雑感 独り善がり

日々の思いや怒りを自分勝手な考えで綴る

ワクチン接種、どちらにしょうか迷う

2021-05-22 18:03:20 | 社会

ヒマですることも無いので、又ブログ(^^;

今週はただの1回も出社していない。火・木がシフトでの出社日だったのだが、

元々出社は自由の身、営業人数頭割りでのA/B割り振りだが、今週初めに”諸般の事情から

出社は見合わせる”旨連絡していたので、さぼっていた訳ではない。

”諸般の事情”の解釈が色々あったようだが、勿論コロナ怖いので極力行きたくないというのと

不貞腐れていたの両方。”不貞腐れ”を知った若い同僚たちからは『そーだったんですねぇ』と

半ば呆れられていた。お天気も悪かったし。雨降ると行きたくないな・・と。子どもかっ!

月曜日は頑張って出社する。

 

実は今悩んでいる。コロナワクチンの接種で。

先の記事にも書いたが私は、自衛隊による大規模接種会場での予約が出来ている。その時は

掛かりつけ医にも、その方が早いからトライしてみるのもいいかもと言われ、応募し予約

出来たもので一応安心したのだが、どうも6人会の友らに聞くと、4人が掛かり付け医だと。

待っていると。多分6月後半にはなるだろうけれど。義姉もそう。義姉はファイザーが良いのでと。

私も実はそこなんだよね。本当はファイザーが良いと思っている。でも大規模接種会場では

ワクチンはモデルナなのだ。で、どうしよう・・・と。

外へ出る機会が多いので早く接種したい。でもファイザーが良い。2週間以上の時間差を待てるか?

と言う問題。予約取り消すなら早くきちんとしなければ。

月曜には兄が、火曜日には友が接種するから聞いてみようと思っている。

 

で、気の毒なことに北海道や沖縄のコロナ感染者数がずっと増え続けている。

これはきっとGWの観光客の結果だと思う。地域経済としては観光は大事な産業だろうが、

だからと言ってウエルカムではコロナは拡大するばかり。人の命も、そして生きて行く為には

経済も、どちらも大事。結局はワクチンをさっさと段取り出来なかった行政のせいだろうと

結論はそこに行く。

誰がズルして先に打っただの、勿体無いのに規則に則ってないから廃棄しただの、予約システムが

整備されていないだの、聞いていて呆れる。

大事なことを先に決めておくとか、想定される問題を先取りして考えておくとか、そういう手を

打たないから、こういう事態になったんでしょうに。ホント危機管理能力が欠落しているわ。

民間企業なら罰金ものだ。貧困な日本の国の政府よ政治よ行政よ。

大体、河井案里の政治資金1億5千万円支給疑惑で限りなくクロに近い二階だとか、このコロナ禍で

パーティー出席だけでなく女性との寿司デートの医師会会長だの、国民をバカにしたような言動が

何のお咎めも無く通って、一般人は日々我慢を強いられている現状って一体何なの?と思うよ。

若者とは又違うけれど、誰が政府の言うことなんか聞くものか。自分で判断して行動するわ。

もう我慢が長過ぎて感覚がマヒしてる。ホントしんどいよ。

テレビのニュースを観たり外で街の様子を見たりすると、今のやり方は間違ってないか?と

思うことは一杯ある。期待はしていないが情けない。


母物語②

2021-05-22 12:58:19 | 日記

電車?汽車?の汽笛が聞こえると、里心が付いたそうだ。泣けたそうだ。ああ、あの汽車は

実家に続いていると。

一度本気で別れようと思ったことがあるらしい。まだ姉と兄の子ども2人だった時。

ある資格を持っていた母は、死に物狂いで働けば子ども2人抱えて何とかなると。

見た目はか細い母だったが、なんのなんの!根性はキツかったと私は思っている。

父に言うと何と!父は『お前が出て行くならワシも一緒に付いて行く』と言ったそうな。

はぁ???何言うてますの?あんた。母は、たった1人の跡取り息子に、そんなことはさせられ

ないと、思いを断ち切ったらしい。まあ、我慢強い人だったからね。

あの時別れていたら、私は存在しないなぁ・・・。

 

