モノと心の独り言

コミュニケーション/メディア/コミュニティ ココロの建築家になりたいと・・・ 

「存在的メディア論」に眼をとおして

2004-12-27 09:23:40 | 基本的なコト
「存在論的メディア論」 ハイデガーとヴィリリオ
 和田伸一郎 著、新曜社 2004年12月20日発刊
 に眼を通した。


存在をしている実感があった頃、
コトの変化を、身体にしっくりと染み付けて暮らしていた頃は、
“ワタシ”の場所も時間も、もっとくっきりしていた。
変わったのは、技術による速度だった。

電話がなぜ嫌いなのか、分かった。
身体の居ない他所が、ここに現われるから、
“後ずさり”するのだと、
また、”ここ”にいる”わたし”が、他所へさらわれるからだと。

私の存在を支えきれない意識、表象、交際は、
掬いきれないこの現代の存在の不安におののく。

<表象>の近代から、<現前>の現代へ
<対象>としてのまなざしの<現前>に耐え続けた軌跡が、
 “身体残像”あるいは“残像身体”

もう、主体と対象という過剰意識の近代は終わって、
同じ光・振動にさらされた物と物の関わりが、
生命というスクリーン(ラカン)
     ディスプレイ(・・・)
     身体に
映される。

それは、刺激自体ではなく、”残像”、あるいは [状態]

ここで私は、ハイデッガーやヴィリリオを離れ、
刺激の処理センターからボディーへ、
神経や血管をたどり、筋肉や臓器へ、
そして、そこが接している外へと繋いでゆく。

同じ光・音=振動にさらされた物を
“主体”と“対象”に分け、
“存在”を括弧つきの「存在者」にしない為に。

用象から表象へ、表象から物へ、
歴史を遡り、表象を肥大化させるのではなく、
意識の底を抜き、技術のポテンシャルに身を任せる
通底器

“我”を解体し、
物と物との関わりあいである[コト]に相対して、共振し、
舞い上がった塵が落ちてこないように

最新の画像もっと見る

コメントを投稿