海と空

天は高く、海は深し

2月17日(月)のつぶやき

2014年02月18日 | Myenzklo

§44
力は自分の定在、すなわち規定された質を自分で定立するものである。定在がまた他者に対する有または外面性であるという面から見れば、力は同時にこのような定在からは自由であって、この力の現象が消失するからといって無くなるものではない。この面から言えば、力は力の内容であるところの


宮沢俊義による憲法の「8月革命説」。実にこの言葉は同情を誘う。つまりこれは帝国憲法の改正理由が具体的にわからない学者のデスペレートな叫び声。丸山真男もその典型。その理由が「日本の弱体化」しか思い浮かばない怠惰な学者と変わらないレベル。

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内閣法制局云々。薬はあるけど服用禁止という論理。薬が必要な時に服用できない薬は「無い」と同じこと。彼らに集団的自衛権の国際的解釈などわからなかったのは当然のこと。小学生にも劣る法匪たち。

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2月15日(土)のTW:#全体、#部分、#根拠、#本質、#定在

2014年02月16日 | Myenzklo

C 根拠と根拠づけられたもの(Grund und Begründetes)
(1)  全体と部分
§ 42
定在がないと本質そのものもないが、しかし本質はやはり定在の根拠である。ところで、この本質〔の定在における形態〕は全体と部分


(Ganzen und Teile)である。全体は部分を定立するものであるが、しかし、また逆に部分からなっている。両面は同じ一つのものである。全体は部分の綜合、すなわち全体であるという意味での部分に等しく、また部分に分けられたもの(Gteiltes)としての、すなわち


部分としての全体に等しい。言い換えると、両面は相互に無頓着なものでもあるが、また〔他面から言えば〕形式としての全体の活動性は質料を制約〔条件〕にもつ。
(2)力とその発展
§43
しかし、部分はただ全体によって定立されたものだという意味でのみ部分である。それで、これらの部分または


部分の関係は、根拠の統一による規定性である。言い換えると、定在の質は形式としての根拠の活動性によって定立される。だから、現象の質料は根拠自身の内容である。従って根拠は自分を発現する力(Kraft)である。【入門 s 272 】


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2月10日(月)のTW:#米国、#占領、#歴史

2014年02月11日 | Myenzklo

モバイルの世界。産経新聞「KDDIが19年に「100年分のメールを保存できる」として始めたサービス「au oneメール」が昨年、わずか6年でサービス終了した」
和紙と墨が信頼に足る。

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小堀桂一郎氏「米軍の占領期に我々は自国の歴史を旧敵国の手に奪はれるといふ事態に陥つた」
ならば米国がなぜ何を以て我が国の歴史を奪おうとしたのか研究すべきだろう。もしそれが「日本人の弱体化」というならそれは思考停止そのものである。
sankei.jp.msn.com/life/news/1402…

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2月3日(月)のTW:#哲学、#思考、#橡川一朗、#牧野紀之

2014年02月04日 | Myenzklo

「「書評へのご返信」の御礼」書評へのご返信、拝読させていただきました。

「真の愛国心」と「民主主義」の我が国に行き渡るべく、橡川先生が長年にわたる学問のご研鑽に打ち込まれられたこと、僭越な... goo.gl/Mm9vub


[exblog] 「書評へのご返信」の御礼 bit.ly/LqgNc0


哲学という名前はイギリス人の間では一般に今もってこういう規定を持っており、ニュートンは最大の哲学者という名誉を担っている。下の方に下って製造業者たちの価格表の中を見てみると、磁気装置や電気器具といった特殊な標題の下にまとめられないような道具、


たとえば温度計とか気圧計とかいったものが、哲学の道具と呼ばれているのである。哲学の道具と呼ばれてよいものはもちろんただ、思考だけであって、木や鉄などを組み合わせて作ったものが哲学の道具などではありえないのである。(牧野紀之訳『小論理学上』s 84)


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1月31日(金)のつぶやき

2014年02月01日 | Myenzklo
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1月25日(土)のつぶやき

2014年01月26日 | Myenzklo

第ニ篇  哲学的エンチクロペディー

緒論

エンチクロペディーはもの諸学の全範囲に互って、おのおのの各々の学問の対象とその対象の根本概念とを考察するものである。

一般的対象についての経験の多様が綜合されて、一般的諸表象の統一になったものと、対象の本質の考察から作り出された


諸々の思想とが結合して、ある特殊の学問が生ずる。
§3
経験的素材がこの結合の根拠となる場合には、経験的素材の結合は単なる、綜合的一般性に過ぎないから、その学問はどちらかと言うと記録的な性質(historische Art)をおびる。ところが、普遍的なものが根本規定と