母は結婚する時に持って来ていたハイヒールを履く機会が全く無くて(母はお洒落だった。

娘時代はモガだった)夜になると近くの川に行き、『チクショーチクショー』と言いながら

(まっ!なんてお下品な)泣きながら、靴を何足も投げ捨てたと言っていた。

又、まだ新婚の頃、休日に父と宝塚歌劇に行こうとすると『自分たちばっかり・・』と

伯母の娘(私の従姉)が僻んで言う。仕方なしに連れて行く。母は父と2人が良かったのに、

いつも要らぬコブが付いて来たと。

まあ、おとーさん亡くなって寂しい子どもは羨ましかったのかも知れないが、その従姉は

ことあるごとに意地悪だったと母は言ってた。

 

父は、母の為に伯母たちと別居することを決意。隣町に店を建て家を建て、祖父母を連れて

引っ越した。本家が移動よ。伯母たちが残されて住んでいた家は祖父のもので、商売を継いで

いた父のもので、父はその後何十年とそこに関わる一切の税金を払い、帳簿の面倒をみていた。

しかし長らく住み着くと、地上権?居住権?みたいなものが発生するよね、確か。

それが後々モメる元になった。

新しい場所になってから私が生まれた。母がいつも言ってた。私がそんな性格(どんな性格?)

なのは、小姑・小小姑たちから解放されたからだと。

姉や兄がお腹に居る時は、鬱屈してた。しかし私がお腹に居た時は状況が全く違う。

気分は晴れ晴れ、ルンルンだったそうだ。だから私は弾けているらしい。母の説だ。

ホンマかいな。確かに姉兄と私は違う。上に行くほど暗い(-_-;) おとなしいと言うか。

胎教ってあるのかしらね?ただの性格の違いではないの?

 

何がびっくりしたって、なんて法事の多い家なんだろう!と思ったって。しょっちゅう法事が

ある。なので、座布団も食器の数もハンパない。それらは普段は使わないけれど、法事だの

なんだのの時にはどこからか出て来る。何でも家でする時代。きっと大変だったと思う。

食洗器なんか無い時代。お手伝いさんも何人も居たけれど、食事の支度はじめ一切を仕切る

のは母。昼も夜も、取引先の若いおにーちゃんらは入れ代わり立ち代わり、当たり前みたいに

うちで食べてた。

母は、祖母(お姑さん)には感謝していた。小姑らが鬱陶しい分、お姑さんは”どしっ”としていて

細かいことは何一つ言わない人だった。その代わり家事は何もしない。一切しない。

亡くなる前の祖父の世話も母に任せっきり。母は洗濯機の無い時代、祖父が汚したパッチなんかを

若いお手伝いさんに洗わせられないと、寒い冬も全部自分で手で洗ってたと言ってた。

だから父は洗濯機なるものが世に出たら速攻買ってた。それもこれも母の為。

 

