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解説-16.「紫式部日記」夫の死

2024-06-22 16:26:58 | 紫式部日記を読む心構え
解説-16.「紫式部日記」夫の死

山本淳子氏著作「紫式部日記」から抜粋再編集

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夫の死

  だが、幸福は長く続かなかった。長保三(1001)年四月二五日、宣孝が亡くなったのである。宣孝はその二カ月前まで記録に名前が見える(「権記」同年二月五日)ので、長く臥せっていた訳ではない。
  紫式部にとっては唐突な、夫との死別であったに違いない。加えて妾という立場でもある。死に目にあう、ということもできなかっただろう。
  「紫式部日記」によれば、彼女はその後幾つかの季節を、喪失感だけを抱えて呆然と過ごすことになる。

「紫式部集」の和歌は、夫との死別を境に一変し、人生の深淵を見つめ、逃れられぬ運命を嘆くものとなる。彼女は夫の人生を「露と争ふ世」と詠んでそのはかなさを悼み、自分のことは「この世を憂しと厭(いと)ふ」と言い捨てた。
  「世」とは命や人生、また世間や世界を意味する言葉だが、そこに共通するのは、<人を取り囲む、変えようのない現実>ということである。そして、そうした「世」に束縛されるのが、人の「身」である。人は「身」として「世」に拒まれ生きるしかない。ただ死ぬまでの時間を過ごすだけの「消えぬ間の身」なのだ。夫の死によって、紫式部はそのことに気づかされたのである。

  ところが、やがて紫式部は、「身」ではないもう一つの自分を発見する。それは「心」である。ある時気がつくと、思い通りにならない人生という「身」は変わらないのに、悲嘆の程度が以前ほどではなくなっていた。

  数ならぬ心に身をばまかせねど身に従ふは心なりけり
  (「紫式部集」五十五)

  「心」は「身」という現実に従い、順応してくれるものなのだ。だがやがて紫式部は、心というものの、現実を超えた働きにも目を向けるようになる。

  心だにいかなる身にか適(かな)ふらむ思ひしれども思ひしられず
  (「紫式部集」五十六)

  自分の心はどんな現実にも合わないものだと、何度も思い知るのである。

  現実に適応しない心なら、その居場所は虚構にしかない。こうして紫式部は、寡婦であり母である「身」とは別の所に自身の心のありかを見つけるようになる。友人を介して物語に触れ、少しづつ前向きに生き始める様は「紫式部日記」に記されている。

つづく

解説-15.「紫式部日記」結婚

2024-06-21 11:23:52 | 紫式部日記を読む心構え
解説-15.「紫式部日記」結婚

山本淳子氏著作「紫式部日記」から抜粋再編集

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結婚

  「紫式部集」によれば、紫式部には、下向先の越前まで恋文を送ってくる男がいた。花山天皇時代、六位蔵人として為時と同僚だった、藤原宣孝である。

  宣孝は紫式部の曾祖父である右大臣藤原定方の直系の曾孫で、紫式部とはまたいとこの関係に当たる。宣孝の父の為輔は公卿で寛和二(986)年権中納言にまで至って亡くなった。母は参議藤原守義(もりよし)女(むすめ)、宣孝とその兄弟たちは受領だったが、姉妹は参議藤原佐理(すけまさ)に嫁いでいる。
  また、宣孝の妻の一人は中納言藤原朝成(あさひら)女で、彼女と宣孝の間の子である隆佐(たかすけ)も、後に後冷泉天皇の康平二(1059)年、七十五歳で従三位に叙せられ公卿の一員になった。(図の関係系図参照)
  このように宣孝の周辺には、過去・宣孝現在・そして未来にわたって公卿が多い。為時とは違い、彼の一族は処世に長けていたのである。宣孝自身は正五位下右衛門権佐兼山城の守が極位極官だったが、それは壮年でなくなったためであろう。

  宣孝は目端の利く男で、行動力もあった。「枕草子:あはれなるもの」に書きとめられているエピソードは有名である。道長も参詣した吉野川金峯山(きんぷせん)は、誰もが浄衣(じょうえ)姿で行くと決まっている。だが宣孝は「人と同じ浄衣姿では大した御利益もあるまい」と、自らは紫の指貫に山吹の衣、同行の長男にも摺り模様の水干などを着させて参詣し、人々を驚かせた。