概念の形式で先行し、七特殊的なものがその普遍的なものから導き出されることになると、その学問は本当の意味で学問的性質(Wissenshaftliche Art)をもつことになる。

§四
それぞれの学問の特殊性を構成する諸々の認識の分野には絶対的な限界というものはない。


なぜなら、各々の一般的または具体的な対象はその種または部分に分けられることができ、その種がそれぞれ特殊な学問の対象として考察されるものだからである。
§五
普通のエンチクロペディーでは、現存の諸学がありのままに経験的に取り上げられる。いろいろの学問がその中に網羅されるべきである。


さらにまた類似のものや共通の規定の点で一致するものは、それぞれ類縁に従って括って、秩序づけることが必要である。
§六
けれども。哲学的エンチクロペディーは、概念によって規定された必然的な関連を問題にする学問であり、諸学の根本概念と原則の哲学的由来について論ずる学問である。


§七
哲学的エンチクロペディーは元来、哲学の一般的内容の叙述である。というのは、諸々の学問にあっては理性に基づくものは哲学に依存するものだからである。これに反して任意な、外的な諸規定を問題とするような学問、言い換えるといわゆる実証的な、あるいは制定的な学問や単なる経験的な学問は


哲学の圏外にある。※ここで、ヘーゲルは「制定的な」という言い回しで彼が何を言わんとしてるかと言うならば、要するに哲学的認識というのは概念から演繹的に論じられなければならないということを言おうとしている。ただ問題は事柄を演繹的に論じる方法と能力を獲得することである。それが科学だ。


§8
諸々の学問はその認識方法から言えば経験的であるか、純粋に合理的であるかである。しかし、絶対的に見れば、両者は同一の内容を持つべきものである。単に経験的に知られたものを止揚して真なるものに、すなわち概念にすること、それを合理化し、それによってそれを合理的な学問に合一すること、


これが学問的努力の目標である。 ※ここでヘーゲルは「概念にすること」と言ってるけれども、こうした言い換えの箇所は、彼が「概念」という用語にどのような意味合いを持たせているのか、ということを理解する上で参考になる。要するに「純粋に合理的に」認識することが概念的認識ということである。


§九
諸々の学問は一方では経験的な面で、また一方では合理的な面で広がって行く。ところが、後者は、本質的なものをますます取り入れ、それを普遍的観点の下でみて、単なる経験的なものを概念とすることである。したがって、諸学の合理的拡張同時に哲学そのものの拡張ではある。


※ここでも実証的科学と哲学との違いが述べられている。形式的な面から言うならば、実証的科学が相当と対象を広げるのに対して、哲学は内へその対象を広げていくものだということが言える。つまり、前者は量的広がりであり、後者は質的な深まりを示すものである。(こうしたコメント


を加えていくことによって確かに哲学的修練の役に立つように思われる。 )
§十
学(哲学的学問)の全体は三大部門に分かれる。(1)論理学(Logik)。(2)自然の学(Wissenshaft des Natur)。(3)精神の学(Wissenshaft des Geistes)。


※以前に、この日本語の「学」、ヘーゲルのいわゆる「Wissenschaft」をどのように訳すべきか、を論じたことがある。この「Wissenschaft」「wissenschaftlich」こそへーゲル哲学の根本的特性を示す概念であるということである。概念からの演繹的展開こそが、


へーゲル哲学の方法、科学することそのものである。晩年のマルクスも資本論の研究においてこの方法によって、つまり資本の概念を演繹的に展開てゆくことによって、その概念を明らかにしようとした。真に科学を目指すものは、まず、この「Wissenschaft」の方法論を修得しなければならない。


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1月17日(金)のTW:#新渡戸稲造、#吉野作造、#キリスト教、#神道、#佐藤雉鳴、#国典

2014年01月18日 | Myenzklo

先日にツィートでたまたま【焼野のきぎす @kuzukazura】というツィートを読んでいた時、このツイッター主が「「みことのり」を読む」というサイトをもっていて、そこで明らかにされている憲法論や戦後民主主義観が私に近いように思った。また、そこで展開されている国家研究や


