが。。

王仁三郎氏は大本教創始者であり、強烈な個性と魅力により、昭和前期の大本を日本有数の宗教団体に発展さ聖た御方です。


王仁三郎氏は、本名の喜三郎氏の名前の喜を鬼へ→王仁にしたようですね。王仁には、ワニに響きがあるから、私には和して喜び、ニッコニコ、仁の御方、「和仁」のようなイメージも王仁三郎氏の逸話を知るにつけ感じます。





そして、オニの響きからも、何故鬼が鬼にされなければならなかったのか、、?陰陽の絡まったニホンの糸を🧵ただ(糺)し、ニホンを大元、大本に糺して和を以て尊しとする、これをオニの響きから感じます。

ニホン、日本人、大和の人の役目は大きいなと感じます。和です!


艮の金神、国常立神、金龍が御坐す山が富士山。この艮の金神を隠した歴史、富士王朝の歴史についてはまた近いうちに書いてみたいと思います。

元主(もとす)の神(元を糺す、統べる神、主)。


ところで、王仁三郎氏が明治31年の高熊山修行の際に、木花姫命の神使・松岡芙蓉仙人が一番最初に連れて行かれた場所が、富士山、皆神山でした。


また、大本神諭には、

三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ。神が表に現れて三千世界の立替え立直しを致すぞよ

という言葉があります。


「この花」は梅の花。


菟道稚郎子の家庭教師の王仁博士は、冬ごもりして春を待つ花として木の花(梅の花)の和歌をよみ、

また

王仁三郎氏の大本神論では、

梅の花が三千世界に一度咲く、艮の金神の世になりたぞよ

とあります。


令和というのは、梅の花を愛でる時代。


坂本八幡宮 令和と梅

そして、先日は姉と行った富士山に、私はクリスマスイブに妹と再び🗻訪れました。

元を糺す始まりの世、夜明け、日の出を、陽光が照らす富士山を見ながら年末に感じました。


富士山と山中湖


キリストのヨーガ

2022-12-24 07:20:00 | ひとりごと
少し前に知人からお借りした本キリストのヨーガからの一説をご紹介します。


相対立するものは常に闘いの中にある

平和は戦いの否定ではない

悪を否定したからといって

有徳になるものではない。

醜いものを否定したからといって

美しいものになるだろうか。

何ごとであれ、

それを否定すること自体が

闘いを造り出すものである。

美は決して対立の否定の結果ではない。

平和は戦争の否定ではない。

なぜなら、

戦争はわれわれ自身の投影だからである。

理想主義者は理想に追随しない人々よりも葛藤を引き起こしているのではなかろうか。

理想はものごとよりも人間を分割しているのが事実である。

右に傾いている人も左に傾いている人も、各々の観念に追随しているだけのことではないのか。 

闘い、戦争、憎しみに導いているのは、

人が自分の考えの方が他の者の考えよりも重大であると思っているからである。

観念なるものが何であり、

それがいかにしてわれわれを分割するかを知って

初めて和解が可能である。

われわれは、何らかのグループにしがみつくが、それは安全でありたいからである。

この意識がわれわれにある安全感を与える。 

しかし、人々の何らかのグループへの帰属意識は、分離と崩壊と戦争とを意味するものであって、そこには何らの安全もない。 

右にしろにしろ、自分のイデオロギーをすべての人々に信じてもらうというのが、あらゆるイデオロギー論者の夢である。

しかし、そんなことは不可能である。 


ここまで



なんだか、聖者のお言葉は重みがありますね。


自分の意見を否定されると嫌なもんだし、自分は平和を望んで戦争は悪だと思ってました。


しかし、その戦争でさえ自分の投影だとあります。


和解には他者を否定から入ってはイケナイのですね。


否定されても、受容する、右の頬をうたれたら、左の頬も差し出す。キリスト。


私には難しい。


右の頬を打たれたら、まず私は逃げますね。

手を挙げるような人が周りにいなくて良かった。😮‍💨


私の右の頬をもし打つ人がいたとしたら、その痛み(心の痛みを含め)が治り癒えるまでその人が大嫌いのままだろうなぁと思います。


罪を憎んで人を憎まず。


聖人は凄いですね。どこまでも、気づきなさいと言われている感じがします。

キリストは亡くなる時、誰もが憎むような相手に対し、主に許しを願います。

彼らは自分のしている事を気づいていないのですと。


戦争も、根っこには思いと思いのぶつかりがあり、どちらも自分は正しいと思ってやっているのでしょうね。


さらに、マスメディアにより色付けされた報道により、思い込まされたイメージが周りにまで広がり出来上がってしまう。


その「思いゴミ」の意識は、重い駒のように、重いと重いの対立の戦いに勢いをつけ、ただ有限の碁盤の目の中にいることも気付かず、まるで囲碁の石やチェスの駒♟️のように白黒勢力範囲をある意図により無限に拡げていこうと試みます。


