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23 なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか 「 2チ なぜ新鋭艦が真珠湾にいなかったのか 」

2021-11-18 09:08:44 | 1-2なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか
23 なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか 「 2チ なぜ新鋭艦が真珠湾にいなかったのか 」

 第2章
 米政府が秘匿した真珠湾の真実 一部引用編集簡略版
本章は以下の内容を投稿予定です。
2イ 開戦を前にした昭和天皇の懊悩
2ロ 悲痛の極み、宮中御前会議
2ハ 山本五十六の無責任発言
2ニ アメリカに腰抜けだった連絡会議の結論
2ホ 日本艦隊の攻撃を待ちのぞむアメリカ
2ヘ 開戦強要の最後の一手”ハル・ノート”
2 ト その時、ルーズベルト(FDR)は何をしていたか
2チ なぜ新鋭艦が真珠湾にいなかったのか
2リ 万策尽きての開戦決定
2ヌ 暗号解読で、事前にすべてを承知していたアメリカ政府
2ル ハワイにだけは情報を伝えなかった謎
2ヲ アメリカの参戦決定と、チャーチルの感激
2ヨ ルーズベルト(FDR)は、いかにして四選を果たしたか
2タ 終戦の方策を考える余裕すらなかった日本
2レ アメリカで追及された真珠湾奇襲の真相
2ソ 終戦一年半前に作られた日本占領統治計画
2ツ 日本国憲法にこめたアメリカの狙い

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2チ なぜ新鋭艦が真珠湾にいなかったのか

  ハルは、野村、来栖両大使に”ハル・ノート”を手交した二日後に、イギリス駐米大使のハリファックス卿と合った。
  ハルは、「日本との外交関係は、事実上、終わった。仕事は、すでに陸海軍の手に移った。日本は突然に動き、それも完全な奇襲となるはずだ」と、告げた。
  その直後に、ハルはケイシー・オーストラリア公使(当時は、大国だけが大使を派遣することができた)が、調停の労をとろうと申し出たのに対して、「もはや、外交の舞台ではない」と、断っている。

  戦後、東京裁判において、インドのラダビノト・パル判事が日本を無罪とする判決書を提出したが、そのなかで”ハル・ノート”について、「たとえ、モナコのような小国であったとしても」、敢然として戦うことを選んだだろうと、述べている。

  11月26日に、キンメル太平洋艦隊司令官はスターク海軍作戦部長から、突然、空母「エンタープライズ」と「レキシントン」で、ウェーキ島とミッドウェー島へ、陸軍の戦闘機を運ぶように命じられた。
  二隻の空母はキンメルの指揮下にあって、真珠湾を母港としていた。キンメルは両空母を使って、ハワイ近海で模擬演習を予定していたが、ワシントンの命令に従った。

  11月28日に、「エンタープライズ」が巡洋艦などの11隻の新鋭艦によって護られてウェーキ島へ、12月5日に「レキシントン」が、やはり8隻の新造艦を伴って、ミッドウェー島へ向けて出港した。
  真珠湾に残ったのは、戦艦「アリゾナ」をはじめとしてほとんどが、第一次大戦からの旧型艦だった。真珠湾から、二隻しかなかった空母が出払った。

  今日では、ノックス海軍長官が日本の機動部隊がハワイへ向かっているのを知って、ルーズベルト(FDR)大統領の承認を得たうえで、二隻の空母を真珠湾から出航させたと、解釈されている。両空母はウェーキ島、ミッドウェー島へ向かっていたが、真珠湾が奇襲された直後に、急遽、ハワイに引き返した。

参考:加瀬英明著「なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか」
 加藤英明氏は「ブリタニカ国際大百科事典」初代編集長

22 なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか 「 2 ト その時、ルーズベルト(FDR)は何をしていたか 」

2021-11-17 09:15:19 | 1-2なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか
22 なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか 「 2 ト その時、ルーズベルト(FDR)は何をしていたか 」