明治憲法研究などの論考も非常に優れていると思った。私自身はこれまでの経緯から、ヘーゲルの「法の哲学」の立場を支持しているけれども、またそこから、現行日本国憲法よりも大日本帝国憲法の優越性を、実定憲法に対する自然憲法の優越性と認めているが、この私の憲法観と佐藤雉鳴氏のそれと一致する


点は多いように観じた。サイト「「みことのり」を読む」で展開されている論考にも優れたものが多く、これからも学んでゆこうと思っている。もちろん、私の立場はこれまでの経緯から言っても、哲学の観点から、とくに、ヘーゲル哲学の研究の一環としての憲法研究、国家学と自然法の研究を目的として


いるので、もちろん「「みことのり」を読む」での憲法観や歴史認識がすべて一致するとは思わない。たといそうであるとしても、私の知る限りにおいては、私の憲法観、国家観にもっとも近い立場であることは推察できる。昭和初期から敗戦に至る国家主義国体論が、従来の伝統的な正統な、


井上毅や伊藤博文によって継承され、大日本帝国憲法として結実した国家観からの逸脱として捉える立場もほぼ同じである。また、論考を瞥見しただけで本格的な検証はまだ行なってはいないにしても、そこに示されている、例えば丸山真男の思想に対する評価なども、殆ど同意できるものである。


これからも、このツィートで、ヘーゲルの各種の文献の抜粋と並行して、この佐藤雉鳴氏のサイト『「みことのり」を読む』からも必要な抜粋をツィートしながら、勉強して行きたいと考えている。とくに、この立場からは全体主義や共産主義は両立しないものと思われる。ここにこれからも国家論や憲法論を


確立して行く上で、多くのものを学びうることが期待できる。とくに過去の経緯からも、西洋哲学に極めて偏ったまま、日本の皇室や民族宗教でもある神道や国学関連の知識や認識が貧弱で不足している現状を、改善してゆく上で大きな意義をもつだろうと思っている。


「政治に対する宗教の使命」では「立憲政治の美果は国民の宗教心の発露によりて結ばるるもの」だが、「余の云ふ宗教が基督教」を指すものであり、「断じて神道や仏教が主張する処の能力を政治の上に貢献するものとは思はない」と(吉野作造は)語っている。1 ※異聞草紙:新渡戸稲造の項


吉野作造の国典について述べた価値ある論文は見当たらない。国典理解が十分でないからこんな乱暴な言葉が出てくるのではないか。

新渡戸稲造が「尊ぶべき伝統の宝庫として、また太古の伝説の最高の解釈者として、神道は保守主義の砦である」と語ったことと比較すれば、 2


同じ基督者でもずい分ちがうものだと思わざるを得ない。吉野作造には井上毅のような天皇統治を正確に語った論文も見当たらない。

興味があるのは我が国基督者の国典理解である。そんな研究をしている人はいるのだろうか。 ibid


 
 

 

 

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1月16日(木)のTW:#本居宣長、#井上毅、#帝国憲法、#国体論、#皇国、#キリスト者

2014年01月17日 | Myenzklo

「本居宣長の発見した我が国の道は、井上毅を通して帝国憲法に表現されている。それを蹂躙したのが矢内原忠雄のいう昭和戦前の国体論である。矢内原はこのからくりを、本居宣長を中心としてどう説明できるだろう。」佐藤雉鳴:皇国の基督者 p.tl/injT


・・・・迷路に入り込むだけではないか。本居宣長から井上毅、そして帝国憲法を理解せず、昭和戦前の憲法蹂躙という深刻な事態を分析もせず、「日本精神への反省」を語って自家撞着に陥っている。」佐藤雉鳴:皇国の基督者 p.tl/injT


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1月11日(土)のつぶやき

2014年01月12日 | Myenzklo

『入門』2014年平成26年1月11日(土)晴
§2我々の認識の第一の源泉は経験である。一般に経験にとって必須なことは、我々が或るものを自身で知覚したということである。しかし、知覚と経験とはまた区別されなければならない。まず第一に知覚は、今は偶然にこういう状態にあるが、(S23)


他の場合には異なった状態にあり得るところのただ一つの対象をもっている。ところが私が知覚を繰返し、その繰り返した知覚の中に、これらのすべての知覚の中で同じにあるところのものを認め、それをはっきりとつかむとき、これは一つの経験である。経験はまたいろいろの法則をもつ。


