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絶望するほどの希望が持てない時代

2010-05-31 05:30:12 | 暮らし・街・環境
イデオロギーの時代が終わっても、
人間の習性は、そう簡単に修正されない。
組織のリーダーは、ボス型か調整型か2極。
ボス型は、闘争力・政治力・経済力とその要素が変化し、
日本の55年体制は、経済力。
調整型は、狩猟社会は英雄型、農耕社会は長老型の2タイプ。
農業から商業、そして工業から情報へと、調整の舞台が替わり、
金融資本市場という舞台が現在のグローバル・スタンダード。
生産地・消費地を奪い合った時代は、国家が帝国を築いていたが、
いまその国家が、金融資本市場の制御棒のような役割となっている。
ECにおけるユーロの混乱は、通貨統合により制御が効かなくなっていること。

歴史上、全国民の討論で、真理が語られ、物事が決まったことはなかった。ギリシャは10%の市民の会議と90%奴隷で成り立っていた。自由・平等・博愛を目指したフランス革命の結末も、市民階級と労働階級の利害反発から、啓蒙主義の限界をしめし、モンパルナスとエッフェル塔信仰と科学が併存しているエリート階級社会だろう。新大陸での合衆国は、先住民の生活文化を破壊し、アフリカ有色人種の労働力依存を、工業社会での労働者に振り替えられ、大衆娯楽とアメリカンドリームという仕掛けによる階級社会である。理想の自由の国を創造するという理念により移民し続けていても、制度としての自由と民主主義も、資本市場のなかで階層化している。王権・貴族から商・工業主の市民へと主権を移した「自由・平等・博愛」は、絶対的な神の下での言葉であって、相対的な現実を裁ける言葉ではない。言葉や理念は、その社会状況のなかで相対的な媒介の手がかりの限界をもっていることを示している。論理の世界はそれ自体で閉じながら、実体を対象化する言葉として、相対的に使われるのである。政治をイデオロギーで語り、国際社会の中で直情で行動してた国家の結末は、大量殺戮と自己放棄だったのでは?

そこで日本。
敗戦後の復興資金で支えられた55年体制を変革するのに、55年体制の中で富国小兵で成長した財界の資金を使い、預金を国債に回した公共投資を票田に回した。その集票力のしかけをつかった新政権は、自由民主党から連合・社会党までの両極をはらんで、行方が分からず、政府指導力が問われている。民主党のリーダーが調整役だとしても、調整するコトバを持てず、いいとこ取りが裏目にでている。
どの党・どの政治家の主張も、自らの利害を’自己の真理’で飾っている時に、国民は自身だけいい目に会い、損しないようにと感情だけで動く。大正のミニバブルと大正デモクラシーの破綻の後の、あの頃を思い出す。
第一次大戦の敗戦・疲弊の欧州の隙をつき、新市場を満州に求め、米国に石油を供給されながらシナ事変へ、そして石油資源の根本を押さえられて、大東亜戦争へと突入した。沖縄は、敗戦前の最後の戦場、神風頼りの戦艦大和を出撃させた当時の日本主導者と学徒動員に応じ竹槍で空襲に備える国民は、直情てきだった。度重なる空襲・原爆は、相手の顔が見えないがゆえに、自然神のたたりの様で、象徴天皇の家族として自己保存を放棄し、米国文化政策を丸呑みにして、黒髪を脱色する。自己保存とは、自己認証による内外のバランスである。健康も軍事も、自身の内外のバランスとして、繋がっている。生物本能は自己拡張・安定化を求め、他の存在とのバランスが保たれて、想定外の変化が起きないときに、平和状態と呼ぶ。平和とは概念であり、生命の戦争とは武力だけではなく、場所取り・資本取り・情報取りなど、様々な場面での勢力バランスが極端に動くことである。現代は、資本市場が戦場で、暗黙のうちに、金融と株・商品市場ニュースが、世界の人の心情を含めたバランスを示している。
年金生活者は、その年金運用のために金融市場に依存する、機関投資家の一部なのが、この社会の構造。郵貯資金運用が、利回り良さげな海外に流れ戻らず、日本の社会資本は、有休耕作地のように、荒れ果てる。

誰の発言にも、一部の真理が含まれる。
経済指標も、市場調査も、ある恣意・意図で図られ、伝えられる。
それを、スキャンダラスに取り上げ、時間つぶしにツブヤキ、
心情的に保身に走れば、その場の’空気に支配された’大和出撃と一緒。

絶望するほどの希望が持てない時代なのだ。
(つまり、なんとか食わして貰っている、小作民でありつづけているのだ。)

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2 コメント

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Unknown (Unknown)
2010-05-31 05:33:01
【哲】0的確定論

『或質的な面が物理的に確定する場合の確定要素は【0】である。』

 【0特性】
◇絶対性
『拡がりが無い,』

◇不可分性
『分けられない,』

◇識物性
『存在の1の認識が可能, 即ち考えるもとの全てが【0】より生ずる, 但し質的な変化に対し絶対保存できない,』

◇変化性
『物による逆の確定が不可能な変化 (可能性の確立), 即ち存在の【1】を超越して変化する。』

【0特性】が真理であるならば, 時間平面的な視野は物的ではなく, 質的に変化していることになる。その根拠が【0∞1】, 有限的無限性を有する物による質の確定が不可能であること, そもそも確定する質が何かを知り得ない以上, 物理的確定論は絶対的ではなく類似事的な確定であること, である。

【零的確定論】では, 一つの時間平面が, 拡がり無き【時(とき)の間(はざま)】に確定していると考える。同様に空間を捉え, 【空の間】に空間を置き, 絶対的変化を与える【質】を流し込む。つまり時間平面は, この表裏不可分の裏側の【絶対無】により0的に確定されることになる。

△無は有を含む。

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Unknown (バカボンの叔父)
2010-05-31 08:37:37
有無!
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