「公共性の喪失」リチャード・セネット著 晶文社 1991年初版
フランス革命から現代にいたる心理をひもといて、既成概念が覆えされてゆく。自己中心の個人意識が、個人が関係する範囲に社会をせばめるとどうじに、自己の写像を優先し、自身からも離れてゆく。社会の利害関係の理解も、自由・平等・博愛という抽象概念の結果への失望が、社会に直感的な感情や人格の公正さを求めることになる。個人との共感・公正さは、外見で判断され、表現しきれず、持続しない。コーヒーハウスでの立場を超えた会話も、沈黙と相互監視に代わり、個人は孤立し、公共性を喪失してゆくことが述べられている。
個性、人間の自然、家族、自由などの既成概念が崩され、
社会性が人格で判断され、政治が集団的個性に代わり、公共的活動が矮小化される。個人は、社会の見物人であり、産業資本市場社会でのナルシストとなる。
個人生活がリアルで、社会生活がバーチャルな状態は、
見えるモノ・コトの神格化:物神化は通貨の神格化につながり、資本主義市場の膨張と崩壊を繰り返す景気循環に、持続性は脅かされる。
「自然な人間による自由・平等・博愛」という理念は、フランス革命直後の王制復古・社会民主主義の破綻から集団的個性社会の暴走、共産主義社会実験の破綻、そして資本主義市場社会への国家への介入という展開により、神話化している。
封建社会での社会的存在から分離された近代的個人は、個人の理念→心理→精神へと、分解され、自律は期待されなくなってきた。今や個人は、自由意志にゆだねられる存在→法律・ルールを守る主体→社会装置で制御される対象へと解体されてきた。
理性的個人への神話がくずれ、刺激の増大による欲望の持続力がうしなわれ、
感情で動く個体は、心理学の対象となる。 そしてその心理さえ意識されない状況の結果として、個体の慣性:他律的な人格となる。
その個体の束縛を、一旦はずすことが「遊び」であり、「都会」であったはずだ。
公共性とは、その非個人化にあると著者はのべる。
1991年に出版されたこの著作は、公共性を個性と非個性、親密さ、個人と社会として、人間の意識の側から語っている。
筆者は、最後に「都市は文明の大部分の間、活発な社交生活、利益の衝突や戯れ、人間の可能性の経験の中心として貢献してきたのだ。ただ、その文化的可能性は今日、休眠状態である。」と記している。
<所感>
フランス革命の近代的個人の理念は、この後の社会の情報ネットワーク化において、さらに混乱と流動化を早めるだろう。それは、近代的意識への神話が社会的なタテマエであり、投機による経済的な拡大とその持続が社会的個人の理念となっているからだ。
公共性を、身体が空間に接続されている空間から、多様性をはらむ都市環境の側から語ることで、その複雑系の一つの手がかりがつかめるのではないか。
この著作では、歴史理念ではなく心理で語るプロットが、多くの既成概念を覆してくれる。
つぎは、制御される現代人として、精神分析の背景となる空間-都市を、身体の滞在と移動、コミュニケーションとメディアの視点から考えたい。
フランス革命から現代にいたる心理をひもといて、既成概念が覆えされてゆく。自己中心の個人意識が、個人が関係する範囲に社会をせばめるとどうじに、自己の写像を優先し、自身からも離れてゆく。社会の利害関係の理解も、自由・平等・博愛という抽象概念の結果への失望が、社会に直感的な感情や人格の公正さを求めることになる。個人との共感・公正さは、外見で判断され、表現しきれず、持続しない。コーヒーハウスでの立場を超えた会話も、沈黙と相互監視に代わり、個人は孤立し、公共性を喪失してゆくことが述べられている。
個性、人間の自然、家族、自由などの既成概念が崩され、
社会性が人格で判断され、政治が集団的個性に代わり、公共的活動が矮小化される。個人は、社会の見物人であり、産業資本市場社会でのナルシストとなる。
個人生活がリアルで、社会生活がバーチャルな状態は、
見えるモノ・コトの神格化:物神化は通貨の神格化につながり、資本主義市場の膨張と崩壊を繰り返す景気循環に、持続性は脅かされる。
「自然な人間による自由・平等・博愛」という理念は、フランス革命直後の王制復古・社会民主主義の破綻から集団的個性社会の暴走、共産主義社会実験の破綻、そして資本主義市場社会への国家への介入という展開により、神話化している。
封建社会での社会的存在から分離された近代的個人は、個人の理念→心理→精神へと、分解され、自律は期待されなくなってきた。今や個人は、自由意志にゆだねられる存在→法律・ルールを守る主体→社会装置で制御される対象へと解体されてきた。
理性的個人への神話がくずれ、刺激の増大による欲望の持続力がうしなわれ、
感情で動く個体は、心理学の対象となる。 そしてその心理さえ意識されない状況の結果として、個体の慣性:他律的な人格となる。
その個体の束縛を、一旦はずすことが「遊び」であり、「都会」であったはずだ。
公共性とは、その非個人化にあると著者はのべる。
1991年に出版されたこの著作は、公共性を個性と非個性、親密さ、個人と社会として、人間の意識の側から語っている。
筆者は、最後に「都市は文明の大部分の間、活発な社交生活、利益の衝突や戯れ、人間の可能性の経験の中心として貢献してきたのだ。ただ、その文化的可能性は今日、休眠状態である。」と記している。
<所感>
フランス革命の近代的個人の理念は、この後の社会の情報ネットワーク化において、さらに混乱と流動化を早めるだろう。それは、近代的意識への神話が社会的なタテマエであり、投機による経済的な拡大とその持続が社会的個人の理念となっているからだ。
公共性を、身体が空間に接続されている空間から、多様性をはらむ都市環境の側から語ることで、その複雑系の一つの手がかりがつかめるのではないか。
この著作では、歴史理念ではなく心理で語るプロットが、多くの既成概念を覆してくれる。
つぎは、制御される現代人として、精神分析の背景となる空間-都市を、身体の滞在と移動、コミュニケーションとメディアの視点から考えたい。