それはすなわち、一方が存在する時には何時でもまた他方が継起するというような二つの現象の結合を意味する。しかし、経験はただこういう現象の一般性を表わすにとどまり、関連の必然性は示さない。経験はただ、或るものがこうあること、またそれがどんな風にして起るか、またどんな形で存在しているか


ということを教えはするが、しかしまだ根拠(Gründe)または何故に(Warum)ということを教えない。そこで、例えば過去というような、我々がそれについて自分で経験することのできない非慈雨に多くの対象があるから、我々は他人の権威(Autorität)に


頼らなければならないことにもなる。我々が他人の権威に基づいて本当だと考えるような対象もまた経験対象である。我々は真らしい(wahrsheinlich)ところのものを他人の権威に基づいて信じる。我々は事実真らしくないものを、しばしば真らしいものと考える。しかし、


まさに真らしくないもの(das Unwahrsheinliche)こそが、しばしば、真なるもの(das Wahre)である。――とくに或る出来事は、我々がそれらについて自分で経験したいろいろの事情の帰結から、またそれらの事情の多様の関を通して証明される。だから、(S 24)


何かを物語る人々は信ずるに足るだけのもの(Glaubewürdigkeit)をもたなければならない。すなわち、事柄(Sache)についての知識をもち得るような事情にあったことが必要である。我々はその人の調子から、彼らの誠実さ、すなわち彼ら真面目なのか、それとも何かそれに


利害関係をもつのかを推定することができる。著作家が或る暴君の統治の下で執筆し、暴君に賛辞を呈するときには我々はこれがヘツライであることを知る。誰かがその中に自分を織り込んだ何事かを物語るのを聞くときは、我々はもとより彼が自分の利益のために物語っていることを知るだろう。


しかし、誰かが敵の良い性質とか行為を非常にほめている場合には、我々は言われたことをむしろ信ずるにちがいない。(S 24)


経験はそれ故に諸々の対象が如何なる状態にあるかと言うことだけを教えて、それらが如何にあらねばならないかということも、如何にあるべきかということも教えはしない。後者の認識はただ事物の本質または概念からのみ生じる。だが、この認識のみが真実なものである。我々は概念からして


対象の諸々の根拠を認識するのだから、法律的、道徳的、宗教的諸規定についても、概念を認識しなければならない。(S 25  )


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1月7日(火)のつぶやき

2014年01月08日 | Myenzklo

経験的な世界を思考するとは、本質的にその経験的形式を改めて、それを一つの普遍的なものに変えることを意味する。思考は同時にかの基礎に否定的な働きをなし、知覚された素材は、普遍によって規定される場合、最初の経験的型態にとどまっていない。殻が取り除かれ否定されて、知覚されたものの


中身が明らかにされるのである。神の存在の形而上学的な証明が、世界から神への精神の上昇の不完全な解釈であり記述である理由は、それがこの上昇のうちに含まれている否定のモメントを明白に述べていないからである。もし世界が偶然的なものであるとすれば、それは当然に無常なものであり、


現象であり、それ自身空無なものにすぎない。精神が神にまで上昇して行くということは、絶対の真理は現象の彼方、神のうちにのみあり、神のみが真の存在であることを意味する。この上昇は移行であり、媒介ではあるが、神を媒介するように見える世界はむしろ空しいものとされるのであるから、


それは同時に移行および媒介の揚棄でもある。世界の存在の空しさのみが我々を神へと引き上げる綱であり、したがって媒介者として存在していたものは消失して、媒介そのもののうちで媒介は揚棄されているのである。【小論理学§50(S192 )】


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1月6日(月)のつぶやき

2014年01月07日 | Myenzklo

その現存在がその概念と異なっているということが、しかもただこのことのみが、実際にあらゆる有限なものの本質なのである。これに反して神は明らかに「存在するものとしてのみ考えられるもの」でなければならず、神においては概念が存在をそのもののうちに含んでいる。小論理学§51


概念と存在との統一こそ、神の概念を構成する。――このような規定はもちろんまだ神の形式的な規定にすぎず、したがって概念そのものの本性を言い表しているにすぎない。しかし、概念が、まったく抽象的な意味においてもすでに、その内に存在を含んでいるということは極めて明らかである。a