  ところがまさにその甲斐あってか、二か月後には筑前の守に任官できたという。宣孝が筑前の守になったのは事実で、西暦元(990)年のことである。
  なお、参詣に同行した長男隆光は「枕草子:監物(けんもつ:中務 (なかつかさ) 省に属し、大蔵 (おおくら) ・内蔵 (うちくら) などの出納を監督)」に「長保元(999)年六月蔵人、年二九」と記される。
  実際に長男隆光が蔵人になったのは長保三(1001)年六月二十日(「権記」)だが、いずれにせよ長男隆光は九九〇年代初めの生まれとなり、紫式部と同年代、或いは年上である可能性もある。

  つまり宣孝は、紫式部の父と言ってもよいほどの年配だったのだ。恋が進展した長徳三(997)年、紫式部は二十代半ば、宣孝は四十代半ばか五十がらみで、十分に大人の恋と言えた。

  宣孝は楽しい男だった。春先の恋文には「春は解くるもの」という謎々を書いてきたりした。何が解けるのか?氷や雪、そして冷たい女の心である。「春だもの、君は私を好きになるさ」というのが謎々の意味だ。いっぽう女性関係も盛んで、紫式部と同時期に近江の守の娘にも言い寄っているとの噂があったという。「尊卑分脈」によれば、紫式部以外に少なくとも三人の妻がいた。おそらく裕福でもあったのだろう。

  紫式部はこの年秋ごろに帰京したと考えられる。都では定子が天皇に復縁され、批判の的となっていた頃である。結婚は翌年であろう。なお紫式部は本妻ではなく、妾(しょう:本妻以外の妻)の一人だったので、結婚は終始宣孝が彼女を訪う妻問婚(つまどいこん:夫が妻の下に通う婚姻の形態)の形であった。やがて娘が生まれ、紫式部は妻そして母としての日々を生きた。

つづく

解説-14.「紫式部日記」少女時代 後半

2024-06-19 09:02:27 | 紫式部日記を読む心構え
解説-14.「紫式部日記」少女時代 後半

山本淳子氏著作「紫式部日記」から抜粋再編集

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少女時代 後半

  いっぽう「紫式部日記」には同母弟の惟規とのエピソードが書きとめられている。

  弟が漢籍を素読・暗唱する傍らでそれを聞いていて、紫式部のほうが「あやしきまでぞさとく」習得してしまったという思い出話である。門前の小僧さながらであるが、父は「お前が男子でないのが私の不運だ」と嘆いたという。

  当時漢学は、男性にとっては官人世界での出世の手掛かりになり得たが、結婚し「里の女」として生きる女性にとっては疎遠なものだった。父は紫式部の将来像として、そうした人生しか想像しなかったのである。とはいえこの時期、紫式部は家庭において、「史記」や「白紙文集」など漢籍を心から楽しみ、おそらくはそれに没頭する日々を送ったはずである。紫式部の漢学素養は実に豊かであるばかりか、知識教養という程度を超えて、彼女の物の見方や考え方そのものの土台になっている。それは後年彼女が書くことになる「源氏物語」から透かし見られることだ。

  為時は、大学に学び文章生となり、播磨の権少掾(ごんのしょうじょう:国司の三等官、主に書記業務)の職を得た。文章生が学業を終えると諸国掾に推薦任官される制度(文章生外国)があったのである。その後永観二(984)年、花山天皇のもとで蔵人式部の丞の職(三等官)を得る。
  花山天皇は母の懐子も祖父の伊尹(これまさ)も既に亡くし、外戚といえば叔父の義懐(よしちか)ひとりであった。時の関白頼忠は天皇に冷ややかで、右大臣兼家は自らの孫である東宮の即位を虎視眈々と狙っていた。

  このように公卿たちの協力が得られぬ中で、大学寮出身の有能の者に実務担当のチャンスが回って来たのである。為時は自らを遅咲きの桜に重ね「遅れても咲くべき花は咲きにけり身を限りとも思いけるかな」と詠んで喜んだ(「後拾遺集」春下・一四七)。だが花山朝は二年で終わり、彼はその後十年間、散位を余儀なくされた。

  散位とは、官人として位階はあるが官職を持たない者である。京にいれば一応全員が散位寮に属して交代勤務する形になっているが、これといった仕事は無く、臨時で行事等に召され奉仕する程度である。当然収入は少ない。紫式部は父のこうした状況を目の当たりにしながら娘時代を送った。

