海と空

天は高く、海は深し

ヘーゲル『哲学入門』第三章 宗教論 第七十一節[理性としての道徳律]

2022年12月30日 | 宗教一般

 

ヘーゲル『哲学入門』第三章 宗教論 第七十一節[理性としての道徳律]

Dritter Abschnitt. Religionslehre.

§71

Das moralische Gesetz  in uns ist das ewige Vernunftgesetz, (※1)das wir unwiderstehlich achten müssen und durch das wir uns un­auflöslich gebunden fühlen. Wir sehen aber eben so unmittelbar die Unangemessenheit unserer Individualität zu demselben ein, erkennen es als Höheres, als wir, als ein von uns unabhängiges, selbstständiges, absolutes Wesen.

 

第三章  宗教論

第七十一節[理性としての道徳律]

我々の中にある道徳律は、永遠の理性法則 であり、抗し難く我々が畏敬しなければならないものである。また我々はそれに固く結び付けられていると感じている。しかし、同時に我々の個性はそれ自体と直接に一致しないことも 我々は認めている。それは我々よりも高く、我々からは独立し自立する絶対的な存在(本質)であることを知っている。

 

※1
Das moralische Gesetz in uns ist das ewige Vernunftgesetz.
「我々の中にある道徳律は、永遠の理性法則である。」

ここでも明らかなように、ヘーゲルの理性概念は、宗教的な道徳律と関係している。というよりも、キリスト教の道徳律は理性概念そのものであり、我々から独立して客観的に存在する崇高な絶対的本質として捉えられている。性悪な人間の個性はそれに一致しえない。

 
 
 
 
 
 
 
 

 

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2022年クリスマス

2022年12月25日 | 日記・紀行

2022年12月25日夜、ベランダから写した比叡山麓の夜景。雪曇の切れたわずかな晴れ間に星々が美しく輝いています。

今年もクリスマスの夜を迎えました。クリスマスおめでとうございます。今年もクリスマスの宵を共に過ごすことのできなかった方々に平安な一夜の幸をお祈りします。

 

ながき道を ひとりあるきて

罪多き 過ぎし日よ

すくいぬしの み声を聞きて

こころうごき  わき立ちぬ   (讃美歌Ⅱ-140)

 

 
Präludium Und Fuge in E-Moll (Bwv 548)

 

詩篇第百三篇註解 - 海と空 https://is.gd/hr0wXw

 

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ヘーゲル『哲学入門』第二章 義務と道徳 第五十、第五十一、第五十二節[家族について]

2022年05月30日 | 宗教一般

§50

Diese Gesinnung besteht näher darin, dass jedes Glied der Fami­lie seine Wesen nicht in seiner eigenen Person hat, sondern dass nur das Ganze der Familie ihre Persönlichkeit ausmacht.

第五十節

この(家族愛の)心情は、さらに詳しくいうと、家族の成員は自分たちの本質を、自分たちに固有の人格のうちにもつものではなく、むしろ、彼らの人格性を造り上げるのは、ただ家族の全体のみであるということに基づいている。

§51

Die Verbindung von Personen zweierlei Geschlechts, welche Ehe ist, ist wesentlich weder bloß natürliche, tierische Vereinigung, noch bloßer Zivilvertrag, sondern eine moralische Vereinigung der Gesinnung in gegenseitiger Liebe und Zutrauen, die sie zu Einer Person macht.

第五十一節

婚姻という男女両性の人格の結びつきは、本質的には単なる自然的な、動物的な一体化でもなければ、また市民的な契約 でもなくて、むしろ相互の愛と信頼による心情の一つの道徳的な一体化であり、それらは一個の人格をつくるものである。(※1)

§52

Die Pflicht der Eltern gegen die Kinder  ist: für ihre Erhaltung und Erziehung zu sorgen; die der Kinder, zu gehorchen, bis sie selbstständig werden, und sie ihr ganzes Leben zu ehren; die der Geschwister überhaupt, nach Liebe und vorzüglicher Billig­keit gegen einander zu handeln.