 第2章
 米政府が秘匿した真珠湾の真実 一部引用編集簡略版
本章は以下の内容を投稿予定です。
2イ 開戦を前にした昭和天皇の懊悩
2ロ 悲痛の極み、宮中御前会議
2ハ 山本五十六の無責任発言
2ニ アメリカに腰抜けだった連絡会議の結論
2ホ 日本艦隊の攻撃を待ちのぞむアメリカ
2ヘ 開戦強要の最後の一手”ハル・ノート”
2 ト その時、ルーズベルト(FDR)は何をしていたか
2チ なぜ新鋭艦が真珠湾にいなかったのか
2リ 万策尽きての開戦決定
2ヌ 暗号解読で、事前にすべてを承知していたアメリカ政府
2ル ハワイにだけは情報を伝えなかった謎
2ヲ アメリカの参戦決定と、チャーチルの感激
2ヨ ルーズベルト(FDR)は、いかにして四選を果たしたか
2タ 終戦の方策を考える余裕すらなかった日本
2レ アメリカで追及された真珠湾奇襲の真相
2ソ 終戦一年半前に作られた日本占領統治計画
2ツ 日本国憲法にこめたアメリカの狙い

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2 ト その時、ルーズベルト(FDR)は何をしていたか

  1941(昭和16)年11月25日、ルーズベルト(FDR)大統領は翌日、ハル国務長官が”ハル・ノート”を日本の両大使に手交することになったので、すっかり寛いで、ノルウェーのマッタ・ソフィア皇太子妃を、ホワイトハウスに招いた。
  この日、エレノア夫人はワシントンのナショナル空港(現在のロナルド・レーガン空港)から午後4時の便で、ニューヨークへ飛び立っていた。

  ルーズベルト(FDR)は、エレノアが不在だと、いつもマッタ妃をホワイトハウスに招いた。
  前年4月に、ノルウェーがナチス・ドイツ軍によって占領されると、アメリカがオラフ皇太子とマッタ皇太子妃の亡命を受け入れて、ワシントンに居住させていた。

  ルーズベルト(FDR)はこの年8月に、大西洋のニューファンドランド沖で、チャーチル首相とイギリスの戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」、アメリカ巡洋艦「オーガスタ」の艦上で会談して「大西洋憲章」を発表した時に、大統領専用クルーザー「USSポトマック」に乗って行ったが、この時も、マッタ皇太子妃を同伴していた。

  ルーズベルト(FDR)は午後4時30分に、ホワイトハウスを大統領専用リムジンで出発し、ワシントンのすぐ隣のメリーランド州ベセスダのブックス・ヒルにある皇太子邸まで、マッタ妃を迎えにいき、二人でホワイトハウスに戻った。
  マッタ皇太子妃は39歳で、美貌だった。ルーズベルト(FDR)はいつもマッタを英語読みにして、「マーサ」と呼んでいた。

  ルーズベルト(FDR)とマッタ妃は二人で午後7時から大統領執務室(オーバル・オフィス)にこもって、夕食をとった。大統領執務室の窓からホワイトハウスの南庭を越して、美しくライトアップされたワシントン記念塔が、夜の帳のなかに浮きあがっていた。
  ルーズベルト(FDR)が執務机で、皇太子妃がコーヒーテーブルを使って、台所から運ばれたオードブルからデザートまでのフルコースの晩餐を、楽しんだ。
  マッタがノルウェーの地酒で、ドイツのシュナプスに似た、強い透明なアクアビットを持参した。

  ホワイトハウスの記録によれば、大統領は午後12時ちょうどに、大統領執務室を出て、寝室に入った。しかし、その晩、皇太子妃がホワイトハウスから帰ったという記録がない。
  11月26日に”ハル・ノート”を受けとった日本側の緊張ぶりと、その前日のホワイトハウスの大統領執務室とでは、何と対照的だったことだろうか。

参考:加瀬英明著「なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか」
 加藤英明氏は「ブリタニカ国際大百科事典」初代編集長

21 なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか 「 2ヘ 開戦強要の最後の一手”ハル・ノート” 」

2021-11-16 09:07:32 | 1-2なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか
21 なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか 「 2ヘ 開戦強要の最後の一手”ハル・ノート” 」

 第2章
 米政府が秘匿した真珠湾の真実 一部引用編集簡略版
本章は以下の内容を投稿予定です。
2イ 開戦を前にした昭和天皇の懊悩
2ロ 悲痛の極み、宮中御前会議
2ハ 山本五十六の無責任発言
2ニ アメリカに腰抜けだった連絡会議の結論
2ホ 日本艦隊の攻撃を待ちのぞむアメリカ
2ヘ 開戦強要の最後の一手”ハル・ノート”
2 ト その時、ルーズベルト(FDR)は何をしていたか
2チ なぜ新鋭艦が真珠湾にいなかったのか
2リ 万策尽きての開戦決定
2ヌ 暗号解読で、事前にすべてを承知していたアメリカ政府
2ル ハワイにだけは情報を伝えなかった謎
2ヲ アメリカの参戦決定と、チャーチルの感激
2ヨ ルーズベルト(FDR)は、いかにして四選を果たしたか
2タ 終戦の方策を考える余裕すらなかった日本
2レ アメリカで追及された真珠湾奇襲の真相
2ソ 終戦一年半前に作られた日本占領統治計画
2ツ 日本国憲法にこめたアメリカの狙い