  為時が浮上したのは長徳二年、折しも伊周(これちか)たちが花山法王襲撃事件を起こした直後の正月二十五日であった。為時はこの日の県召除目(あがためしじもく)で、当初淡路の守に任ぜられた(長徳二年大問書)。だが二十八日、道長により、為時は俄かに大国越前の守に替えられた(「日本紀略」)。

  「今昔物語集」(巻二十四の三十)は、為時が申し文を作って奉り、その中の

  「苦学の寒夜 紅涙襟を霑(うるお)す 除目の後朝 蒼天眼に在り」
  [苦学に励んだ寒い夜は、つらさのあまり血の涙が襟を濡らした。
   除目のあった翌朝は、失望のあまり真っ青な空が目にしみる。]

《解説》苦学の寒夜。紅涙(こうるい)襟(えり)を霑(うるお)す。除目の後朝(こうちょう)。蒼天(そうてん)眼(まなこ)に在り
《現代語解釈》寒い夜に耐えて勉学に励んでいたが、人事異動では希望する官職に就くことができず、失意と絶望で血の赤い涙が袖を濡らしている。しかし、この人事の修正が朝廷で行われれば、青く晴れ渡った空[天皇の比喩表現]の恩恵に感じ入って、その蒼天に更なる忠勤を誓うだろう

との句が道長を感動させたという。北陸道は中国大陸に面し、早くから菅原道真(加賀の権守(ごんのかみ))や源順(したごう:能登の守)など文章道出身者の補される(職に任じられる)所であった。

  紫式部は為時と共に都を離れ、越前に下向することになった。友と別れ、故郷を離れたのは六月のことと考えられている。長徳の政変が巻き起こり、定子が髪を切ったのは五月である。昨日の中宮が今日は孤独な尼に堕ちる人生の無常を、紫式部は一人の娘として感じていたことだろう。

つづく

解説-13.「紫式部日記」少女時代 前半

2024-06-16 10:52:17 | 紫式部日記を読む心構え
解説-13.「紫式部日記」少女時代 前半

山本淳子氏著作「紫式部日記」から抜粋再編集

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少女時代 前半

  紫式部の生まれた年は、不明である。手掛かりは「紫式部日記」消息体末尾ごろに「いたうこれより老いほれて、はた目暗うて経よまず」とあることで、これを執筆した寛弘七(1010)年頃に、近い将来の老眼を覚悟する年齢だったと推測される。極めて大雑把な推定と言わざるを得ないが、九七〇年・九七三年・九七四年・九七五年・九七八年という生年の諸説はほぼここを出発点とする。

  紫式部の本名もまた不明である。「紫式部」とは彰子に出仕した後の女房名で、それも当初は「藤式部」と呼ばれていたことが「栄華物語」(巻九・十)から知られる。

  だが「栄華物語」は、「紫式部日記」に取材した寛弘五年の篤成親王五日の産養記事(巻八)では「むらさき」と記しているので、「紫式部」という呼び名は早くにできていたと思われる。応徳三(1086)年に完成した「後拾遺集」には作者名「紫式部」として三首の和歌が採られており、この頃には通り名の「紫式部」の方が一般化していたことになる。

  なお「紫式部」の「式部」の部分は、父為時が花山天皇の時代に「式部の丞」であったことによる。紫式部の彰子への出仕はその時から二十年以上を経ており、余りに時が隔たっていることから、紫式部には父の式部の丞時代に出仕経験があり、「式部」という女房名はその時からのものだとする説もある。

  だが、女房名に用いられる近親者の官職は、必ずしも出仕現在のものとは限らない。和泉式部の「式部」は夫の橘道貞が和泉の守だったことによるが、それは彰子への出仕の十年前の官職である。またその出仕の時、和泉式部と道貞との関係は既に破綻していた。しかし和泉式部は、おそらくは自分の意志で、「和泉」の名を望んだのである。
  とすれば紫式部の「式部」についても、彼女が父の颯爽としていた時期を懐かしんで「式部」という女房名を望み、その名が認められたと考えるのが自然である。何より、「紫式部日記」で紫式部は女房生活に相当な違和感を示している。それは若い時期に外で仕事をした経験がある人のものではない。

