3-2 なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか 「 3ロ 東京裁判で裁かれた「平和に対する罪」とは 」
第3章
日本人が知らない日本の歴史的功績 一部引用編集簡略版
本章は以下の内容を投稿予定です。
3イ 盧溝橋事件は日本の仕掛けではなかった
3ロ 東京裁判で裁かれた「平和に対する罪」とは
3ハ 日米戦争の原因の一つは人種差別
3ニ トルーマンもマッカーサーも人種差別主義者だった
3ホ トインビーが日本に与えた歴史的評価
3ヘ 軍人としては無能だったマッカーサー
3ト マッカーサーの日本非武装中立論
3チ 日本の”宗教改革”を企んだマッカーサー
3リ アメリカの日本に対する戦後処理の愚
3ヌ ルーズベルト(FDR)を「狂人」と呼んだフーバー元大統領
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3ロ 東京裁判で裁かれた「平和に対する罪」とは
日本占領を司った連合国軍最高司令官であり、東京裁判の主催者であったマッカーサー元帥は、日本を侵略国家として、一方的に断罪した。
ところが、マッカーサーは東京裁判の判決から、わずか二年半後の1951(昭和26)5月3日に、アメリカ上院軍事外交合同委員会において、日本はやむにやまれず自衛のために戦わざるをえなかった、という主旨の証言を行なった。日本はまだ占領下にあった。
マッカーサーは、アメリカが工業国にとって不可欠な石油や、屑鉄などの原料の対日禁輸を行なったことに触れて、「彼ら(日本)はもし、これらの原料の供給が絶ち切られたら、1,000万人から1,200万人の失業者が発生するだろうことを、恐れていた」「したがって、日本が戦争に飛び込んで行った動機は、その大部分が安全保障の必要に迫られてのことだった」と、述べた。
多くの日本国民が、アメリカ軍の占領下で行われた東京裁判を、それがあたかも厳正な司法裁判であったかのように、いまだに錯覚している。
通称”東京裁判”として知られているが、公式には極東国際軍事裁判と呼ばれた。
マッカーサー元帥が主導した極東国際軍事裁判は、日本が戦争に敗れた翌年の1946(昭和21)年5月3日に、開廷した。
東京裁判は復讐劇であるよりも、日本国民に日本が犯罪国家であると、思い込ませるために行われた。
東京裁判では日本の28人の指導者が、「平和に対する罪」によって裁かれた。東條元首相をはじめとする7人が、無残にも処刑された。
マッカーサーは日本に到着したその日のうちに、「平和に対する罪」を犯したかどで、重大戦争犯罪人の逮捕を命じた。
それまで、国際法に「平和に対する罪」は存在しなかった。戦勝国となった連合国が、創りだしたものだった。
東京裁判では日本の指導層は、満州事変が起こった1931(昭和6)年から対米戦争を始めるまで、一貫して侵略戦争を企てた罪で裁かれたが、日本ではこの11年間に、内閣が13回も交代しており、政策にも一貫性をまったく欠いていた。
他方、ルーズベルト(FDR)は1933(昭和8)年から、開戦の1941(昭和16)年まで、9年にわたって大統領の座にあった。
この「平和に対する罪」は、日本も含む15ヶ国(のちに63ヶ国)が、1929(昭和3)年に調印した「戦争放棄に関する条約」に、根拠をおいたものとされた。
しかし、不戦条約が締結された時でも、侵略戦争について、定義することはできなかった。
ケロッグ国務長官は「国家が軍事的に攻撃されるのではなく、経済封鎖を受けた場合はどうだろうか?」という質問を受けた。
ケロッグは「戦争を戦わないで、封鎖だけ行うことは、ふつう考えられない」と、答弁した。質問した議員がさらに「経済封鎖は、戦争行為に当たると思うが、どうか?」と質すと、ケロッグは「もちろん、戦争行為そのものだ」と、断言した。
日本が日米戦争に当たって侵略戦争を戦った罪で被告席に座らせられたが、史実は、日本ではなく、ルーズベルト(FDR)政権のアメリカが裁かれるべきだったことを、証している。
それまで、人類史で戦勝国が敗戦国を戦争を戦った罪によって、裁いたことはなかった。
今日でも、日本では”東京裁判史観”を信じている者が少なくないが、東京裁判自体が悪質な国際法違反だった。
参考:加瀬英明著「なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか」
加藤英明氏は「ブリタニカ国際大百科事典」初代編集長