モノと心の独り言

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Gogle,MSNの地理情報戦争から、Localの意味を考える

2005-08-09 07:31:27 | 暮らし・街・環境
   参照 「Gogle Map と Gogle Localが、日本でも」


Localな地図、住所、電話、FAX、業種、地域の衛星写真などの検索は、
グローバルなGogle とMSNの競合時代に入った。
丁度、湾岸戦争が衛星と現地のデータによって戦われたように、
日本市場戦争も、同様な視点から、情報を平準化し、
均一なグローバル・ライフの実現の道を開く。

それは、地域の地図、電話帖情報と組み合わせて、
写真と地図、業種、住所、電話番号、FAXなど一目瞭然なのだ。

ここに映らないのはなに?
イエローページの業種と実体は違う?
企業の規模、内容は違う?
いやいや、土地の広さ、交通網とのアクセスなど、
統計的な類推思考を重ねてゆけば、
(アルゴリズムによる集計・分析的な思考と操作を重ねれば)
経済的に重要な情報は得られるのだよ!


今の時点では、物販・サービス業の拠点マーケッティングや、
土地・建物の債権化による、不動産の国際市場化なんかのことさ。
身近な話、都心のビルを誰が買って、誰が売っているか?
たとえばカリフォルニア州の労働組合は、年金運用のために、
不良債権処理で割安なビルを買っている投資銀行に信託している。
不動産債権化の法律が通り、より小口の国内投資が可能になり、
都心要所のビルが値上がりすれば、売る。
そして、まだ上がり始めていない周辺や地方の要所を買う。
いいじゃない、みんな値上がりして?

相場は、上がれば、落とすのですよ。
たとえ将来価値を膨らまし、世界規模で資金を集めても、
上げたら、下げないと、利ざやは稼げない。
このタイミングによって、儲かるか、損するかがきまる。
いいじゃない、自由競争なんだから?
いや、仕掛ける側と仕掛けられる側、情報をつくる側と作られる側で、
このマネーゲームの優劣は決まっている。

問題は、過剰な流動性が、中小の競争者を弱者にしてゆくことなんだ。
Localだって、生命である限りは、競合社会だけど、
多様な競合が可能なんだ。
globalでは、数値の競争ぐらいしかできないけどね。

美しいとか、楽しいとか、それぞれの生活背景、人間関係によって違うでしょ。
だけど、国際通貨という数値に変えてしまうと、単純な競争になる。
単に預金財産、有価証券・・・だけでなく、
土地、住い、耐久消費財、消耗財、食事、衣服、教育、社会的な情報力など
すべて換金可能で、比較され、交換可能なモノとなる。
人は生産し、得た通貨を消費で失う、消費市場資源という次元で尊重され、
消費性を失えば、自助努力を怠ったということで、保護対象となる。

そんなこと、あたりまえじゃない?

そう、モノを生産し、流通する、通貨の次元では、当たり前。
フェニキアが地中海を制し、ヴェニスの商人が、資本市場の原理を明らかにしたように。
しかし、個人としての意味、社会としての価値は、通貨だけで計れるものではない。
だから、精神だという、心情論ではない。
人が生まれ、関わり合う地域の自然・街や人との関係が、
交歓する感性を意味に変え、資源やエネルギーを使わない社会的な価値にする
無限の資源であるということを云いたい。
それは、人と人、人と自然の関係が、持続し、ある密度まで高まり、
形になったときに見えてくる。
そのためには、
感性の保護区域(feeing sanctuary)、猶予期間(slow changing term)が必要だ。
密度の高い、新たな感性は、過剰な刺激に曝さない持続する対象との関係のなかで醸成する。
(なんだか、バイオテクノロジー、納豆菌みたいな気分になってきた)
そう、地域で育った藁と空中の納豆菌が、茹でられた大豆を納豆にするように、
(大阪の人は、嫌いな人が多いけど)
いや、あちらは初めから人間関係が粘っこいから・・・いや、そういう話ではなくて、
自分の身体の感性が、しっくりと交歓しあえるような、
自然や街や人と関われるような、感性の保護区が必要なのだよ・・・。