第五十二節

子供たちに対する親の義務  は、子供たちの 養育 教育 に気を配ることである。子供らの義務 は 自分たちが独り立ちできるようになるまで、親に服従することであり、そしてまた両親をその全生涯にわたって尊敬することである。兄弟姉妹の義務 は一般に、お互いどうしが、愛とすぐれた公正さをもって行為することである。(※2)

 

 

※1
市民社会の段階で分裂した家族は、次の「国家」の段階において、ふたたび相互の愛と信頼による家族的な心情の道徳的な一体化が回復される。

※2
第五十二節において家族への義務の記述を終えて、つぎに「Ⅲ 国家への義務」へと進むが、ヘーゲルの「法の哲学」の体系から言えば、「家族」と「国家」の間には「市民社会」が存在するから、「市民社会に対する義務」が述べられなければならないはずである。しかし、その項目はかかげられてはいない。

ただ「市民社会に対する義務」についてはすでに実質的には「Ⅰ 自己に対する義務」の中において、「職業の義務」として論じられている。

 

ヘーゲル『哲学入門』第二章 義務と道徳 第五十節、第五十一節、第五十二節 [家族の義務] - 夕暮れのフクロウ https://cutt.ly/kJaz6ni

 

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明けましておめでとうございます

2022年01月04日 | 日記・紀行

 

 

明けましておめでとうございます。

本年もよろしくお願いいたします。

 

Pèlerinage de Saigyō au mont Yoshi   西行物語絵巻  吉野山への西行巡礼。江戸時代の写し。Saigyō monogatari emaki —Wikipédia  https://cutt.ly/FUJBz2h  Auteur inconnu Unknown author • Public domain

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2021(令和3)年クリスマス

2021年12月25日 | 日記・紀行

 

2021(令和3)年12月25日(土)晴のち曇り。クリスマス


今宵はクリスマス。これまでずっと毎年、クリスマスには記事を記録してきたつもりだったけれど、
ちょっと調べてみるとそうでもないことがわかった。これらのブログを開設したのは2005年だけれど、驚いたことに昨年のクリスマスにも記事がない。てっきり毎年書いてきたつもりだったけれど、調べてみると、2010年、2011年、2016年、それに昨年の2020年と合計4回もクリスマスの記事がない。
これまで、それぞれの年にさまざまなクリスマスの記事を日記として書いてきたけれども、ブログやツイッターを利用するようになって、中学生の頃から続けてきた日記帳や大学ノートに日記をつける習慣をやめた。それからずいぶんと時間が経つ。

クリスマスに関連しても、これまであまり直接的にはキリスト教については書いてはこなかったけれども、ここで簡単に私の個人的な「キリスト教体験」とでもいうべきことを記録しておきたい。

私が自分の意識のうちに「キリスト教」を自覚するようになったのは、自我の目覚めもすでに終わった高校生の頃だった。やはり初めは書物を通じてであり、それも時代や土地とも決して無縁ではない。

私より一世代うえで1960年に青年時代を過ごした世代も日米安保条約制定の社会的政治的影響を色濃くうけているが、それよりひと回り下の私たちの世代も1970年の安保改定期の政治的社会的な影響を直接間接に受けている。私たちが高校生の時代にも、校内で「食堂値上げ反対闘争」が組織されていたし、友人たちの間でも生意気にマルクス主義やサルトルなどの実存主義云々するものが多かった。

私が「キリスト教」のことを意識に上せたのは、そうした頃に読んだキルケゴールやヘーゲルの著作を通じてだった。当時の若者たちに圧倒的に支配的に流行したマルクス主義にはとくに惹かれることはなかった。

すでにひと昔の事になったけれど、オーム真理教の松本智津夫の詐欺師教祖に誑かされて、多くの有為な青年たちが死刑に処され、自らの人生を棒に振ったばかりではなく、社会、国家にも深刻な傷跡を残して去っていった。

しかし、私の経験をかえりみても、多くの青少年たちがその青少年時代に自らの生き方を求めて、宗教や政治の世界に足を踏み入れる、そうした気持ちは理解できないこともない。私たちの青年時代にはマルクス主義などの共産主義、社会主義が熱病のような影響力をもっていたし、多くの友人たちも、政治運動や学生運動にのめり込んで、良かれ悪しかれ自らの人生に深刻な影響を被った。私個人としては高校生時代からのキリスト教への「傾倒」から共産主義などの政治思想に直接の影響を受けることはなかった。

高校の剣道部の延長で、大学に進学しても体育会で合気道をやっていたが、一方で私はキリスト教に関する疑問を抱えていたせいか、今ではほとんどの大学生が着ることもない学生服を着て、教会のキリスト教入門講座に数年も通った。神父さんのことも教えを聞いたこともよく覚えている。けれども、どうしても納得がゆかずに、この問題はヘーゲル哲学に行くことによって個人的に解決を図ることになった。それがこの年に至るまで続いている。

