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5.枕草子の原点 枕草子成立の事情(3の1)

2024-10-09 09:43:19 | 枕草子
5.枕草子の原点 枕草子成立の事情(3の1)

山本淳子氏著作「枕草子のたくらみ」から抜粋再編集

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5.枕草子成立の事情(3の1)

  実は「枕草子」には、巻末に「跋文(ばつぶん)」と呼ばれる章段だあり、そのなかには作者が自ら作品の概要や制作の時期、作品が世に出た時期などを記すほか、作品創作のきっかけを明かしている部分がある。
  ここではより情報量が多くてわかりやすい「能因(のういん)本」系統の跋文を見ることにしよう。

   宮の御前(おまへ)に内の大殿(おとど)の奉らせ給へりける草紙を、「これに何をか書かまし」と、「上の御前には史記といふ文をなむ、一部書かせ給ふなり。古今をや書かまし」などのたまはせしを、「これ給ひて、枕にし侍らばや」と啓(けい)せしかば、「さらば得よ」とて給はせたりしを、持ちて、里にまかり出でて、御前わたりの恋しく思ひ出でらるることあやしきを、故事や何やと、尽きせず多かる料(れう)紙を書き尽くさむとせしほどに、いとど物おぼえぬことのみぞ多かるや。

   (中宮様に内大臣様の献上なさった草紙について、中宮様が「これに何を書こうかしら」とおっしゃり、「帝は「史記」という漢籍をお書かせになるということよ。こちらは「古今和歌集」を書こうかしら」とおっしゃったので、「これを頂いて、枕に致したいものですわ」と申したところ、「ならば受け取りなさい」と下さったのだ。それを持って自宅に戻り、中宮様の御前が恋しく思い出されること狂おしいほどであるなか、故事や何やと書いて使い切れないほど大量の用紙を使い切ろうとしたものだから、訳のわからない記事ばかりでいっぱいになってしまったこと)
   (「枕草子」能因本「跋文」〈長跋〉)

  定子に内大臣(伊周 これちか)から白紙を綴った冊子が献上された。彼の官職から、西暦五(994)年から長徳二(996)年までのことである。彼は同時に一条天皇にも献上していて、天皇はそれに漢籍の「史記」を書かせることにしたのだという。
  当時は古い時代の冊子は大きさと内容の品格が大方一致していて、「史記」など品格の高い書物は大型本に作られるのが普通だった。したがって内大臣が天皇に献上した冊子は大型で、格式ある書物を書くためのものだったと診られる。

  定子に献上された冊子も、同様に大型であった。なぜならば定子が「古今をや書かまし(「古今和歌集」を書こうかしら)」と言っているからである。定子は当初、格式ある大型本の体裁に似つかわしい、いわゆる〈古典〉をこの冊子に筆写させようと考えていたのだ。

  だが清少納言はそれを「枕にしたい」と口を出した。冊子が分厚いから枕にちょうどよいと、まずは冗談を言ったのであろう。この言葉に、定子にはひらめくものがあったに違いない。即座に「ならば受け取りなさい」と言って、冊子を清少納言に渡したからである。
  この時、格式あるこの冊子は、格式ある体裁をそのままに、古典ならぬ新作の冊子となることに決まった。この新作も下命者である定子の文化の粋を示すものでなくてはならない。清少納言はそれに挑戦することになったのだ。

4.枕草子の原点 定子再びの入内と死

2024-10-04 13:26:26 | 枕草子
4.枕草子の原点 定子再びの入内と死

山本淳子氏著作「枕草子のたくらみ」から抜粋再編集

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4.定子再びの入内と死

  このままならば定子の人生は、一度は后として栄華を極めたものの零落して内裏を去った尼僧ということで、静かに終わっていたかもしれない。しかし定子には、さらなる浮沈があった。
  翌長徳三(997)年、天皇が再び定子を呼び戻したのである。厳密には定子の居所を中宮関係の施設に移しただけだったが、これを復縁の準備と見抜いた貴族たちは「天下、甘心(かんしん)せず(誰が甘くみるものか)」との批判を浴びせた(「小右記」同年六月二十二日)。

  確かに、唐突に出家するキサキも稀だが、それを復縁する天皇は前代未聞だった。長徳の政変後、天皇には中宮に次ぐ位の妃として二人の女御が入内していたにもかかわらず、彼は定子その人への哀愁を断ち切れなかったのだ。

  一条天皇の愛情の深さゆえ、しばらくは誰も手出しのできない状態が続いた。しかし天皇は、皇統の継続のため男子をつくる必要があった。定子にその兆しが現れたのは長保元(999)年春のことである。

  それと相前後して、最高権力者・藤原道長の娘である彰子が十二歳で着裳(ちゃくも)した。女子の成人式である。彰子の入内が秒読みの状況となるなか、道長は定子への露骨ないじめを開始した。
  十一月には、一日に彰子が入内。七日の夜には結婚披露の宴と初めての床入りが行われた。定子の出産は、まさにその当日の朝の事だった。生まれたのは皇子。一条天皇の後継第一候補・敦康(あつやす)親王の誕生である。

