モノと心の独り言

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「ジャーナリズム」 から 「ソーシャル・コミュニケーション」へ

2005-04-16 11:28:04 | 基本的なコト
「ネット時代のジャーナリズムの行方」考
ジャーナリズムの構成要素を検討すると、もはや「ジャーナリズム」ではなく、
「ソーシャル・コミュニケーション」という呼び方が適切のような気がする。

<分析>
「ジャーナリズム」を、
共通の対象に対する観察者からのメッセージの集積や応答の結果だと仮定する。
ここでの要素は、
1.共通の対象、2.当事者ではない観察+発言者、3.メッセージを収集し・公表し・応答できる仕組み
に別けられる。
3.のメディアの変化により、1.の共通の対象の規模が小さくなり、
2.の観察者+発言者が専業としてなりたつ市場規模が小さくなり、
「ジャーナリズム」というくくりは、緩やかになる。
そこでは、
「ジャーナリズム」のニュース判断基準・論拠・理念・主義の舞台が分散し、
判断基準は、人気投票・市場原理に依存する相対的な価値へと分解し、
ジャーナリストもまた、観察者ではなく、職業としての当事者としてニュース生産者として、
対象との多様な関係をもつ当事者(2.)となる。
ジャーナリストのもつメディアの市場規模・性格によって、その対象領域が変わる。
他方、対象となる”生活地域””関心領域”の当事者もまた、
個人的にコスト負担できる(3.)メディアの発達により、情報収集・判断・発信をして相互関係を深くする。

全国規模の関心事は、全国メディアの刺激の頻度・間隔・累積によって、減少しない。
ニュースと娯楽の要素は入り混じり、すべてバラエティ番組化する傾向がある。
さらに、音や画像をともなうメディアにより、言語をこえて、人類的な共通性による国際化が進む。

他方、直接的な対象・地域・分野に特定された、反応しあえる内容が必要になる。
これが、情報を構成する”情”と”報”である。 感情を伴う応報と言い換えられる。
これまでの中央化により、手薄になった生活地域での具体的な情況にそった
情報伝達が必要になる。ここでは、社会性・公共性が薄れ、相互了解性が必要となる。

このように、「ジャーナリズム」という観察者(第3者、客観性)の言説は、
ネットワークの中で、観察と伝達をする当事者の言説となる。
それは、誰でもが観察者だけでも、視聴者だけでもなく、
常に関与し、コミュニケーションしているネットの時代だからである。


<解説>
「ジャーナリズム」は、新聞の発祥に関わって生まれ、
ロンドンのパブリック・クラブ からだったように記憶している。
フランスのサロンは、アートをファイン・アート化する傾向が強かった。

1.そのロンドンという、海洋国家の首都における伝聞の集中、共通の対象
2.伝聞を聞き・確かめ・判断し・組み合わせての語る”観察・発言者”たち
3.メッセージの仕組みとして掲示から、ニュースレター、新聞へ
そして、3.メディアが、壁面から印刷物へ、
そして、ラジオ、映画ニュース、TVへと進んだ。

既存のTV・ニュースの取材・制作・放送費用は、数百万単位でかかり、
それを定時放送るためには、全国規模の視聴者・広告収入が必要だ。
だから結果的に、ラジオ・テレビの時代に、
ジャーナリズムの全国化・中央化が進んだ。
これは、情報だけでなく生産物・サービスの分野でも同じだ。

この3.のメディアに、ネットが加わると、1.2.が変質する。
視聴者の生活地域情報の空白を埋めるように、
携帯やネットでの身内情報交換が進んだ。
そして、SNS、ブログなどは、まさに、
関係する人、応答できる関心領域からの情報交換の場だ。

ここは、「ジャーナリズム」という括られる観察者の場ではないし、
放送・印刷という一方通行の場でもない。
あえて言えば、等身大の
「ソーシャル・コミュニケーション」とでも云えようか?
 



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