身体、しんどい目はしたかも知れないが、段々立場は強くなって行ったよね。

第一欲しいものは何でも手に入ったでしょ。祖母は着物なんかもしょっちゅう作ってくれたと。

年に何回か京都の室町から、いつもの呉服屋のおかみさんが、丁稚どんを連れて家にやって来る。

座敷で反物を何本も広げその中から祖母が『あんさん、あれとあれにしときなはれ』と母や姉、私の

着物を選ぶ。そりゃ、丁稚どんが重い思いをして背負って来て、『要りまへん、今回は結構です』

とは言えないだろうね。巧い商売のやり方だ。貴金属だって、欲しいものが有ればすぐに父が買う。

母は、そう言う類の財布は持ってなかった。要らなかったのだ。だから父が亡くなった時、

お金の計算が出来なかった。

子どものこともほとんど構っていない。私には生まれてすぐに専任の子守さんが付いた。

いわゆる”おんばさん”というやつ。そして小学校入るくらいまでだったか、2代目の私専任の

お手伝いさんも居た。私が眠りに落ちるまでそばに居てくれた人。Rちゃんの名前も実家の住所も

今でも覚えている♡。

学校行き出しても、朝はお手伝いさんたちが交代で朝食を作ってくれた。朝、顔を見て、あ 今日は

〇〇ちゃんの日なのねと。朝は子どもたちだけで食べた。小さい頃、母が朝食を作ってくれたと

言う記憶はない。

ゆっくり座ってる?母は見たことが無い。常に忙しく働いている姿。真夏以外はいつも着物だった。

2年に一度くらいの頻度で神経痛で激痛が襲った。歩くことも立つことも寝ていることも出来ず、

お手洗いにも這って行ってた。家族は『来たか』・・・と覚悟して見守るしかない。

腰痛は日にち薬だった。それ以外で横になっているのを見たことが無い。

父に口答えしているのを見たことはない。そしていつも敬語だった。激昂することも無かった。

それは母方の祖父に似て穏やかな人だった。反対に父は瞬間湯沸かし器だった。

母は柳に雪折れなしの、しなやかでしたたかな人だった。私には真似出来ない。

父が亡くなってからは気の毒なくらい『早く死にたい』だった。早く死なないと父とあの世で

会えない、あまりに時間が経ってしまうと時間軸が合わないとでも言うか、そう言う風に

思っていた節がある。

そして、人の悪口を言わない人だったのに亡くなる数年前からは、小姑と小小姑の悪口を堂々と

口にするようになった。私は、もう全部知ってるから言わないで欲しかったけどね。

我慢強かった母の口から、いくら歳取ったからと言って、そんなことは聞きたくなかった。

 

終わり良ければ総て良しと言うけれど、誰にとってもそうなのだろうか?

母は娘時代は幸せだったろう。結婚してからも大変だった時代もあったかも知れないが

妻として母として嫁として女性として輝いていたと思う。旅行も国内外、いっぱい行ったよね。

私が結婚して辛かった時代に、母が私に我慢しろと言っても、母が塩振られた(そう言う

言い方をした)のはたったの数年だったが、私の我慢の時間は長過ぎる。だから可哀想だと

言った。確かに母が辛かったのは伯母叔母らと一緒だった5年ほどだ。私の辛さは9年経っても

解消しなかった。ま、原因も全く同じだった訳では無いから。姑小姑問題もさることながら

肝心の旦那の出来が違ったからね。そこ一番大きいし。

 