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2ヘ 開戦強要の最後の一手”ハル・ノート”

  11月26日に、第一航空部隊が一隻また一隻、錨をあげて、白雪によって一面覆われた択捉島の単冠(ひとかっぷ)湾から出撃して、征途についた。
  機動部隊は冬場は交通量が少ない、アリューシャン列島の南の北寄りの航路をとって、一路、ハワイへ向かった。

  出撃に当たって、もし途上で日米交渉が妥結した報せを受けたら、その場で作戦を中止して、すぐに引き返すように、厳命を受けていた。

  日米両国は日本時間でこの⒓日後に開戦し、広大な太平洋を舞台として、三年八ヵ月以上にわたって死闘することとなった。

  ハワイを目指す第一航空艦隊は、どの艦も機密保持のために、厳重な無線封鎖を行なっていた。
  ところが、途上で何回か無線封鎖を破って、連絡のために僚艦に向けて、微弱な低周波電波を発したのを、フィリピンのコレヒドールと、グアム島、アラスカのダッチハーバーの無線所が、そのつど傍受して、方位を探知することによって、その位置をつかんだ。

  これほど、大規模な日本艦隊がアメリカの領土へ向かったことは、かつてなかった。

  偶然の一致だが、第一航空艦隊が出撃したのと同じ11月26日、ハル国務長官は、野村、来栖両大使を午後5時に国務省に招いて、突如”ハル・ノート”を手交した。
  ”ハル・ノート”は、日本大使館から、ただちに外務大臣に宛てて打電された。
  ”ハル・ノート”が列記した提案は、従来の交渉経緯をまったく無視したもので、日本としてまったく了解しがたいものだった。

  政府と軍の誰もが、アメリカの最後通牒だと判断した。
  東郷外相は後に”ハル・ノート”を読み終わると、「眼も眩む思いがした」と、改装している。
  ”ハル・ノート”は十ヵ条から成り立っていた。
  そのなかには、在来日本資産の凍結解除、円貨の安定などの条項もあったものの、中国大陸と仏印から、一切の陸海空軍と警察力を即時撤収することや、蒋介石の重慶以外の政権を認めることを禁じた点だけをとっても、考慮の余地がなかった。

  重慶の蒋介石政権だけを正統派政権として認めるという要件は、日本が国交関係を樹立していた南京政権の存在を否認するものだし、また、日独伊三国同盟からの実質的な離脱を求めていたのも、国際条約を否定することは、国家の信義を裏切ることになるので、できなかった。

  ”ハル・ノート”は、日米交渉がそれまで積み上げてきたものを無視して、根底から壊す言語道断なものだった。アメリカはそうすることによって、日本を戦争に追いやった。

  ルーズベルト(FDR)政権は日本が受諾することを、はじめからまったく期待していなかった。
  チャーチル首相は後に、”ハル・ノート”について、「われわれはその瞬間まで、(”ハル・ノート”の)十項目について知らなかった。この文書はわれわれが要求していたものを、はるかに大きく上回ったものだった。日本大使があきれ返ったというのは、その通りだったにちがいない」と、回想している。

  ハル国務長官は、野村、来栖両大使に”ハル・ノート”を手交した直後に、スティムソン陸軍長官に「これで、私のほうは片づいた。あとの仕事は、君とノックス海軍長官の手のなかにある。陸軍と海軍のね」と、言った。

  ”ハル・ノート”を起草したのは、ハルでも、国務省でもなく、ハリー・デクスター・ホワイト次官補だった。ホワイトは、モーゲンソー財務長官の片腕だった。

(投稿者補足:ユダヤ系ホワイトは、ソビエトのエージェント(スパイ、コミンテルン)であった。同じユダヤ系モーゲンソーに出会うまでは苦しい生活をつづけたが、「ドイツ民族をこの世から消してしまいたい」という憎しみを抱くモーゲンソーに優遇され、アメリカをヨーロッパの戦争に参戦させるために、日本を挑発するハル・ノートを草案したことが評価され、アメリカの経済学者の頂点で活動できるようになった。終戦後はアメリカで米国兵が多数死亡する原因を作った国家反逆罪などで追及され、追及の途上で病死した)