まあ、いろいろな意味でのLocalを大切にということなのだけど、
モノばかりではなく、言葉でも、絵でも、歌でも、
過剰な変化に曝されないで、しっくりと味わい合えるなかで、
より肌理の細かい、新鮮な刺激を生み出すことができる。

社会が変化が少なく長く固定した後は、大きな変革が起きるし、
かき混ぜて、コラージュしたり、キッチュに楽しんだりすることも、あるだろう。
しかし、基準を壊し、並べ、比較しつくしてゆくと、差異が感じられなくなって、
極端に走り(世界一とか、唯一とか、異常だとか、スキャンダラスだとか・・)
そのうち、すべてがどうでもよくなって、
簡単に、世界通貨基準という尺度で測りだす。

それは、人間の尺度ではなく、資本市場という尺度なのだよ。
それは、ブームの後の価値破壊という、更新し続けている尺度なんだ。
そのGlobalな通貨市場の上に暮らしながらも、
Localな身体の感性を、練ってゆくことが、
地域に個性的に適応して、Only One で居られる方法なんだ。
それが、かけがえのない人であり、周りと築くかけがえのない関係、
つまり、代替の利かない地域に根付いた情報価値なんだ。

情報は、頭脳にはないの?明示して外部記憶に蓄積でいないの?
情報は、データではない。関係する人や環境の情に報いることで情報であるんだ。
頭脳は、環境と身体の情報の交差点でしかない、
まー、環境・外の存在と個体との刺激の出会いの場みたいなものでしょう。
人は、自分で決めているように思っているけれど、
その情況のなかで反応し続けているに過ぎない。
ただ、だれも同じ場所に、同時に居て
同じ情報に曝されていないということで、唯一であるんだ。

人間の大きな記憶領域は、その情況記録の断片を回路で保持しているようなもので、
つねに流路を更新し、編集しなおしている、刺激の澱みみたいなものでしょう。
記憶は、身体、臓器と外界との関係の手がかりみたいなものでしょう。
手がかりは、場所やモノや言葉、声、映像など、関係したものの一部であったり、
写しであったり、コピーや象徴、隠喩であったりする。
だから、モノを失うことは、在る意味で、記憶を失うことでもある。
しかし、同時その記憶、その関係の束縛から自由になることでもある。

モノを私有することは、自分を安定させる手がかりであると同時に束縛でもあること。
しかし、手がかりのない無の状態では、感性も思考も育たないこと。
たとえ一枚の写真、形見でもいいから、なんらかの手がかりを必要としていること。
人が去り、死に、手がかりのモノや場所は、いずれ変わり、消えてゆく。

そのはかなさを一番知っているのは、この極東の島国、日本人かもしれない。
こだわりなく、限られた自然と人の資源のバランスのなかで、
生きてきた人たちのこと。
エロスとタナトス、
生と死、
拡大と凝縮、
その繰り返しのリズム、周期、邂逅のなかで、
人は、飽きないで日々を面白く生き、死んでゆくのでしょう。
その暮らし方の知恵を、掘り起こし、伝えてゆくことが、
持続可能な明日をつくる一つのことなのでしょう。

<叔父さん、今朝はどうしたの?>
・・・・
おはよう、ちょっと 夢をみていたみたいだ。

今日は、”打ち水の日”だよ?
冷房機械が、室内を自動的に水打ち状態にしているから、よけい外は暑いのさ。
ちょっと、外で水を撒くって、アリバイづくりみたいじゃないか。
じゃ、冷房 止める?

いやいや、もう無理だ。
カーボーイみたいに、昼間はサボテンの陰で、横になっていて、
夕方から動き出す生活にもどらなきゃ。
亜熱帯のアジアでも、ヨーロッパでも、昼寝があったよね?
今は、世界市場が動き続けるから、24時間誰がが起きているんだよ。
なんで、みんな止めないの?
生き残るということは、環境の変化に耐え続け、
環境を変えてゆく側になることなのかも知れないよ。
だから、新人類とか、新世代って、
いつも現状を超えようとして、それまでとは違う世代が育つ。

ははは、白昼夢になってきた。



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