  紫式部の少女時代・娘時代については、「紫式部日記」および自撰歌集「紫式部集」が数少ない資料となる。どちらにも全く母に関する記事が見えないことから、母とは紫式部が幼い頃に死別したか、離別したものと推測される。同母の姉がいたが、「紫式部集」によれば紫式部の娘時代に亡くなった。紫式部は、妹を亡くすという似た境遇の友と文通し、互いを姉妹と呼んで悲しみを癒し合った。

つづく

解説-12.「紫式部日記」紫式部について

2024-06-14 14:31:41 | 紫式部日記を読む心構え
解説-12.「紫式部日記」紫式部について

山本淳子氏著作「紫式部日記」から抜粋再編集

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紫式部について

  紫式部自身についての情報も、「紫式部日記」を読むためには欠かせない。自家の歴史やその時その時の暮らし向きなどは、彼女の性格や物の見方に大きく関わっていると考えられるからである。
  また、「紫式部日記」には作者が我が人生の苦しさに思いを致す場面があるが、その苦が何に由来するのかは、日記自体の文面には明記されない。彼女の人生遍歴を知ることは、そうした箇所を理解するための直接の材料にもなり得るのである。

家系

  紫式部は藤原為時の娘で、母は藤原為信の女(むすめ)である。(図の系図参照)。為時は藤原冬嗣の子の良門(よしかど)流、母は同じく冬嗣の子の長良流で、藤原北家の一角をなす。
  しかし藤原氏の主流は、良門・長良の兄弟である良房に継がれた。「紫式部日記」に登場する藤原氏の公卿たちは、藤原有国以外は全員がこの良房流である。とはいえ紫式部の家も、曾祖父の代までは公卿として繁栄した。

  父方から見てゆこう。曾祖父藤原藤原兼輔は醍醐天皇の時代に公卿となり、天皇に娘の桑子を入内させた。彼の和歌「人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道に惑ひぬるかな(「後撰集」雑一・1102)」は、「大和物語」では、彼が桑子を心配して帝に奉った歌とされている。彼は承平三(933)年まで生き、極官(ごっかん:出世できた最高の官位)は中納言右衛門督(うえもんのかみ)であった。

  また、父為時の母方の祖父で、紫式部にとって曾祖父に当たる人に、藤原定方がいる。彼は姉の胤子(いんし)が宇多天皇女御で、醍醐天皇の母だった。定方は甥である醍醐天皇の時代に栄え、延長二(924)年には右大臣に至った。なおその時左大臣だったのは、藤原道長の曾祖父忠平である。

  兼輔と定方はきわめて仲が良く、紀貫之や凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)、清少納言の曾祖父(一説に祖父)である清原深養父らをかわるがわる自邸に招き、和歌や管弦を楽しむなど、当時の文化の世界のパトロン的存在だった。そうした折りの和歌は「後撰集」にも収められている。

  勅撰集に曾祖父らの晴れがましい様子を確認することができるのは、紫式部にとって誇りであったろう。「紫式部日記」消息体であれだけ清少納言を貶められるのは、こうした父祖同士の関係も関わっているに違いない。同じ「後撰集」には、兼輔の子で紫式部の祖父である雅正(まさただ)の和歌も収められている。だが雅正は生涯受領にとどまり、従五位下に終わった。

  為時は、「尊卑分脈」によれば雅正と定方女の間に生まれた三男である。長兄は為頼、次兄は為長で、三人とも受領階級に属した。しかし三人ともに「拾遺集」や「後拾遺集」に歌の採られる歌人であった。特に為頼には家集「為頼集」があり、その方面では円融天皇時代の関白頼忠とも近い関係であったことが窺われる。彼は長徳四(998)年に亡くなったが、紫式部にも影響を与えたと考えられる。

  このように、紫式部の家は和歌の家ということができる。しかし為時は、文章道(もんじょうどう)を志し、文人となった。そこには妻の祖父、紫式部にとっては母方の曾祖父に当たる藤原文範の影響があったのではないか。

  文範は文章道の出身で、小内記や蔵人式部の丞から身を立て、村上天皇の康保四(976)年に参議に至った。実直で有能な官吏で、一条天皇の永延二(988)年、従二位中納言を最後に第一線から引退したようだが、長徳二(996)年三月までは存命であった。この時紫式部は推定二十歳前後である。曾祖父たちの余光は高い自負を胸に抱かせ、いっぽうで祖父の代からの零落を痛感させただろう。

つづく