  天皇の喜びをよそに、貴族たちの目は冷ややかだった(「小右記」長保元年十一月七日)。また、尼である定子は神域では忌み嫌われるため、中宮としてなすべき神事を行えなかった。それを理由に、長保二(1000)年にはついに彰子が新たなる中宮に立った。

  ただ、天皇の強い意向があったのだろう、定子もかわることなくこの地位にとどまった。定子は中宮の正式名称である「皇后」、彰子は「中宮」と通称されるようになったが(「日本記略」同年二月二十五日)、このように一人の天皇のキサキが二人で最高位を分かつという事態もまた、前代未聞のことであった。

  そうしたなか、定子は一条天皇の第三子を身ごもった。そして同年十二月十六日未明、女児を出産した床で崩御した。享年は二十四である(「権記」同日)。

  この人生を、なんと形容すべきだろう。浮かぶのはおそらく、波瀾や苦悩という言葉ではないか。にもかかわらず、定子を描く「枕草子」は幸福感に満ちている。紫式部が違和感を唱えるのも、決して筋違いとは言えないのではないだろうか。

3.枕草子の原点 中関白家の凋落

2024-09-29 15:58:18 | 枕草子
3.中関白家の凋落

山本淳子氏著作「枕草子のたくらみ」から抜粋再編集

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3.中関白家の凋落

  ところが、幸福は長く続かなかった。長徳元(995)年、父の道隆が四十三歳で死亡したのである。伊周(これちか)は父の後を受け継いで最高権力者の座に就く算段ををしていたが、二十二歳の若さとあって、さすがにそれはならなかった。いくつかの経緯を経て、結局関白の座は空席のまま、天皇が公卿最上位に据えたのは、道隆の末弟・藤原道長であった。

  伊周は荒れた。そして翌長徳二(996)年、誰も予測しなかった大事件を起こしてしまう。彼はあろうことか、弟と謀って前帝・花山院(998~1008)を襲い、矢を射かけたのである。花山院が伊周の愛人に横恋慕していると勘違いしたのが動機だと、「栄華物語」(巻四)は言う。
  ただし、調べると他にも余罪があった。一条天皇の母を呪詛(じゅそ)した罪。政権争いで道長を推したことを怨んでという。
  また、天皇家以外には催行を許されない仏事「大元師法(たいげんのほう)」を秘密裏に行ったこと。道長から政権を奪還するための祈祷であったとおぼしい。
  これらは天皇家の人々を標的とする暗殺行為や天皇家の権威の侵犯とみなされ、一条天皇は彼を断罪せざるを得なかった。世に言う「長徳の政変」である。

  この時、折しも定子は、天皇との初めての子を身ごもり、実家に帰っていた。そこに伊周逮捕の勅使がやってきた。定子は兄と手を携え、行かすまいと阻止した。検非違使らが手をこまねくうち伊周が姿をくらましたため、邸には家宅捜索の手が入ることとなった。

  京中の貴顕から庶民までが野次馬と化して邸を取り囲みごった返すなか、邸内からは家人のすすり泣きの声が聞こえたという。天井裏から床下までを探り、果ては寝室の壁を破るほどの大捜索のさなか、絶望した定子は自ら髪を切り、二十歳という若さで出家した。(以上、「小右記」長徳二年四月二十四日~五月二日)。

  女性の出家は夫との離別を意味したので、定子はこの時点で実質的には一条天皇の妻ではなくなったが、中宮の称号のみは残された。

  貴族の諸日記は出家後も彼女を「中宮」と呼び続けている。長徳の政変の後も定子には不運が続き、邸宅が全焼した。身を寄せた縁者、高階明順(あきのぶ)の宅で、十二月十六日には皇女・脩子(しゅうし)内親王が生まれたが、「日本記略」(同日)はそれを妊娠十二ヵ月での出産と記す。にわかには信じがたいが、胎児の発育が遅れるほどの心労がが母体を襲っていたということか。

  これだけでも、「紫式部日記」が言う「ぞっとするほどひどい」状況に適っている。後の章で詳しく述べるが、実は「枕草子」の執筆が本格的に開始されたのはこの頃である。「春は、あけぼの」をはじめとするあの明るい章段たちは、実は定子の周囲を覆っていた闇の中から生まれたのだった。

2. 枕草子の原点 定子の栄華

2024-09-23 11:46:30 | 枕草子
2.定子の栄華

山本淳子氏著作「枕草子のたくらみ」から抜粋再編集

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2.定子の栄華

  清少納言は正暦四(993)年から一条天皇の中宮定子のもとに仕え、やがて「枕草子」の執筆を始めた。紫式部が知っていた過酷な背景は、この定子に関わる。定子は、一条天皇の最愛の后であるとともに、悲劇の后だったのである。

  もともと定子は、西暦元(990)年、この年関白に就任する権力者・藤原道隆の娘として十四歳で天皇に入内した、押しも押されもしないキサキであった。
  平安時代中期、朝廷の最上層部で権力を握ろうとした貴族たちは、競って家の娘を入内させた。娘が天皇に愛されて皇子を産み、家の血を受けたその皇子がやがて即位して、身内という強力なつながりのもとで自家の権力をさらに盛り上げてくれることを願ったのである。