青少年時代に受ける思想的な影響力は、自他の経験にてらしても、まことに深刻であると言わざるを得ない。ヘーゲルも「哲学は信仰深くあろうと欲することは戒めなければならない」とも言っている。

いずれにせよ今ここは、私の思想的な遍歴を語る場でもないのでこれくらいに。

武漢コロナ禍も今年も三年に入ろうとしているけれど、その影響は深刻で、連れ合いもコロナの病ではないけれど、この年末体調不良で入院することになってクリスマスも共に過ごせず、また満足に面会にもゆけない。

そうしたさなかにあっても、曲がりなりにもクリスマスの宵を平安のうちに家に過ごせることを感謝しつつ、メリー・クリスマス。みなさんも楽しいクリスマスの宵のひとときをお過ごしください。

 

いくるはいかに とうときかな、
めぐみの神は  ともにませば、
そとなるからだは  やぶるるとも
うちなるひとこそ  日々にあらた。(讃美歌141)

 

J.S.バッハ: クリスマス・オラトリオ 第10曲 BWV 248:シンフォニア(第2部)[ナクソス・クラシック・キュレーション #特別編:クリスマス]

 

 

 

 

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クリスマスおめでとう

2019年12月25日 | 日記・紀行

 

クリスマスおめでとう

2019年、今年ももうまもなく終わります。令和の年号になって初めてのクリスマスも静かに過ぎてゆきます。とにもかくにも、なにはともあれ、穏やかにクリスマスの夜を過ごし得たことを感謝します。今年もクリスマス、おめでとうございます。

 

 

 

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あけましておめでとうございます

2019年01月03日 | 日記・紀行

 

あけましておめでとうございます。

今年の年賀状の図柄は、西行が東北への旅の途上、遠州の天竜川の渡しで船に乗って渡ろうとしたときの情景を描いた「西行物語絵巻断簡 法師堪忍図」を使わせてもらいました。

そのとき船は乗り込んでくる旅人でいっぱいになりました。船頭は法師である西行に下船するよう命じ、彼の頭を打擲したそうです。西行はあがらうことなく手を合わせて祈りながら命ぜられるままに船を降りたというエピソードが描かれています。

室町時代、1500年頃の作品だそうです。

 

挿絵とあらすじで楽しむお伽草子
 第12話 西行物語 | 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ
 https://is.gd/Gom9pR
 https://is.gd/5FCY9E

 

 

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Christmas Secrets

2018年12月25日 | キリスト教

Christmas Secrets - Enya (with lyrics)

Christmas Secrets クリスマスの秘めごと

Underneath a winter sky   
冬の空の下、
A distant train sings out the miles  
数マイルも向こうに遠く汽車の轟が聞こえてきます。
And so I wonder can it be
そうして汽車は一マイルごとあなたを
Will every mile bring you to me?  
私のもとに連れてくることができるのかしら?

A promise made may still come true
交わされた約束はいつか実現するかもしれない。
So I am waiting here for you
だから私はここであなたを待ちつづけます。
If you don't come, what will I do?
もし、あなたが来なければ、私はどうすればいい?
Who shall I tell my secrets to?
だれに私の思いを伝えればいい?

Christmas bells ring out their chimes
クリスマスの鐘が鳴り響きます。
I hear them echo through the night
夜のしじまの向こうからそのこだまが聞こえます。
And moonlight shines upon the road
そして月明かりは舗道の上を照らしています。
And trembles on the fallen snow
そして降り積もった雪の上にふるえています。

I look into the midnight blue
私は真夜中の蒼空(あおぞら)を仰ぎ見ています。
So many stars I never knew
私の知らないそんなに多くの星々、
If you don't come, what will I do?
もしあなたが来ないのなら、私はどうすればいい?
Who shall I tell my secrets to?
だれに私は私の思いを告げればいい?

I look into the midnight blue
So many stars I never knew
If you don't come, what will I do?
Who shall I tell my secrets to?