  ホワイトが書いた文案は、日本に戦争を決意させるように追い詰めることを、狙っていた。そのうえで、モーゲンソー財務長官を通じて、ルーズベルト(FDR)大統領に提出された。
  ルーズベルト(FDR)はモーゲンソーから受け取ると、ただちに承認し、ハルに日本大使に手交するように、指示した。

  モーゲンソーは、ハル、スティムソン、ノックスを加えた四人の側近の閣僚のなかで、ルーズベルト(FDR)ともっとも親密だった。
  ルーズベルト(FDR)が1945(昭和20)年4月12日に、ジョージア州ウォームスプリングスの別荘で急死した前の晩に、モーゲンソーを招いて夕食を共にしていた。この時、ルーズベルト(FDR)はもっぱら回顧談に耽って、機嫌がよかった。

参考:加瀬英明著「なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか」
 加藤英明氏は「ブリタニカ国際大百科事典」初代編集長

20 なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか 「 2ホ 日本艦隊の攻撃を待ちのぞむアメリカ 」

2021-11-15 09:02:57 | 1-2なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか
20 なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか 「 2ホ 日本艦隊の攻撃を待ちのぞむアメリカ 」

 第2章
 米政府が秘匿した真珠湾の真実 一部引用編集簡略版
本章は以下の内容を投稿予定です。
2イ 開戦を前にした昭和天皇の懊悩
2ロ 悲痛の極み、宮中御前会議
2ハ 山本五十六の無責任発言
2ニ アメリカに腰抜けだった連絡会議の結論
2ホ 日本艦隊の攻撃を待ちのぞむアメリカ
2ヘ 開戦強要の最後の一手
2 ト その時、ルーズベルト(FDR)は何をしていたか
2チ なぜ新鋭艦が真珠湾にいなかったのか
2リ 万策尽きての開戦決定
2ヌ 暗号解読で、事前にすべてを承知していたアメリカ政府
2ル ハワイにだけは情報を伝えなかった謎
2ヲ アメリカの参戦決定と、チャーチルの感激
2ヨ ルーズベルト(FDR)は、いかにして四選を果たしたか
2タ 終戦の方策を考える余裕すらなかった日本
2レ アメリカで追及された真珠湾奇襲の真相
2ソ 終戦一年半前に作られた日本占領統治計画
2ツ 日本国憲法にこめたアメリカの狙い

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2ホ 日本艦隊の攻撃を待ちのぞむアメリカ

  野村駐米大使は軍人だった。外交についてはシロウトだった。
  政府は野村では心もとなかったので、野村を援けるために、ベテラン外交官の来栖(くるす)三郎大使を特使として、ワシントンに急派した。

  11月5日に、来栖は飛行艇のクリッパー便に搭乗して、アメリカへ向かった。クリッパー便はアメリカの航空会社が運営して、香港とアメリカを、日本を経由して結んでいたが、チャイナ・クリッパーと呼ばれていた。

  来栖は駐ベルギー大使、駐独大使を務めて、日独伊三国同盟条約に調印していたが、ドイツ贔屓ではけっしてなかった。
  来栖特使が離京した5日に、山本五十六連合艦隊司令長官に対して、「12月上旬ヲ期シテ諸藩ノ作戦準備ヲ完成スルニ決ス」という、大本営命令第一号が発せられた。
  8日に連合艦隊機密命令として、「X日ハ⒓月8日トス」と、発令された。X日は開戦日のことである。

  11月17日に、野村が来栖特使を同行して、ルーズベルト(FDR)大統領と会見した。
  来栖特使はこの時、ルーズベルト(FDR)大統領を前にして、驚くほど素直に語った。

  来栖は、「日本はもとより対米交渉の成功を強く望んでいるが、それには時間的な要素がある。日本は事態を遷延(せんえん:のびのびにすること)するほど、自己を防衛するのに当たって、経済的、軍事的条件が悪化することになる。
  日本としては、今後、無為に過ごして結局は全面的な屈服となることは、どうしても耐えられない。日本としては妥協に対する熱意は十分にあるから、急いで交渉を妥結させる必要がある」と、訴えた。

  これに対して、ルーズベルト(FDR)は「友人のあいだには、最後の言葉はない。日米間になんらかの一般的な諒解をつくることによって、事態を救うことができると思う」と、子供をたしなめるように言って、はぐらかした。