なぜなら、概念は、その他どう規定されるにせよ、少なくとも媒介の揚棄によって生じるところの、したがってそれ自身直接的な、自己関係であるが、存在とはまさにこうした自己関係であるからである。――精神のもっとも内奥のものである概念が、存在というような貧しい規定、否、もっとも貧しい、 b


もっとも抽象的な規定すらその内に含まないほど貧しいとしたら、それは全く不思議と言わなければならない。(このことは自我についても言えるし、まして神のような具体的な統体についてはなおさら言えることである。)思想にとっては、内容から言えば、存在という概念ほど貧弱なものはない。 c


もっとも、もっと貧しいものがあるにはある。それは、存在と言うときまず思いうかべられるもの、すなわち私の目の前にある紙のような外的な感覚的存在である。しかし、有限で消滅しうる事物の感覚的存在というようなものを、この場合問題にしようという人はあるまい。(ibid s 197 )


―――とにかく、思想と存在とは別なものだというようなつまらぬ批判は、人間の精神が神の思想から出発して神が存在するという確信に到達する道を妨げることはできるかもしれないが、それを奪い去ることはできないのである。直接知あるいは信仰の見地は、a


この移行、すなわち神の思考とその存在との不可分を回復したものであるが、それについては後に述べることにする。b
(ibid s 197 )


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クリスマスイブ

2013年12月24日 | 日記・紀行

 

歳月人を俟たず、早いもので今年もクリスマス。メリー・クリスマス。何はともあれ皆様も楽しく今宵を。


主の祈り

天におられる私たちの父よ、
御名の聖められますように。御国の来ますように。
御心の天におけるように地にも行われますように。
私たちに必要な糧を今日もお与えください。
私たちに咎ある人を私たちが赦すように、
私たちの罪を赦してください。
私たちを試みに遭わせず、悪よりお救いください。

まことに、御国と力強い御業と輝かしい栄光は、
永遠にあなたのものです。


 

 

 

 

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12月21日(土)のつぶやき

2013年12月22日 | Myenzklo

第三点であるが、これを認識させるものとしては、ヘーゲルの書いたもののうち、ひとり政論あるのみなのである。(s 361)※解説者の金子武蔵氏はいうが、これはあまりにも早とちりの断言だろう。今手許に無く確かめようがないが、小論理学のどこかでヘーゲル自身が、c


真理を目的とする「論理学」はもっとも「役に立つものでもある」と述べていた個所があったと思う。理性は功利主義と両立することに確信を持っていた。もちろん、ヘーゲルにとっては真理が唯一であって、「功利」は付録であり、非本質的な論理的帰結に過ぎない。絶対的な目的はあくまでも真理である。c


国家にとっては必ずしも必要ではない社会的な結合とは、『法哲学』における市民社会のことであり、これには自治が許されるが、これと政治国家との媒介機関を担うものが議会である。郷国がヴェルテンベルグであった関係上、さらにはイギリスに深い関心を抱いていたために、議会制度が近代国家にとってa


不可欠のものであることを、ヘーゲルは十二分に認識していた。しかしそれだけに選挙法が彼を苦しめる問題になり、これは政論四において一応の解決に到達することになる。これによると年齢や税額によって選挙資格を決めるフランス的方法は地方団体や職業団体の役員選挙の場合に用い、これに対して国会の


場合には、被選挙権をも、選挙権をも、これら団体の役員に与うべしというのであるが、ヘーゲルの推奨するこの団体主義にも、地方団体と職業団体との関係をどうするか、それぞれの団体にどれだけの議席を与うべきかなど様々な問題があるだろうが、この点については十分な反省を欠いている。(s361)


ただ彼が議会に託した使命のうちで注意すべきは、それをもって平和的な漸進的な改革の場としているということである。政論の四は、民会側で作成した憲法草案には、この草案によって変更されていない公国の法律はすべて効力を保有する旨の但し書きが付加せられているのに関連して、この但し書きをもって


他愛もない気休めと評し、世界精神がすべての現行憲法に附するところの真実の但し書きは、およそいかなる憲法といえども絶対に確乎不動のものではなくして、議会によって持続的に平和裡に形成し直されて行くべきものであるということに存するとしている。(一七一頁)。ここにヘーゲルが決して


絶対主義者ではなく、議会の討論によって漸進的改革を行なわんとするものであり、そうすることによって実質的自由を次第に実現して行くことをもって常道とするものであったことがよく示されている。政論の五のとる態度もこの立場から解されるべきものである。フランスでは特権の盾となるような