「私は去ってゆくが、しかし、また再びあなたたちの許に戻ってくる」と私があなたたちに言ったのを聞いただろう。もし、あなたたちが私を愛するなら、私が父のもとに去ってゆくことを喜ぶはずだ。父は私よりも大いなるお方だからである。(ヨハネ書14:28)

イエスは再び戻ってくると約束された。しかし、それはいつの日かわからない。ただ、いつの日か私たちの許に帰ってくるという約束を信じて待っている。しかし、あなたが、もし戻ってこないのなら、私はどうすればいい?
その時、あなたへの私の秘めた思いをいったいだれに告げればいいのか?

平成時代のクリスマスは今夜が最後となります。なにはともあれ今年も穏やかなクリスマスを迎えられたことを感謝します。クリスマスおめでとうございます。

 

 

 

 
 
 
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今日はクリスマス

2017年12月25日 | 日記・紀行

Orthodox Music ♫ Voice of an Angel ♫ - (Manastir Ravanica)

今日はクリスマス。

今朝、古紙を回収に出すために家を出ようとして階段の降り口に立ったとき、なぜかそこに小さな小鳥がいた。私の気配に気づいて小鳥は急に飛び立った。ガラス窓に当たるような小さな音がした。そのとき私は小鳥のことを見ていなかった。

外には霧雨が降っていた。そのまま古紙を回収場所に出して、再び私が階段の踊り場にもどると、小鳥は少し羽を広げてうずくまるようにしてそこにいた。黒い体に柿色の羽の名も知らぬ小鳥はどこか傷ついたようで、近づいても飛び去ることもなかった。ヒナではないけれども成鳥のようでもない。私のせいなら気の毒なことをしたと思いながら、近づいて小鳥を包むようにして手のひらにもつと、少しあがらうように身もだえした。

持ち帰って小鳥の様子を見る時間もない。それで仕方なく窓を開けて、そこから思い切り遠く小鳥を放りなげた。柔らかいビロードの鞠を掴んだような感触が手のひらに残った。小鳥は羽ばたいて飛んで行ったがすぐに私の視界からは消えた。どうか無事で、カラスなどに狙われることなく生き抜いてほしいと思いながら。

こうして今朝の出来事をブログの記事に書いていて、ずっと昔、子供の頃にセキセイインコを殺してしまったことを思い出した。

 

「二羽の雀は一銭にて売るにあらずや。然るに汝らの父の許しなくば、その一羽も地に落つること無からん。汝らの頭の髪までも皆かぞへらる。」(マタイ書10章29:30)

 

今日は不運な巡り合わせで、小鳥を傷めてしまったらしいことを悔い詫びながら、今年のクリスマスは、パンとぶどう酒で静かにお祝いすることにします。みなさん、クリスマスおめでとう。来たる年も平安でありますように。

 

 

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Ave Verum Corpus K618

2016年12月25日 | キリスト教

2016Xpmas


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2015年ChristmasEve植物園

2015年12月24日 | 日記・紀行

2015年ChristmasEve植物園

府立植物園でクリスマスまで、イルミネーションが夜間灯されていると聞いて、クリスマスのイブに訪れた。

徒 歩で行くには遠すぎるので市バスで行き、植物園前で下車した。最近は植物園に行くことがあれば、ほとんど北山通りに面した入場口から入ったから、北大路通 りから植物園の正門に向かうのは本当に久しぶりだった。昔は植物園へはこの正門から入るのが当たり前だったので、そこに通じるケヤキ並木は今となっては懐 かしい。

バス停を降りてすぐに、とにかく北に向かう道路を見つけて歩いて行ったが、いつまでたっても目当てとした植物園の正門へと通じる 長い並木道に出てこない。この夜はほぼ満月に近い夜空だったけれど昼間と違って方向感覚もよくわからない。途中に資料館の建物の一角や、府立大学の寮舎の 外壁らしいものに出くわしたから、通りを一筋間違ったらしいことが分かった。それで西に転じて歩いた。しばらくして漸く見覚えのある並木通りに出た。

植 物園の入り口を目指して歩道を歩き始めると子猫の鳴き声が聞こえてきた。近づくと、一組の家族連れが二匹の小さな黒い子猫の相手をしているらしい。その家 族連れが立ち去ってしまうと今度は子猫たちは私たちの方にまとわりついてきた。相手にしてやろうとすると一匹の方は怖がって歩道の生垣のなかに逃げてしま う。もう一匹の少しやせた子猫は私たちの歩く方向に鳴きながらまとわりついていつまでも離れようとしない。