晩年、父が亡くなった後の母は、何かが足らない思いをずっと抱えていたと思う。片割れが

居なくなった喪失感が大き過ぎた。夫婦仲が良過ぎるのも考え物だと見ていて感じた。

母は兄を可愛がり過ぎた。特別だった。兄がメインの老後の自分の青写真が描かれていた様に

思う。とにかく兄が、兄嫁が、大事な人だった。母の生活に、娘はついでみたいなものだ。

本気か冗談か分からないけれど、そう言うことを平気で口にする。私には絶対に出来ないことだ。

子どもの好き嫌いだの優劣だの、例え心の中で思ってはいても、決して口になんか出来ない。

ましてや本人の前で?有り得ない。そう言う意味では冷たいところもあった人。

でも金銭的なことは別にして最終的に母の世話・面倒を一番見てくれたのは姉家族だった。

脳血栓で倒れてから、女の孫たちの名前がごっちゃになって行った。判っていてかどうか

今でも分からないのだが、気に入らない人には見向きもしなかったりした。信じられないほど

”素”が出ていた。つくづく強情な人だと思った。で、結局は祖母と同じで隠れ高ビーだった。

芯が強いと言うか、しっかりと母のプライドと言うものがあった。

小姑・小小姑らと暮らしていた過酷な時代、自分は『掃き溜めの鶴』だったそうだ。

そう思いなさいと祖父に言われたと。おじーちゃんも優しい顔して凄いこと言うなぁ・・。

私は母が亡くなって『お父さんに会えた?』と、いつも聞いていた。

晩年は寂しかったかも知れないけれど、充分に良い時代もあったのだもの、幸せな人生

だったよね?最高の旦那様に巡り合えたんだものねと、思うようにしている。

あー書きながら涙出て来た😢

 

長々とお付き合いありがとうございましたm(__)m


母物語。父もかな。

2021-05-22 03:07:47 | 日記

haruさんのブログに飛ばない・・💧 済みません勉強してやり直します。

 

母のこと。

haruさんのお母様と同じように、私の母の結婚後の生活は大変だったとしみじみ思う。

 

母方の祖父は軍人だった。将校さん。凄い髭を蓄えサーベルと言うのかな?を持った

祖父や、馬上の祖父などの写真が母の実家に在った。祖父の顎には銃弾のかけらが残っていた。

『取れないの?痛くないの?』と幼い頃、聞いたものだ。祖父は穏やかで優しい人だった。

祖母は豪農出身の高ビー。とてもきれい好きできっちりした人で、私なんかは小さい頃、

少しでもお行儀が悪いと、ピシッと叱られたものだ。母の従弟たちは医者だらけで、母も

薬剤師になりたかったらしい。

母には弟が2人居て、どちらも高身長で男前。家族写真なんか皆がとても美しかった。

コーヒーは心斎橋の何たらと言うお店(名前忘れた)で豆を買い、挽いて飲んでいたそうな。

テニスもやっていた。そんな厳格でどちらかと言えば割と優雅な家庭で育った母が結婚した

相手の父は商売人。

 

父方は曽祖父の代からの商売人。父は3代目と言う訳だ。姉と妹の真ん中の男1人。

母は結婚して、嫁ぎ先の、お金の、あまりのどんぶり勘定ぶりにびっくりしたそうだ。

何で?そんな父と母が結婚したのかねぇ?勿論お見合いよ。

大正生まれで173cm80kgは大きい方だ。大きいと言うより”ごっつい”。おまけに顔は

美男子と言う形容からは遠く離れている。母はイヤだったそうだが、祖父が賛成したと。

『絶対に良い』と。父の人間というか誠実さだとかを、祖父は見抜いていたらしい。

間違ってなかったよ、おじーちゃん。

一応デートは何度かしたらしい。母は隣を歩くのもイヤで、電車に乗った時にはわざわざ

離れて座ったとか。ひどいこと💧

父は、華奢で色白の母のことを気に入ったらしい。寡黙で不器用で、多分優しい言葉の

ひとつもかけられない様な父だったが、一家の大黒柱としての存在感は凄いものだった。

死ぬまでただの一回も、浮気どころか女遊びさえしたこと無かった。ちょっと恥ずかしいが

大人になってから聞いた『母以外とは出来なかった』とマジ言った父の言葉は、嘘じゃ

なかったと私は信じてる。ちゃんと理由があったし。

婚約してから父は招集された。戦争が終わって帰って来て、そして結婚した。

ここから母のしばらくの間の悲劇が始まる。

 

伯母(父の姉)は店の番頭さんと結婚し、祖父に支店を出してもらった。

しかしその結婚相手の義伯父は戦死。伯母は子ども3人連れて実家に戻った。出してもらった

お店のお金はどうなったんだろう?と、後々従弟が父に文句言いに来た時に(結構モメた)

私は思ったね。

だから父は私たち子どもに、”父の死後 兄弟で揉めてくれるな”と常々言い聞かせてたの

だろう。

そして何と!父の妹。一生食べて行けるほどの持参金を持たせて(と聞いた)結婚した叔母は、

(持参金付けなかったら貰い手が無かったと言うヒドい話も)