ポジティーフなものが久しきにわたって放任されたため革命が勃発したが、イギリスにも同様なポジティーフなものが多くあるから、革命の混乱に陥らぬようにするために、選挙法のみならずその他の問題に関しても速やかに議会によって改革を開始すべきであるというのが彼の要求しているところなのである。


政論は人間の自由を、実質的自由を実現せんとするものであるが、しかし、実現は道義心によるというよりか、むしろ適切なる制度の設定によっている。だから個別的なるもの、個人的なるものを、むろん問題にしないわけではないにしても、その取上げ方はあくまでも普遍的なものの立場からなされている。


政論は実質的自由を普遍的利益として、公共的善として実現せんとするものであるといえる。だからアリストテレスのいわゆる""すなわち「大概の場合は」という立場がとられているのであって、自ずと個人の個別的な問題は残ることになるのだが、この問題の解決は宗教に譲られていると見るべきだろう。


チュビンゲン時代の『民族宗教』という手記では、宗教は政治――正確には、さらに歴史と芸術――と共に民族精神の契機をなし、両者は相互に含み含まれる密接な連関にあった。しかるに政論三以来両者は分離せられたが、これは近代国家の一つの基本指針に従ったことであると共に、


またヘーゲル自身も所属していた新教がただ個人的利害しか顧慮しない町人根性がおのれを「正当化」(上巻117頁)し絶対的承認を得んとするところに生じたものとして、根源的な「ドイツ的自由」と結託して国家的統一を破壊し、その後、統一は「外的な法的な紐帯」(上巻125頁)に求めるほか


なくなったことによっている。しかし、それだけに「外的な法的な紐帯」だけでは、自由に関しても益々個人の個別的な問題が残ることになるが、この問題の解決は人倫的なる心情と行為とを支える宗教に求められていると見るべきであろう。(ibid s 363 )


ヘーゲルの政論は、人間の自由を、実質的自由を実現せんとするものであって、ここに西欧的近代的性格がある。しかし、実現を適切な制度の設定に求めるところから、一方において το ως επί το πολύ の観点から、個々人の個別的なる問題をなおざりに附さざるをえない。


他方ではヘーゲルの目ざす自由をしてあくまでも社会(広義)における自由であるにとどまらせており、この点でもフランス革命の影響は決定的である。しかし、現実的自由には社会における自由のほかに、自然における、自然に対する自由があるが、しかし、この意味における自由を主題として


取上げられることは、ヘーゲルには、社会における自由を求める立場のしからしめることとして、殆ど見られない。これは、イデーの外化として自然を安易に定立する『エンチュクロペディー』の自然哲学がとる態度に応じるものである。自然に対する自由と正面から取組むところのないところに


産業革命のもつ意義に対して彼が盲目であったゆえんがあり、また彼のイギリス観の適切でない究極的原因もまたここに存するのである。(ibid s 364 )


※  το ως επί το πολύ  ト-ホース-エピ-ト-ポリュ 「大概の場合は」「かなりの程度まで」


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12月20日(金)のつぶやき

2013年12月21日 | Myenzklo

国家組織の中心点は君主と国会である。国会をもって国家に不可欠のものとすることの近代性は自明であるが、君主については注意が必要である。すでに政論三においても、ヘーゲルが君主制に傾いているのは事実であるが、しかし、主権者を世襲君主に限ったわけではない。
(s 359 )


なぜなら、主権者の存在そのものは国家にとって不可欠ではあっても、主権者が単数であるか複数であるか、誕生によってその位置に就くか選挙によるかも国家にとって必要欠くべからざるものではなく、むしろ道でもよい区別であるとされており(上巻66頁)、


したがって共和制(上巻159頁)も肯定せられているからである。だから彼が世襲君主制に傾いたのは、ドイツの具体的事情による偶然であって、国家理論そのものからすれば必然ではないのである。(ibid s 359 )
※この個所の金子武蔵氏の注釈は、重要だろう。


世襲君主制と共和制については、悟性的にではなく理性的に判断されるときには、特定の国においては、「必然的に」規定されるのではないだろうか。つまり、我が国のような「個別具体的な特殊な国家」においては「必然的に」世襲君主制が帰結されるのではないだろうか。少なくともヘーゲルの「法の哲学」