捨て猫を拾って飼ってやることも できないから、ただ、こんな夜に猫を捨てたらしい人間の薄情の悪口を言いながら、植物園の入場口にむかって歩くしかなかった。月のきれいなよく晴れたクリ スマスイブの夜だった。しばらくして別の家族連れと通り過ぎに出会い、その中の男の子が子猫をかまったので、ようやく自分たちはその子猫から解放されるこ とになった。

その時ふと、なぜか昔に古典の教科書か何かで読んだことのある『野ざらし紀行』の一場面のことを思い出した。旅の途中の富士川 で、三歳ほどの捨て子と出会った芭蕉は「ちゝは汝を悪にあらじ、母は汝をうとむにあらじ。唯これ天にして、汝が性のつたなきをなけ。」と言い捨てて去る。

入場券を手に入れて園に入るとすぐに無数のLEDのライトに照らされたイルミネーションの飾りが目に入った。

     

               

                       

                                                                                                                

               

 

 

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西行歳暮和歌七首

2014年12月31日 | 日記・紀行

西行歳暮和歌七首

題しらず

567
山ざくら  思ひよそへて ながむれば  木ごとの花は  ゆきまさりけり

 

仁和寺の御室にて、山家閑居 見雪といふことをよませ給ひけるに

568
降りつもる  雪を友にて  春までは  日を送るべき  み山辺の里


山家冬深

569
訪ふ人は  初雪をこそ 分け来しか 路とぢてけり   み山辺の里

570
年のうちは  訪ふ人さらに  あらじかし  雪も山路も  深き住処を


世を遁れて、鞍馬の奥に侍りけるに、筧氷りて、水もうで来ざりけり。春になるまでかく侍るなりと申しけるを聞きて、よめる


571
わりなしや 氷る筧の水ゆゑに  思い捨ててし  春の待たるる


みちのくににて、年の暮れによめる

572
つねよりも  心細くぞ 思ほゆる  旅の空にて  年の暮れぬる

山家歳暮
573
あたらしき 柴の編戸を  たてかえて  年のあくるを 待ちわたるかな

 

今年もこの拙いブログに訪れてくださった皆さん、どうか良き新年をお迎えくださいますよう。

 

 

 

 

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クリスマスイブ

2014年12月24日 | 日記・紀行

 

Enya - Oíche Chiúin (Silent Night with Lyrics)

クリスマスイブ


昨夜、ラジオの深夜便を聴いていたら、アンカーの村上里和さんがクリスマスイブだということで、エンヤの「清しこの夜」を紹介していました。ケルト語で歌われているとのことです。潔らかな声です。

早いもので今年ももう終わりです。残念ながら大した成果なく今年も終わりそうです。今年お世話になった方、失礼とご無沙汰に終った方々にお礼とお詫びをかねて、クリスマス・イブのご挨拶を送ります。クリスマスおめでとうございます。



「そ こで、イエスは群衆の中から、彼一人を引き出し、その男の耳に指を差し入れ、つばを吐いた手でその男の舌に触れられた。そうして、イエスは天を仰ぎ、深く うめきながらその男に向かって、エファッタ、と言われた。開け、という意味である。たちまち男は聴こえるようになり、どもっていた舌はなめらかに話せるよ うになった。」

 (マルコ書 7:33ー34)

 

 

 

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2月19日(水)のTW:#現実性、#本質、#根拠、#物事、#定在、#可能性、#結果

2014年02月20日 | Myenzklo

現われ、そこで自分の諸々の力を休息させる。と同時にまた、発動する諸々の力や互いに対立的に働く力の〔二つの力各々の間の、また両面の力の間の〕対立という形、あるいは表面上の活動〔たわむれ〕という形でも現われる。こうして本質は現実性〔力の働き、または結果Wirkungとして生じたもの〕


(Wirklichkeit)になる。※ここでは本質と現実性の関係が的確に述べられている。本質は自分自身を発動させるものとして根拠であり、この根拠によって物事となる。(定在)その意味で、本質としての定在は内在的なものである。ここでは、本質、根拠、定在は同一物である。これが本来の結果


すなわち現実性ということである。ヘーゲル哲学においては、単なる偶然性の集積にすぎない世界を現実性としてはとらえない。こうして本質から根拠、さらに現実性へと論理が進展する。とにかくヘーゲルの読解においては、この論理の進展を自覚的に追求し、確認しながら読んでゆくことが大切である。


