モノと心の独り言

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8月15日が又

2010-08-04 02:13:54 | 暮らし・街・環境
敗戦記念日が今年も近づいた。

平和を願い、厭戦を憂うマスメディアのプロモーションの季節。戦争と平和は、反対語ではない。競合とバランスを言い換えたことばであり、生命を奪うかどうか、物理的な強要をするかどうかも、考える時間の長さの違い。殺さなくても、相手の生存条件を奪い、出産や成長を抑えれば、競合に勝ってゆく。奴隷にしなくても、相手の学習・社会参加機会を減じれば、生存のために従属させることは可能だ。生産力より消費力が求められる時代、世界金融資本市場が現代のルールだとすれば、国家同士の戦争は市場の喪失だから、金融資本力の競合こそが現代の戦場である。国家も企業も、資本管理組織として、同じ土俵に経ちつつあり、銀行も製造業も情報企業も、金融資本市場では同じ次元に立ってしまっている。

今の日本の厭戦気分は、敗戦のためではもちろん無い。今、戦争体験のあるのは、空襲・艦砲射撃・原爆など、戦場での体験者ではない。暗闇から落ちてくるナパーム弾、砲撃の音、そして体内に残る後遺症、人との戦いにやぶれたわけではなく、手の届かないモノ、神のようなモノに圧倒されたようだと言われる。人間に負けたのではない、工業力・経済力・資源収奪力に負けたのだという自覚が、衣食住を満たして満足するだけでなく、経済的な戦いに勝とうとしてきた。しかし、一瞬追いついたと思ったのは錯覚で、膨大な資源・膨大な資本・膨大な人口をもつ国々にたいして優位に立つ手がかりがなく、高齢化による気力もなく、寿命と消費欲だけ伸びてしまった不満・不安が高まっているからだ。平和とは戦勝者の言葉だ。平和を叫ぶのは、負けたくない・自分の権利は自分で決めたいと敗者・弱者が叫ぶのだ。

欲望が萎えてしまえば、変化を受入、様々な刺激に応える歓びは得られない。人との関わり、四季の移り変わり、自身の気持ちの変わりようなど、市場商品を購入しなくても、日常の些細な変化を楽しむすべは感性を磨けば沢山ある。世帯崩壊・独居・孤立を深める生活は、養育から介助・介護ばかりでなく、対話・享楽まで、外部サービスを頼ることが増えた。家事や見守りのホームサービス・セキュリティ利用も、ゲームやエンタの時間消費も、外部化の一部。
外部化されたものを、先払いの税金や、後払いの個人資産で賄い続ける目処が立たないから、厭戦気分。貿易収支、企業収支、家計など、成長期にある中国・インドなどの隣の青い芝生をみるにつけ、惨めに感じるのだろうか?
もうテロしかない時代、国家ではなく、信仰・心情によるテロと自己放棄しか競合するすべがない時代。今、だれもが「平和」を、「戦争放棄」を言える時代にある。もう戦いは、日々の経済戦、市場情報戦、国家・企業を越えた金融市場の規模の戦いになっているからであり、グローバルな共通語である国際通貨が、そのメディアであると同時に対象になっているからだ。

「戦争」や「原爆」を季節の行事として強調するほどに、景気停滞の厭戦気分や、老後資金の不足感が不安を助長する。環境対応や高齢者サービスなど、不安要素による景気刺激は、盛り上がらない。花火大会も、街ぐるみの線香花火で、なにか寂しい。踊りきるほど、踊る暇ない盆踊り。日々の所作、言の葉のなかに、面白さは沢山ある。

また、8月15日が来る。
主義主張で区別せず、戦争でも日常でも死んでいった全ての人の冥福を祈り、今ある世界に感謝する日。資源・市場の狭さに、国力の半分をつぎ込み大陸や南洋に進出し、失敗した日。資源市場戦争から消費市場戦へと移り、市場循環の金融資本市場戦が派生金融商品市場でより投機・心理戦になりつつある現代。一人一人が自己保身に走って、社会的な解決を遅らし停滞し、次世代を萎えさせるような行動に出ないように、身を晒し・感性を磨き・対話し・行動することを、誓う日が来る。

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