明治から昭和にかけて筆をふるった泉鏡花は、字の書かれたものなら新聞の切れ端でさえ下に置かなかったという。同じ文筆業の端くれとして、わが身を省みると入り用の書物は机に散乱、仕入れた知識は右から左。「明窓浄机」にほど遠い日々を自戒する。
▼近ごろは新聞、雑誌が通勤電車の網棚に置き捨てられた風景すら、とんと見ない。新聞も本もゲームもスマートフォン1台の中に収まる時代になった。分厚い字引を枕に、昭和の受験戦争をくぐり抜けた身としては隔世の感、いや、アナログ世代の哀愁を覚える。
▼9日まで続く「読書週間」にあって、こんなデータもある。文化庁の調査ではおよそ2人に1人が「1カ月に本を1冊も読まない」と答えたそうだ。スマホやパソコン、ゲーム機などデジタル時代のライバルに押され、ページを繰る手が止まってしまうのは惜しい。
▼先人の言葉を借りるなら、「今夜新たに読む本は未知の世界の旅ぞかし」(与謝野晶子)。手当たりしだいに種をまくように、書をひもとけと勧めたのは寺田寅彦。「地味に適応したものが栄えて花実を結ぶであろう」。自分に適した一冊は渉猟の中で得られる、と。
▼それとは逆に、三島由紀夫は文学作品の中を散歩すべし、と説いた。駆け足なら、より多い紙数を読める。しかし「歩くことによって、十冊の本では得られないものが、一冊の本から得られる」と。座右の一冊に出会える喜びを思えば、足を棒にする価値はある。
▼「出版不況」といわれながら毎年、おびただしい数の書籍が世に出ている。「寺田式」に本を手に取り、相性がよければ「三島式」のデートへと階段を上るのもありか。本の樹海を前に、まずは遊歩術を心得よう。秋の夜は長い。
本にもいろいろある。どんな本を読むかが問題である。
<memo>
・ 雨交じりの風吹く今宵に草むらでコオロギが鳴いている(17時36分)