電車?汽車?の汽笛が聞こえると、里心が付いたそうだ。泣けたそうだ。ああ、あの汽車は
実家に続いていると。
一度本気で別れようと思ったことがあるらしい。まだ姉と兄の子ども2人だった時。
ある資格を持っていた母は、死に物狂いで働けば子ども2人抱えて何とかなると。
見た目はか細い母だったが、なんのなんの!根性はキツかったと私は思っている。
父に言うと何と!父は『お前が出て行くならワシも一緒に付いて行く』と言ったそうな。
はぁ???何言うてますの?あんた。母は、たった1人の跡取り息子に、そんなことはさせられ
ないと、思いを断ち切ったらしい。まあ、我慢強い人だったからね。
あの時別れていたら、私は存在しないなぁ・・・。
母は結婚する時に持って来ていたハイヒールを履く機会が全く無くて(母はお洒落だった。
娘時代はモガだった)夜になると近くの川に行き、『チクショーチクショー』と言いながら
(まっ!なんてお下品な)泣きながら、靴を何足も投げ捨てたと言っていた。
又、まだ新婚の頃、休日に父と宝塚歌劇に行こうとすると『自分たちばっかり・・』と
伯母の娘(私の従姉)が僻んで言う。仕方なしに連れて行く。母は父と2人が良かったのに、
いつも要らぬコブが付いて来たと。
まあ、おとーさん亡くなって寂しい子どもは羨ましかったのかも知れないが、その従姉は
ことあるごとに意地悪だったと母は言ってた。
父は、母の為に伯母たちと別居することを決意。隣町に店を建て家を建て、祖父母を連れて
引っ越した。本家が移動よ。伯母たちが残されて住んでいた家は祖父のもので、商売を継いで
いた父のもので、父はその後何十年とそこに関わる一切の税金を払い、帳簿の面倒をみていた。
しかし長らく住み着くと、地上権?居住権?みたいなものが発生するよね、確か。
それが後々モメる元になった。
新しい場所になってから私が生まれた。母がいつも言ってた。私がそんな性格(どんな性格?)
なのは、小姑・小小姑たちから解放されたからだと。
姉や兄がお腹に居る時は、鬱屈してた。しかし私がお腹に居た時は状況が全く違う。
気分は晴れ晴れ、ルンルンだったそうだ。だから私は弾けているらしい。母の説だ。
ホンマかいな。確かに姉兄と私は違う。上に行くほど暗い(-_-;) おとなしいと言うか。
胎教ってあるのかしらね?ただの性格の違いではないの?
何がびっくりしたって、なんて法事の多い家なんだろう!と思ったって。しょっちゅう法事が
ある。なので、座布団も食器の数もハンパない。それらは普段は使わないけれど、法事だの
なんだのの時にはどこからか出て来る。何でも家でする時代。きっと大変だったと思う。
食洗器なんか無い時代。お手伝いさんも何人も居たけれど、食事の支度はじめ一切を仕切る
のは母。昼も夜も、取引先の若いおにーちゃんらは入れ代わり立ち代わり、当たり前みたいに
うちで食べてた。
母は、祖母(お姑さん)には感謝していた。小姑らが鬱陶しい分、お姑さんは”どしっ”としていて
細かいことは何一つ言わない人だった。その代わり家事は何もしない。一切しない。
亡くなる前の祖父の世話も母に任せっきり。母は洗濯機の無い時代、祖父が汚したパッチなんかを
若いお手伝いさんに洗わせられないと、寒い冬も全部自分で手で洗ってたと言ってた。
だから父は洗濯機なるものが世に出たら速攻買ってた。それもこれも母の為。
身体、しんどい目はしたかも知れないが、段々立場は強くなって行ったよね。
第一欲しいものは何でも手に入ったでしょ。祖母は着物なんかもしょっちゅう作ってくれたと。
年に何回か京都の室町から、いつもの呉服屋のおかみさんが、丁稚どんを連れて家にやって来る。
座敷で反物を何本も広げその中から祖母が『あんさん、あれとあれにしときなはれ』と母や姉、私の
着物を選ぶ。そりゃ、丁稚どんが重い思いをして背負って来て、『要りまへん、今回は結構です』
とは言えないだろうね。巧い商売のやり方だ。貴金属だって、欲しいものが有ればすぐに父が買う。
母は、そう言う類の財布は持ってなかった。要らなかったのだ。だから父が亡くなった時、
お金の計算が出来なかった。