(Ⅲ)現実性
§48
現実性は自立的な相関関係である。現実性は現象の契機、すなわち自分自身に対する相関関係であるところの定在の契機と、その定在の即自有または本質であるという意味の可能性の契機とをもつ。現実的なものそのものは、可能性と定在との統一であある。 (ibid s 274)


※ここで現実性の概念の論理的な契機(要素Moment))を検討している。現象の集積の中に現実性があるのであり、その現実性は、現象を構成する様々な相関関係にある定在と、その定在に内在する本質として可能性との統一としてとらえられている。だから、現象においては、まだ即自にある本質が


可能性としてとどまっていて、現実性にはなっていない。
(1)実体
§49
現実的なものは実体(Substanz)である。従って現実的なものは本質である。もっともこの本質は自分の定在の諸規定を単純な属性(Attribute)として、また法則として自分の中にもつとともに、


またそれらの諸規定の定在の側での戯れ〔遊び〕(daseiendes Spiel)または自分の偶有性(Accidenzen)として定立するような本質である。だから偶有性の止揚は実体の消失ではなくて、実体の自分自身に帰ることである。※ 現実性から実体への論理の進展。本質の概念が、


属性(Attribute)や法則として具体化されてゆく。しかし、その一方で、それらは様々な偶然性の戯れのなかにある。この偶有性のなかにある定在がどのように止揚されて、自己の本質へと戻ってゆくのか。その論理はどのように説明されているのか。
>>
§50
実体は偶有性の必然性である。


偶有性は自由な定在の形をとるものであるが、そこに他のものに対する本質的な関係をもっている。ただその関係は、そこでは内的な、隠れた関係として即自的(潜在的)にあるにすぎない。そのために、偶有性は外的偶然性と外的な力に支配されていて、自立性を失っているようにも見える。


けれども、真実はこのことはむしろ全体の回復にほかならない。すなわち、全体は偶有性の中で分離されているのを再び自分の中に取り戻すのである。※ここで明らかなように、実体(Substanz)が諸々の偶有性の必然性として説明されていることである。偶有性は外的偶然性と外的な力に


支配されている。そこから自立性を回復することは、自分を取り戻すこととされ、それが必然性である。偶然性の戯れの中から必然性が生まれ、それが実体とされるとき、その実体は原因として認識される。>>
(2)原因
実体が必然性という形で現われると、実体は因果性(Kausarität)


の関係をとる。自由に作用する(wirken)絶対的原因は、活動を自分の中で始めるところの「動かすもの」(das Bewegende)としての実体であるばかりでなく、全内容までも自分の中にもつものである。つまり、実体は全内容を産出するのであって、そこで内容は結果として


定在を持つことになる。※絶対的原因としての実体は、宗教的には神のことである。こうしてヘーゲルは「神」を論理的に、「科学的」に認識してゆく。彼の哲学が形而上学でもあるゆえんである。>>
§52
それ故にこの活動性は、活動性と結果として作り出されたもの(das Bewirkte)との


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2月18日(火)のTW:#本質、#発現、#定在、#内的、#外的、#相関関係、#対立、#統一

2014年02月19日 | Myenzklo

質料、力が内在するための質料をもはや条件にもたない〔必要とはしない〕が 、しかしそれでも力を誘発する活動性(die sollizierende Tätigkeit)必要である。(ibid s 272 )


§45
この誘発する活動性はそれ自身力である。従って力は誘発されるように、誘発されなければならない。それで二つの活動性相互の関係は、二つの規定のこのような相互的な交換(dies wechselseitige Äustauschen)であるから、各々は他者の活動性または


発現(die Äusserung)の根拠である。こうして根拠の概念は、自分自身の活動性とこの活動性を発動させる他の活動性との根拠であるような根拠であることになった。
(3)内的なものと外的なもの
§46
本質は自分自身を発動させる活動性であるという意味で、本質は定在の根拠である。


だから、本質の定在の中には何ら外来のものはない。すなわち根拠自身によって定立されないような何ものもない。従って本質と本質の定在は同じものである。前者は内的なもの(Inneres)として、外的なもの(Aeusseres)としての自分に関係する。すなわち、外的なものは内的なものの


表示に他ならない。
§47
根拠はこのような相関関係(das Verhältnis)として、無制約のもの(das Unbedingte)であり、内的なものである。また静止的な自分自身との同等性としての質料と、対立の統一としての形式の統一である。根拠はその定在の中に質料という形で


 
 

 

 

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