勝手にお喋りーSanctuaryー

マニアックな趣味のお喋りを勝手につらつらと語っていますー聖域と言うより、隠れ家ー

傍観者は罪人

2009-05-04 | 映画のお喋り
久しぶりに映画を見て泣いた。
いい映画を見ても、泣くまで行かないので、自分の感性を疑っていたところだ。
やはり人には、それぞれのツボと言うものがあるようだ。
今回はそのツボがかなり刺激された。

君のためなら千回でも(THE KITE RUNNER)
2007年 アメリカ
監督:マーク・フォスター
出演:ハリド・アブダラ、ホマユーン・エルシャディ、ショーン・トーブ
   ゼキリア・エブラヒミ、アフマド・ハーン・マフムードザダ

監督のマーク・フォスターとも相性がいい気がする。
適度にリアルで、適度にファンタジー。
映画にはこの両方が必要なことをよく知っている監督だ。

映画は2000年のカリフォルニアから始まる。
主人公アミールは、父親の友人で恩師でもあったラヒム・ハーンからの電話で、一気に過去に引き戻されていく。

そして平和だった頃のカブールの空を舞う凧。
日本にも「ケンカ凧」は存在するが、これって世界的なもののようだ。
アミールの隣には、いつも凧追いの名手ハッサンが付き添っている。
裕福なパシュトゥーン人であるアミール。
よくは知らないが被差別民族であるらしいハザラ人のハッサン。
二人は兄弟のように仲良し。
だけど、その友情は決して平等なものではなかった。

ハザラ人を嫌ういじめっ子の典型アセフが登場。
凧揚げ大会で優勝した(ハッサンの指示のお陰)アミールの凧(ウィニングボールのようなもの)を、断固として手放さないハッサン。
その代償として、ハッサンはアセフにレイプされる。
ハッサンを探しに行ったアミールはこの場面を見ていながら、沈黙してしまう。

作者はこのレイプシーンを、アフガニスタンの悲劇と重ね合わせたと言う。
ハッサンはアフガニスタン。
そして傍観していたアミールは国際社会。
直接危害を加えなくても、傍観者はいつも罪人なのだ。

ハッサンは何故凧の為に自らを犠牲にしたのか。
友情の為、だけではないと思う。
自らの誇りの為、死んでも守り抜かなければならない信条があることを、彼は子供のうちからすでに知っていたのだ。

逆に恐怖に負けたアミールは、心に深い傷を負う。
彼が大切にしているものは身の安全。
殴られるのが嫌で、心に傷を負ってしまうものも、また不幸だ。
体の傷は癒えても、心の傷は簡単には癒えない。
彼はまだ守り抜かなければならないものが何かを知らない子供なのだ。

良心の呵責に耐えかねたアミールは、嘘をついてハッサンを遠ざける。
やがてソ連のアフガン侵攻が始まり、反共産主義者の父親はアメリカに移民する。
時が流れ、アミールは作家として成功する。
心の傷は癒えたように見える。
人は忘れられる動物だからだ。

だが冒頭の電話で、アミールにも過去の付けがまわってくる。
贖罪と言えばかっこいいんだが、かなり強引な理由で無理矢理付けを払わされる感じ。
これがこの映画の唯一の欠点だが、その理由がなければ、この先の行動をアミールが取るとは思えないので仕方がない。

ハッサンの手紙のシーンで、まず涙が…。
子供時代、アミールがハッサンに本を読んでやるシーンがあるのだが、それなら何故字を教えてあげないんだろうと思った。
本物の友情とは言えない、アミールの内心の偏見の表れなんだろう。
だけどハッサンは独学で読み書きを学んだ。
アミールは混じりけのないハッサンの友情と、自分の薄っぺらい友情との相違に、初めて気づく。

アフガンのカブールに赴いた彼の内側に生まれつつある強さ。
他者を守る行為は、その人の為に行うのではない。
それは自分を守る行為になるのだ。
自分が生きていくのに必要なものを守るための。

自分自身を取り戻してアメリカに戻ったアミール。
ハッサンの息子ソーラブと凧あげをするアミールの気持ちは、まさに天まで舞い上がるほど軽くなっている。

かつてハッサンがアミールに向かって言った言葉「君のためなら千回でも」
それと同じ言葉をソーラブに言う。
同じ気持ちで。
限りない愛に誇りを込めて。
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