  アメリカは日本の潜水艦、駆逐艦以上の艦艇の無線機のそれぞれの細かい癖まで、把握していた。
  11月22日から24日の間に、航空母艦「赤城」を旗艦として、6隻の航空母艦を中核とした、31隻によって構成される第一航空艦隊が、南千島の択捉(えとろふ)島の単冠(ひとかっぷ)湾に終結したことを、知った。

  11月25日に、ルーズベルト(FDR)大統領がホワイトハウスに、ハル国務長官、スティムソン陸軍長官、ノックス海軍長官、マーシャル参謀総長、スターク海軍作戦部長を召集して、「次の月曜日(12月1日)あたりが、もっとも危険になると思う」と、述べた。

  この時の記録によると、スティムソンが「日本人(ジャップ)はこれまで無警告で攻撃して、戦争を開始してきたことによって、悪名が高い。日本に最初に撃たせると危険もあるが、アメリカ国民の完全な支持を取りつけるためには、確実に日本人(ジャップ)に第一発目を撃たせることが、望ましい」と、発言した。

  会議は、「アメリカに過大の危険を招かぬように配慮しつつ、日本のほうから攻撃せざるをえないように仕向ける(The question was we should maneuver them into the position of firing the first shot without allowing too much dander to ourselves)」ことで、合意した。
  スティムソンはこの日の夜、日本を「彼ら」と呼んで、「問題はいかに彼らを誘導して、我々がさほどに大きな損害を被ることなく、最初の一発目を撃たせるかだ。これは、厳しい計略だ」と、日記に記した。

参考:加瀬英明著「なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか」
 加藤英明氏は「ブリタニカ国際大百科事典」初代編集長

19 なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか 「 2ニ アメリカに腰抜けだった連絡会議の結論 」

2021-11-14 09:12:36 | 1-2なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか
19 なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか 「 2ニ アメリカに腰抜けだった連絡会議の結論 」

 第2章
 米政府が秘匿した真珠湾の真実 一部引用編集簡略版
本章は以下の内容を投稿予定です。
2イ 開戦を前にした昭和天皇の懊悩
2ロ 悲痛の極み、宮中御前会議
2ハ 山本五十六の無責任発言
2ニ アメリカに腰抜けだった連絡会議の結論
2ホ 日本艦隊の攻撃を待ちのぞむアメリカ
2ヘ 開戦強要の最後の一手
2 ト その時、ルーズベルト(FDR)は何をしていたか
2チ なぜ新鋭艦が真珠湾にいなかったのか
2リ 万策尽きての開戦決定
2ヌ 暗号解読で、事前にすべてを承知していたアメリカ政府
2ル ハワイにだけは情報を伝えなかった謎
2ヲ アメリカの参戦決定と、チャーチルの感激
2ヨ ルーズベルト(FDR)は、いかにして四選を果たしたか
2タ 終戦の方策を考える余裕すらなかった日本
2レ アメリカで追及された真珠湾奇襲の真相
2ソ 終戦一年半前に作られた日本占領統治計画
2ツ 日本国憲法にこめたアメリカの狙い

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2ニ アメリカに腰抜けだった連絡会議の結論

  10月16日、近衛内閣が総辞職して、翌日、東条英機陸相に組閣の大命が降った。
  これは、東条にとっても、全く意外だった。

  木戸幸一内大臣が、東条であれば天皇への忠誠心が人一倍強いので、血気にはやる軍を抑えて、対米交渉をまとめることができると、考えたからだった。

  東条は天皇から組閣の大命を拝受した時に、木戸から天皇の御意志が9月6、7日の御前会議の決定にとらわれることなく、白紙に戻して、国策を再検討することであると告げられて、天皇の御意志に従うことを決めた。
  東条は陸相と内相を兼任したが、日米交渉が妥結した場合に、陸軍の一部が血気にはやって、二・二六事件のような反乱が起こるのではないかと、恐れたためだった。

  東条内閣が発足してから、10月23日から30日まで、26日に首相と海相が伊勢神宮を参拝するために離京した日を除いて、はじめての大本営政府連絡会議が、連日催された。

  東条英機は11月1日に連絡会議を再開する朝に、杉山参謀総長と7時から会談して、「お上(かみ)の御心を、考えねばならない。日露戦争よりも、はるかに大きな戦争であるから、天皇の心の御痛みは、十分拝察できる。今開戦を決意することは、とうていお聞き届けにならないと思う」と、述べた。
  連絡会議は午前九時から、翌二日の早朝の午前一時半にいたるまで、16時間半にもわたって、「臥薪嘗胆案」から開戦案までめぐって、激論がかわされた。出席した全員が、これが和戦を決める最後の会議になることを、知っていた。