  特に摂政・関白は、天皇の代理あるいは助言者という最高職であり、天皇の身内であれば何かと都合がよかった。あわよくばその職をと狙って、貴族は娘たちを後宮(后妃の暮らす殿舎群)に送り込んだ。キサキたちが居並ぶ後宮は、そのまま政治の戦いの最前線であった。

  ところが、定子の場合は違っていた。定子は一条天皇がまだ十一歳の時に初めて迎えたキサキであり、他に競いあう相手などいなかった。そして他にキサキが迎えられぬまま、定子は同じ年のうちに早くも中宮、つまりキサキの中で最高位の称号を得た。
  完全に敵なしの中宮、それが定子だった。一条天皇より、三歳年上の定子は明るく知的で、どちらかといえば内気で学問好きな天皇の心を捉えたのだ。

  道隆の家を「中関白家(なかのかんぱくけ)」と呼ぶ。美男で明るく冗談好きの父・道隆(「大鏡」「道隆」)、国司階級出身で女官勤めに出ながら、男顔負けの知性ゆえに玉の輿に乗った母・高階貴子(たかしなのきし)。両親の長所を譲り受けて、男女ともに
華やかで知性もある子供たち(「大鏡」「道隆」)。

  特に定子の三歳年上の兄である伊周(これちか)は漢詩文の素養に長け、場面に合った詩句を朗々と歌ったり、自分でも漢詩を作っては自慢げに披露したりする才能の持ち主だった。(「本朝文粋」)。
  道隆は伊周を一条天皇の側近に就け、さらにわずか十八歳で、現在の内閣閣僚にあたる公卿の一員へと引き上げた(「公卿補任(ぶにん)」)。

  ここに定子の存在も力になっていたことは、言うまでもない。漢文を好んだ一条天皇のために伊周は内裏に上がっては手ほどきに勤しみ、その場にはやはり漢文をよく知る定子が控えて、ともに和やかな時を過ごした。天皇にとって中関白家の人々は家族であり、心を開くことができる数少ない相手だった。

  清少納言が定子のもとに仕え始めた正暦四(993)年、中関白家は、まさに栄華の極みにあったのである。

1.臨時 枕草子-清少納言の創作作品と紫式部の批判

2024-08-11 10:21:25 | 枕草子
臨時.枕草子-清少納言の創作作品と紫式部の批判

山本淳子氏著作「枕草子のたくらみ」から抜粋再編集

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序章 清少納言と紫式部の当時の状況

  紫式部の「清少納言酷評」

  寛弘七(1010)年、紫式部は執筆中の回顧録「紫式部日記」に、こう記した。

   清少納言こそ、したり顔にいみじう侍りける人。さばかりさかしだち、真名書き散らして侍るほども、よく見れば、まだいと足らぬこと多かり。

   (清少納言こそは、得意顔でとんでもなかったとかいう人。あれほど利口ぶって、漢字を書いてばらまいていますけれど、その学識の程度も、よく見ればまだまだ足りない点だらけです)
 (「紫式部日記」消息体)

  「清少納言こそ」とは、書き出しからして実にいらだった口調の清少納言批評である。紫式部は清少納言を見知っていたのだろうか。そうではない。
  史実として、清少納言は定子、紫式部は彰子と、時の一条天皇をめぐる二人の后にそれぞれ仕えた女房ではあった。が、紫式部が出仕したのは、長保二(1000)年の定子の崩御によって清少納言が職場を失ってから、五年が過ぎた後のことである。

  二人が内裏にいた時期はすれ違っており、今まさに対抗し合う二勢力を代表する文芸の女房として角を突き合わせることはなかった。察するに面識もなかったのではないか。
  というのも、冒頭文が言う「いみじう侍りける人」の「ける」という助動詞は、一般に自分が直接には知らない過去の出来事について用いるものだからだ。

  では紫式部は、何によって清少納言の行状を知ったのだろう。もちろん、噂好きな女房社会のこと、清少納言の記憶は囁かれ続けていたに違いない。だが少なくとも、ここで紫式部が「利口ぶって漢字を書いてばらまいた清少納言」と言っている内容は、何か書かれた資料によるものだ。
  なぜならば、その知識レベルを吟味するのに、紫式部が「よく見れば」という言葉を使っているからだ。「よく聞けば」などではない。「見る」ことで清少納言の学識程度を確認できる何かを、紫式部は手にしていたのだ。

  ならばそれは、おそらくは当時出回っていた「枕草子」、あるいはその断片と推測されよう。実際「枕草子」の中には、紫式部が言うとおり、清少納言が漢詩文の素養を披露して賞賛される場面が、何度も記されている。

  紫式部が「枕草子」を見ていたことは、「枕草子」の冒頭「春は、あけぼの」と「紫式部日記」の「秋のけはひ入り立つままに」の対照などから、かねて憶測されていた。