解説―3.「紫式部日記」紫式部が前提とした情報は明記されない
山本淳子氏著作「紫式部日記」から抜粋再編集
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紫式部が前提とした情報は明記されない
紫式部が前提とした情報は、有国一家についてそうであったように、ほとんどが明記されない。皆が知っていることだから記すまでもないか、あるいは記すことが憚られるということが理由であろう。その最たるものが、藤原道長が権力の座に就くまでの経緯、そして一条天皇の最初の中宮であり、最愛の妻であった故定子の記憶である。
異常な即位
一条天皇は寛和二(986)年、七歳の幼帝として即位した。あまりに幼いが、それは前帝花山天皇が突然内裏から失踪し、出家・退位してしまったためである。実はこの事件は、時の右大臣にして一条天皇の外祖父にあたる藤原兼家が画策した陰謀だった。
摂関制の当時、藤原氏の上級貴族は競って娘を天皇に入内させ、生まれた皇子を皇位につけて、外戚として摂政または関白の役職に就き、権力を得ることを願った。そしてその最高の手本は、遠く清和天皇の時代、貞観(じょうがん)八(866)年に最初の人臣摂政となった藤原良房(よしふさ)だった。
清和天皇は天安二(858)年の即位時まだ九歳の幼帝だったため、政務にあたる後見を必要とした。外祖父の良房はその任務を務め、天皇の成人後もひきつづき全権を委ねられたのだ。
関白が天皇の補佐役であるのに対して、摂政は天皇の代理として政治を執行する最重要職である。孫を幼帝とし、その外祖父摂政となれば、天皇家に生まれなかった者でも天皇同様の権力を手に入れることができる。良房は藤原一門にそのことを知らしめた。
だが彼に倣うには、まず自らが娘を持つこと、娘と天皇の歳回りが合うこと、娘が天皇に入内して子どもを産むこと、その子が男子であること、天皇に即位すること、そしてその時に自分が健在であることという、幾多の偶然を必要とする。
良房以来、外祖父摂政になった者はいなかった。摂政はいたが、天皇の祖父ではなかった。それを兼家は、陰謀という強引な手段によって成し遂げ、良房以来実に百二十年ぶりに、外祖父摂政という絶大な権力に就いたのだった。
つづく