子どものこともほとんど構っていない。私には生まれてすぐに専任の子守さんが付いた。
いわゆる”おんばさん”というやつ。そして小学校入るくらいまでだったか、2代目の私専任の
お手伝いさんも居た。私が眠りに落ちるまでそばに居てくれた人。Rちゃんの名前も実家の住所も
今でも覚えている♡。
学校行き出しても、朝はお手伝いさんたちが交代で朝食を作ってくれた。朝、顔を見て、あ 今日は
〇〇ちゃんの日なのねと。朝は子どもたちだけで食べた。小さい頃、母が朝食を作ってくれたと
言う記憶はない。
ゆっくり座ってる?母は見たことが無い。常に忙しく働いている姿。真夏以外はいつも着物だった。
2年に一度くらいの頻度で神経痛で激痛が襲った。歩くことも立つことも寝ていることも出来ず、
お手洗いにも這って行ってた。家族は『来たか』・・・と覚悟して見守るしかない。
腰痛は日にち薬だった。それ以外で横になっているのを見たことが無い。
父に口答えしているのを見たことはない。そしていつも敬語だった。激昂することも無かった。
それは母方の祖父に似て穏やかな人だった。反対に父は瞬間湯沸かし器だった。
母は柳に雪折れなしの、しなやかでしたたかな人だった。私には真似出来ない。
父が亡くなってからは気の毒なくらい『早く死にたい』だった。早く死なないと父とあの世で
会えない、あまりに時間が経ってしまうと時間軸が合わないとでも言うか、そう言う風に
思っていた節がある。
そして、人の悪口を言わない人だったのに亡くなる数年前からは、小姑と小小姑の悪口を堂々と
口にするようになった。私は、もう全部知ってるから言わないで欲しかったけどね。
我慢強かった母の口から、いくら歳取ったからと言って、そんなことは聞きたくなかった。
終わり良ければ総て良しと言うけれど、誰にとってもそうなのだろうか?
母は娘時代は幸せだったろう。結婚してからも大変だった時代もあったかも知れないが
妻として母として嫁として女性として輝いていたと思う。旅行も国内外、いっぱい行ったよね。
私が結婚して辛かった時代に、母が私に我慢しろと言っても、母が塩振られた(そう言う
言い方をした)のはたったの数年だったが、私の我慢の時間は長過ぎる。だから可哀想だと
言った。確かに母が辛かったのは伯母叔母らと一緒だった5年ほどだ。私の辛さは9年経っても
解消しなかった。ま、原因も全く同じだった訳では無いから。姑小姑問題もさることながら
肝心の旦那の出来が違ったからね。そこ一番大きいし。
晩年、父が亡くなった後の母は、何かが足らない思いをずっと抱えていたと思う。片割れが
居なくなった喪失感が大き過ぎた。夫婦仲が良過ぎるのも考え物だと見ていて感じた。
母は兄を可愛がり過ぎた。特別だった。兄がメインの老後の自分の青写真が描かれていた様に
思う。とにかく兄が、兄嫁が、大事な人だった。母の生活に、娘はついでみたいなものだ。
本気か冗談か分からないけれど、そう言うことを平気で口にする。私には絶対に出来ないことだ。
子どもの好き嫌いだの優劣だの、例え心の中で思ってはいても、決して口になんか出来ない。
ましてや本人の前で?有り得ない。そう言う意味では冷たいところもあった人。
でも金銭的なことは別にして最終的に母の世話・面倒を一番見てくれたのは姉家族だった。
脳血栓で倒れてから、女の孫たちの名前がごっちゃになって行った。判っていてかどうか
今でも分からないのだが、気に入らない人には見向きもしなかったりした。信じられないほど
”素”が出ていた。つくづく強情な人だと思った。で、結局は祖母と同じで隠れ高ビーだった。
芯が強いと言うか、しっかりと母のプライドと言うものがあった。
小姑・小小姑らと暮らしていた過酷な時代、自分は『掃き溜めの鶴』だったそうだ。
そう思いなさいと祖父に言われたと。おじーちゃんも優しい顔して凄いこと言うなぁ・・。
私は母が亡くなって『お父さんに会えた?』と、いつも聞いていた。
晩年は寂しかったかも知れないけれど、充分に良い時代もあったのだもの、幸せな人生
だったよね?最高の旦那様に巡り合えたんだものねと、思うようにしている。
あー書きながら涙出て来た😢
長々とお付き合いありがとうございましたm(__)m