においては、近代国家においては「立憲君主主義国家体制」の必然性については「論証」されているのではあるまいか。このヘーゲルの「政論」と「法の哲学」の関係についても、今一度検討される必要はある。金子氏自身はどこまで「法の哲学」を研究された上での発言であるのか、それはわからない。


私の今後の研究課題も、ヘーゲルの「法の哲学」の検証とその止揚を目的とした現代国家形態の概念についての証明が中心的な課題であることは予想されることである。


とにかく権力がある。これによって安全のために必要な限りの兵力と財力とが調達せられ、またこれに必要な法律と組織とへの服従が要求せられるのだから、強制のあるのはもちろんである。のみならず「国家」外の「社会的結合」への干渉もある。例えばかっての帝国都市(上巻187頁)に見られるごときa


なはだしいオリガーキーの跋扈するとき、また例えば工業が農業を不当に圧迫し農民が極端な貧窮に陥るというような場合(74頁)がそうである。しかし、対外的対内的に安全が保たれ、また特権や専横が打破せられることによってかえって自由が――ただし実質的自由―がある。だから政論三は b


「確乎たる統治は自由のために必要である。」(上巻185頁)とも、「代議団体なくしては、いかなる自由ももはや考えられない。」(同上)ともいっている。かくて権力による強制があり干渉があっても、これはむしろ自由のためのものであるが、これが注意すべき第二の点なのである。360


本来の国家目的にとって絶対に必要であるもの以外の職務――地方団体や職業団体の職務――はできるだけ国民の自由と自治とに委ねるべきであるのは、むろん基本的には、すでにいったごとく自由がそれ自体において神聖だからである。しかし、ヘーゲルはまた利益もあげている。利益としては、自治に、a


名誉職に委ねるときには運営費や人件費を支払わなくともよいこと、公務に従事することによって国民の知的道徳水準が向上すること、信頼されているところから国民の自敬の念が養成せられ、一朝ことあることには自発的献身を期待しうること、また国民が幸福と繁栄とを享受しうること(上巻75-78頁)


をあげている。しかし、かかる利益が「全能不敗の精神」(上巻78頁)を生むというに至っては、利益という相対的理由もいつしか「自由がそれ自体において神聖である。」という絶対的理由と重なり合い、両者間にはほとんど区別がなくなっている。このことは、ヘーゲルの「理性」なるものが a


経験主義や実証主義と相容れぬものでないのと同じく、功利主義との関係もまた同様であることを示しており、英訳の解説者Z.A.Pelcznski がベンタムとの類似を指摘するのも必ずしも理由なしともしない。かく「理性」の立場が利益の立場とも相容れぬものでないことに注意を促したく思うb


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12月19日(木)のつぶやき

2013年12月20日 | Myenzklo

主権者と国会という合法的なる権力の中心点を承認し、このもとに服属して「国民の自由」に転換しなくてはならないけれども、この時にそれは多様性という外国には見られぬドイツ国家の特徴をもたらすべきものなのである。(s 356 )


おのれのもとにあることであるには相違ないとしても、他のもとにあることに媒介せられて初めて真実の自由であり実質的な実在的な自由である。政論の実現せんとするのがこの自由であることはいうまでもない。しかし、それはかかる自由を正義心とか協同性というごとき倫理的な心情や行為によって a


実現せんというよりか、むしろ現実的な自由をまさに現実に可能ならしめるような制度の設定によってなさんとするものである。政論の目ざす自由は、心情や観念の上にとどまるものではなく、現実に効果をもたらすところのeffective freedom(ジョン・デューイ)なのである。b


しかるに国家における制度の根本的なるものは憲法であるから、いずれの政論も憲法批判を行なうのである。
批判は理性の立場からなされる。けだし実質的自由を得させるものは理性だからである。政論の四が「理性の権利にしたがって承認せられるもの以外のいかなるものも憲法においては有効なものとして


承認せられてはならない。」といっているのは、このことを示している。しかし、この理性はまさに理性であって悟性ではない。悟性がいかなる時代にも通じる原理・原則を立てるもの、またこれに終始して展開することのできないものであるのに対して、理性とは史的段階に即した原則を立てるのみならず、


さらにそれぞれの具体的状況にしたがって、それを展開し組織することのできるものである。ここに「史的段階」とは、フランス革命によって開始せられた時代――歴史哲学講義におけるクリスト教的――ゲルマン的時代に属する――であり、原則とは人権宣言において表明せられているようなものであるが、