  東郷重徳外相が臥薪嘗胆策を、強く主張した。賀屋興宣(かやおきのり)蔵相も、勝算が低いのに開戦することに、反対した。
  そのあいだにも、日本は貴重な石油を消費しつづけていた。

  「臥薪嘗胆」は日本が日清戦争に勝ち、1895(明治28)年の日清講和条約によって、清国から遼東半島、台湾、澎湖(ほうこ)島の割譲を受けたのにもかかわらず、ロシア、ドイツ、フランスによる強引な三国干渉を被ったのに対して、当時の日本の軍事力では列強三国の力にいかにも抗しようがなく、涙を呑んで遼東半島を返還したことに由来する。その後の日本では、「臥薪嘗胆」の四文字が、憤激した日本国民の合い言葉となった。

  「臥薪嘗胆」は仇を討つために、薪(まき)の上に臥してわが身を苦しめ、肝をなめて報復を忘れまいとした、中国の古典にある故事からとった成語だった。

  この連絡会議で、永野軍令部総長は「戦争第一、第二年の間は勝算がある。第三年以降は、予断を許さない」と、発言した。
  杉山参謀総長「南方作戦により、フィリピン、蘭印、シンガポール、ビルマなどを占領する結果、支那は英米の支援によって抗戦を続けているが、支援路を遮断されて、抗戦を断念する可能性が大である」と、いつものように楽観的な見通しを、述べた。

  両総長はこのままゆけば、日本は石油が枯渇してしまうために、「ジリ貧」に陥るから、もし、対米戦争の時機を先送りしたら、その後は戦おうにも、戦うことができず、為すすべもなくアメリカに屈服せざるをえないという、かねてからの主張を繰り返した。陸海軍は戦機を逸してしまうことを、焦っていた。

  日本にはその時点で、石油の貯蔵量が民需も含めて、二年分しかなかった。当時の日本は石油をアメリカからの輸入に依存していたので、陸海軍にとって一日一日、燃料が逼迫していった。石油の供給を絶たれれば、軍だけでなく、日本経済全体が立ち行かなかった。
  東条首相が「政府としては、統帥部が責任をもって言明しうる限度は、開戦後二ヵ年は成算があるが、第三年以降は不明であるということに諒解する」と、述べた。

  そのうえで、両総長が政府に対して、11月30日まで外交交渉を続けてもよいといって、譲歩した。

  東条首相が「12月1日にならないものか? 一日でもよいから、長く外交をやることができないだろうか?」と、ねばった。
  統帥部が「11月30日夜12時までは、よろしい」と答えたので、連絡会議は外交打ち切りの日時を、12月1日零時(東京時間)と決定して、閉会した。
  その直後に、外務省から野村大使に発せられた訓電は、日限を特別の配慮で30日まで延期すると通報したうえで、「右期日ハ此ノ上ノ変更ハ絶対不可能ニシテソノ後ノ情勢ハ自動的ニ進展スル他ナキニツキ」と、念を押していた。

  アメリカは暗号解読を通じて、あたかも東京の大本営政府連絡会議に出席しているかのように、日本の動きを承知していた。
(投稿者補足:暗号解読には、東部の名門女子大学を修了した成績優秀な女性たち約一万人が、招集・訓練され育成された。彼女らは、コード・ガールズと呼ばれた)
  東京の外務省、日本の在外大使館が打電した電文は、アメリカで数時間以内に解読されて、陸海軍の情報将校が要約したうえで、大統領、国務長官、陸海軍長官のもとに、届けられていた。

  解読文書は、黒皮製のブリーフケースのなかに納められて、海軍将校によって、ルーズベルト(FDR)大統領のもとに、届けられた。
  鞄はワシントン市内の有名なカマリア・アンド・バックレー鞄店に、特注でつくらせたものだった。ジッパーによって開閉され、南京錠がついていた。鍵は大統領と、「マジック」解読班しか、持っていなかった。
  11月1日に、翌日から要約ではなく、全文を届けるようにとのルーズベルト(FDR)大統領の指示があり、翌日からは、解読分の全文がそのまま届けられた。

参考:加瀬英明著「なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか」
 加藤英明氏は「ブリタニカ国際大百科事典」初代編集長