実家に戻った姉(伯母)が羨ましくて、しょっちゅう実家に帰っていた。あまりに頻繁に家を

留守にするものだから、旦那さんは女中さん(と昔は言った。今ならお手伝いさん)に

手を付けた。いわゆる浮気ね。それが発覚し、叔母は離婚。実家に戻る。それも、子ども2人を

置いて。それは、子どもを連れては出戻らせないと言われれば、離婚は思いとどまるだろう

との思いからだが、いともあっさり叔母は子どもを置いてまで出戻って来た。

どこまでバカなのかね。普通考えたら解ると思うのだけれど。

両親と実家を継いでいる兄家族4人(私はまだ生まれていない)と戦争未亡人の姉家族4人。

そこへ自分1人帰って来て、どんな生活が待っていると思ったのだろう。

同じ年頃の子どもたちを見て、何とも思わないか?私の姉と兄は、その叔母の子どもたちと

性別も年齢も全く同じだったのだ。思い出さない訳はないだろう・・。

そしてそんな実家に、今更自分の居場所があるとでも思ったか?

私は結婚している時、辛かった時、母にいつも言われた。『女、三界に家無し』と。

ヒドい話だと、その時は思ったが、昔は多分そうだったのだろう。

今は簡単に別れるし、その気になれば女1人ででもやって行ける。生きて行ける時代だと思う。

しかしその時代の叔母の行動、本当に無知で可哀想な人だったんだなと、私は物心ついた

頃から、その叔母のことを何とも言えない思いで見ていたように思う。

 

と言うことで、11人の生活が始まる訳。

続く。


私は今日から『an』です

2021-05-22 01:45:17 | 日記

私は今からブログ上での自分の名前を『an』と言うことにする。

angryのanですが・・(;^_^A 。そうだよね、怒ってばっかりじゃ幸せになれないわと、

改めるのに丁度良い機会。

世間に対する怒りだの文句だの、そういうことを吐き出したいが為に始めた様なブログ

だったので、それで良いと思っていたのだけれど、名前は?と言われると困るよ、確かに。

で、今からanです。

これは私の記事に”いいね!”をよく下さるharuさんが『anさん』と呼んで下さったので、

有難く使わせていただくことに。いいよね~anさん。とっても気に入ってる。

有難うharuさん!

 

haruさんは”ピラティス”というエクササイズをやっておられて、私は今までジャズダンス

(古い?)だのエアロビクスだの、ストレッチ・ヨガ ・真向法と言うくらいのことしか

知らなかったのだけれど、haruさんのブログで初めてピラティスを知った。

インナーマッスルを鍛えるとか姿勢を良くして体の歪みを矯正するとか、そう言う為の

エクササイズ ってことで良いのかな?

haruさんのブログ https://blog.goo.ne.jp/harurarara 

貼り付け方が分からない(^^; これでいのかどうか。

 

haruさんのブログを拝見していて、自分を律すると言うことが人間ホント出来なくては

いけないよねってつくづく思う。私なんか自分を甘やかして甘やかして、ここ迄来た。

体重のことね。10kg以上体重落とさなければいけない体なのに、痩せるなんて夢のまた夢。

これ以上増えないようにするだけで精一杯。ほんと怠け者だ。

血圧はもう既に薬を飲み続けているので今更止められないが、太るってことは成人病の元だし

万病の元。身体に良いことは何も無い。解ってて痩せられない情けない自分。

言い訳ばかりですわ、はい💧

 

で、haruさん、お父上ととても仲が良くって、矍鑠としたお父様で、いいな~と微笑ましく、

コメントしたらお返事貰って、やり取りしていたらお母様のことが書かれていて、自分の母と

結婚後の生活状況がとても似ていて驚き、母のことを書きたい気分になった。

なかなか面白い母でした。

それは次の記事で。