このことは政論の四が基本的には賛成しているところのフリードリッヒ王の憲法原案のいかなるものであったかを想起するならば、疑うべくもない。しかし原則が一定の史的段階に属するものであるとしても、理性はこれに終始するものではなく、さらに具体的状況に即してそれを展開し


組織づけうるものであるが、このような理性の立場から政論は憲法批判を行なわんとするのである。 (ibid s 357 )※この個所からも、現行日本国憲法に対する根本的な批判を展開する場合の、必要な立場を再確認してゆく上でも有効であるだろう。現行日本国憲法がいかにして現実の


国家に歪みをもたらし、その不全を来しているかを論証する義務がある。現行の日本国憲法の軍備放棄条項にしても、私が少なくとも大学教授以上の批判的能力を形成することなくしては、すべては、犬の遠吠えになることを自覚しておく必要があるだろう。どのように徹底的に研究を組織立て、


体系づけてゆくか、その批判的な研究が本当に価値のあるものでありさえすれば、最終的には出版の道も開かれよう。いずれにしても、批判的な研究の水準を最高のものとしてゆかなければならない。


実質的自由を実現するために必要な、このような理性の立場から政論は憲法批判を行なわんとするものであるが、かかる立場から見れば数多くの古法がある。古法も、それが発足し、ないし制定せられた当時にあっては、それなりの「条件」なり「基底」なりをもっていたが、時代がもはや変わっている以上、


形式の上では確かに法であり、この限り肯定されるべきポジティーフなものであるに相違ないとしても、時勢が移り、それを乗り越えて進んでいる生きた現実から見れば、もはや国家をして国家たらしめず、それの目的であるところの実質的自由を抑圧するものとして、却って否定されるべきたるにすぎぬ。


いずれの政論も、このようなポジティーフなものを批判している。而して、ポジティーフなものが理性の立場からすれば法として存続し得ぬにもかかわらず、依然として法の効力を持つのは、それが一部のものの特権だからである。だから、いずれの政論も特権の批判であり、


特権打破の雄叫びをあげるものである。政論の一つはベルン共和制のじつはグラン・コンセイユを中心とする貴族制に過ぎぬことを、政論の二はベルテンベルグ公国の人権を無視した絶対君主制と民会幹部や都市当局の特権とを、政論の三は「ドイツ憲法」なるものが当代から見れば、


ドイツの国家でないのを宣言したものであることを、とりわけウェストファリアの和約は「国民の自由」ならぬ「議員の自由」に固執してドイツの没国家性(上巻153頁)を組織したものであることを、政論の四は旧民会幹部のブルジョワ貴族政治を、また書記の貴族政治を、政論の五は議会を支配する


地主貴族(ランロード)及びこれと結託せる国教会の特権を、それぞれ解明し批判せんとしたものである。この際解明の仕方は決して思弁的なものではなく、むしろ実証的経験的であって、ヘーゲルの「理性」が経験主義とも十分に調和しうべきものであることを示している。(ibid s 358 )


ヘーゲルの実玄実現せんとするのは、実質的自由であるが、しかし、彼は道義心に訴えるにと止まるのではなく、むしろしかるべき制度の設定に、したがってまた憲法の改正によってそれを実現せんとするのである。ところで改正には民意に訴えるだけではなく、国家権力が必要である。


権力の必要は政論三に至って初めて自覚せられたが、このさい我々は次の三つのことに注意するべきである。政論三は国家にとって絶対に必要なものと民衆の「社会的結合」(上巻七九頁)にとっては不可欠であっても国家にとっては必ずしも必要でないものとを峻別し、権力的に統一づけることは、


これを厳重に前者のみにかぎり、後者はこれをできるだけ民衆の自由と自治とに委ねるべきであるとしている。国家の目的は対外的対内的な安全を期することであり、したがって国家はこの目的のための兵力と財力とを備えることを、またこれらを調達するために必要な法律を国会との協同において


制定することを、調達し制定するための政府組織を持つことを必要とするものであるが、国家活動は厳重にこの範囲に留められるべきだというのがヘーゲルの意見である。だから彼は国家的統制を国民生活の隅々まで及ぼすべきだという、いわゆるetatismeを主張せんとするものではない。359


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