そして、両者共にグループを広げ、どちらかを廃絶させるか、どちらもゲームオーバーになるまで、自分の正当性を主張し続けます。限りある命、こんな風に費やしながらグループへの帰属意識は、自分に正しさへの安心感と「絶対」正しいという意識をさらに加速させます。。

しかし、正邪の戦いや他者への否定意識や他者を殺そうとする意識は、地球には負の意識として蓄積され、それは地球が引き受けて一生懸命無言で浄化するしかないものなのかもですね。地球は、真逆の他を活かす、生かす生命体だから。


様々な問題に直面し、善悪白黒つけそうになったら、自分の中にある分離意識を気付きなさい、って言われている感じです。

それがまさにゴミ意識、地球に重い波動となり負担をかけてしまっているかも。


なら、その重いは手放したらどうなるかな、、。


そして、思考や心を鎮めると、

まるで今までの濁り水のような渦が、静かに放っておくことにより、次第に重いは沈殿し純粋に軽くなった真水と泥に分かれます。

泥は沈むしかない。

放っておくと、静かの中から誠があらわれ誰も否定できない真実を明らか見せてくれるのかも。


キリストのヨーガで強調されていたのが、静寂。そして、自我を静かな中で否定せず徹見することでした。自我が泥になって沈むまで時間はかかるけれど。


学びの深い本でした。




書道の神様 小野道風

2022-12-22 06:55:00 | 神仏について

小野篁について書きましたが、小野小町と小野道風の祖父にあたる御方のようです。また、歴史を遡ると小野氏の中には、聖徳太子の時代、遣隋使として派遣された小野妹子もいます。


言葉も通じない人を派遣するはずはないなぁ、渡来人かなぁと調べていると、小野氏はワニ🐊をトーテムとした一族で、日の御子信仰や、太陽信仰をもつ渡来系鍛冶集団とする説や、漁労・航海術に優れた海人族であったとする説があるようです。


ワニ氏については、因幡の白兎の際に気になっています。今日は、そのワニ氏にルーツをもつ小野氏の中で、小野篁の孫、小野道風について書いてみたいと思います。





書道は書の道。白い和紙に黒い墨で書く。白は光の集結。黒は物質の集結。

白い動かない陽のエネルギーに、人が墨と一体化して陰の形を象るようなイメージすらあります。


そして、書く姿や書かれた書体、筆の流れや迫力から、書家の呼吸を感じ、また、魂の強さや優しさや、しなやかさといったエネルギーを感じることがあります。





真っ白な空間に泳ぐ黒龍のようだと、迫力がある文字に圧倒されます。文字の選定も書家の心を感じます。


小野道風の書は、当時中国的な書風から脱皮して和様書道の基礎を築いたと評されているようです。


真似からの脱皮でしょうか。


書の美しさについては、平安初期に三筆と言われた人物がいます。嵯峨天皇、空海、橘逸勢です。弘法も筆の誤りの諺弘法大師空海の書はこちら↓




空海は遣唐使から帰り、狸の毛で筆を作り嵯峨天皇に献上した逸話とかもあります。

嵯峨天皇に流罪にされた小野篁ですが、のちに許され都にもどります。その小野篁の孫が小野道風です。

藤原行成、藤原佐理とともに小野道風は、平安時代の中期に、和様の書道の礎を築いた「書の三蹟」として称えられています。「野蹟」と称えられた道風は、幼少期から能書の才能を表し、大嘗会の屏風の色紙形を弱冠12歳にして書いています。





道風の書は穏やかで、形の整った作風が特長のようです。


三筆のひとりである嵯峨天皇と因縁深い小野篁を祖父にもち、祖父の篁も王羲之と比すると言われたくらいの書の達人ですから祖父譲りの才能もあったのでしょうか。


しかし、道風が自分の才能に悩んで、書道をあきらめかけていた話があります。実話かどうかはさておき、この逸話が良かったので紹介します。


ある雨の日のこと、道風が散歩に出かけると、柳にカエルが飛びつこうと、繰りかえし飛びはねている姿を見ました。


道風は「柳は離れたところにある。蛙は柳に飛びつけるわけがない」と思っていました。


すると、たまたま吹いたが柳をしならせ、蛙はうまく飛び移ります。


道風は「自分はこの蛙の努力をしていない」と目を覚まして、書道をやり直すきっかけを得たといいます。



道風の書の道は、風が吹いて柳が揺れ飛び移るカエルにより、自身を振り返り取り戻し自分の道に黄泉ガエル🐸。


道風の逸話が広まったのは江戸中期の浄瑠璃小野道風青柳硯』からのようです。日本の伝統芸能は奥が深いですね。




花札の一つである「柳に小野道風」の絵柄もこの逸話を題材としているようですね。花札をやったことがある方ならみた事ありますね。😊





三蹟と呼ばれるほどの書の達人も、悩むのですね。これで良いなんて、器の凄い人ほど思わない、そんな話がこの話から伺えます。


まぁ、これくらいでいいかなぁ、、

とすぐに思ってしまう、、、。

適当がもっとう。。。と折り合いをすぐにつけてしまう。😅

見習いたいなと思いました。










小野篁 ②

2022-12-20 05:33:00 | 神仏について

小野篁について書いています。昨日の続きです。


篁には様々な逸話が残っていますが、中でも沢山語られるのが、昼間は朝廷で官吏を、夜間は冥府において閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていたという伝説です。これは、平安時代末期から鎌倉時代にかけての説話集に多く残されています。


イメージでは、この閻魔様の近くで補佐をしている御方です。




小野篁は昼間は人間世界では多方面で多才でしたが、夜は地獄の閻魔大王を補佐していたとは、善悪の視点に我がなく、遣唐使の逸話からも、実は人間世界のしがらみから解き放たれた心の持ち主だったのかもですね。


冥官小野篁についての逸話を紹介します。 


冥府(地獄)との往還には井戸を使っており、その井戸は、入口は京都東山の六道珍皇寺(死の六道)と出口は京都嵯峨の福正寺(生の六道、明治に廃寺)にあったとされます。


篁には、六道珍皇寺を創建したとの説もあるようで、六道珍皇寺旧境内から実際に井戸が発見され、この井戸を「黄泉がえりの井戸」と呼称しているとか。




六道珍皇寺の閻魔堂には、篁作と言われる閻魔大王と篁の木像が並んで安置されているようです。

 

また、矢田寺(金剛山寺)の満米上人について、篁が閻魔大王に菩薩戒を授ける人物として紹介したとされており、

この物語は「矢田地蔵縁起(奈良国立博物館)」として描かれています。

この伝説に基づき、京都矢田寺の梵鐘を「送り鐘」と称して六道珍皇寺の「迎え鐘」と対の存在としているようです。


また、紫式部との逸話も描かれます。

京都市北区にある篁のものと伝えられる墓の隣には、紫式部のものと言われる墓があるようです。

これは愛欲を描いた咎で地獄に落とされた式部を、篁が閻魔大王にとりなしたという伝説に基づくもののようですね。源氏供養)。


厳しいですね。閻魔大王。。。。


ところで、個人的には小野篁のエピソードで足利学校の創始者という話に惹かれ提出ます。


1549年には宣教師のフランシスコ・ザビエルにより「日本国中最も大にして、最も有名な坂東の大学」と世界に紹介されました。日本の「学校」「学び」はここから始まったいわれ、大変貴重な場所のようです。昔、知人の学校の先生がこちらに息子さんに連れて行ってもらい非常に感動したと言っていました。

学びって、何をいうのかな、難しいな、と個人的には思います。教科偏重より学問を学びながらもその背後に、目標にむけてコツコツやる克己心とか、知らない世界を広げる探究心とか、優しい心を育てるとか自然に身につけることが理想です。

理想と現実のはざまで様々な子供の世界が学校で繰り広げられます。学校という枠が必ずしも学びの場なのかはさておき、何でも良いので、学びを通して無限の可能性を信じて子供達に幸せになって欲しいなと思います。


足利学校の大成殿には、日本最古の「孔子坐像」と、「小野篁像」が鎮座しています。孔子は中国古代の思想家で儒教の祖で、小野篁は儒教にも通じ、様々な分野で大変優れていたことから「学問の神様」言われます。


少し後の時代の菅原道真公も学問の神様ですが、小野篁も同じく学問の神様です。菅原道真は梅の花と結びつきますが、足利学校にも梅に纏わるエピソードがあります。


足利学校の孔子廟には不断梅という木があるようです。花が散って実がなり、普通の梅の実が黄色く熟して落ちる頃になっても青いまま木になっているので「落ちない梅」と言われているようです。


そして、足利学校には、古くから伝わる字降松(かなふりまつ)」伝説もあります。

読めない字や意味のわからない言葉などを紙に書いてこの松の枝に結んでおくと、翌日にはふりがなや注釈がついていたというお話です。

この「松」には「神を待つ」意味があるとされています。松は食べても良し❣️


「落ちない梅」と「神を松」とかで、受験生には人気だとか。縁起を担ぐことも時には必要かな☺️


野馬台詩(歌行詩)』の注釈によれば、竹から生まれたのはかぐや姫だけでなく、小野篁から生まれたという話もあり、篁(タカムラ)の漢字のつくりは、竹と皇ですね。🎋。竹のように真っ直で、かぐや姫のように月から来たような、どこか人間離れした方だったのかも。

松竹梅揃ってなんと縁起が良いです。

晩年には一本の🌸の大木から京都六地蔵を彫り上げて大善寺に安置した話もあります。


神様を松 

落ちない 

のように真っ直ぐに




そして、桜🌸咲く


受験生は、追い込みのシーズンですね。体調を整えて、自ら困難に向かい合う過程で、後悔しないように自分を信じて、やりぬいて欲しいです。


顔晴れ、受験生😌