第二十七篇
第27篇註解 私を探し求めよ 英訳には「賛美の祈り」という標題がついているが、少し内容から外れているのではないかと思う。この第二十七篇の主題は二つある。前半は、主が祈りを聴かれて苦難から解放されたことに対する感謝と賛美の祈りであり、後半は、主に対する信頼と待望の勧めである。 「主の家」とはどこか。神は言葉でもある。言葉、ロゴス、理性でもある神、主の住まわれているのは、聖書の中であり、天である。新約聖書では、「天地の創造主は人間の手で造られた神殿などには住まわれない」(使徒言行録17:24)と言い、そして、「イエスキリストの宿る人間こそが神殿である」とされる。(コリント前書Ⅰ3:16) 災いや困難の日に、詩人は主の指導と保護を求めて祈る。仮庵や幕屋に──いずれも、砂漠で、荒々しい自然から人間を保護する住居である──に主は詩人を匿い、さらに、敵に打ち勝たせ、岩の上に高く立たせ歓声を挙げさせる。そのとき、詩人は主に感謝のいけにえをささげ、賛美の歌をささげる。 苦難の状況におかれた詩人に、主は言われる。「来て、私に祈れ」そこで、詩人は救いを求めて、「自分が何をなすことを主は欲しておられるのか」それを教えてくださるように、「安全な道に導かれるように」と、主に祈る。 この詩人の悩みは、最も親しい母、父にさえ見捨てられようとしていることである。最近は日本でも、子供に対する虐待が増え、それも、両親から虐待されるという無情、無慈悲な状況が生じている。日本人に慈悲心や同情心、愛情が希薄になりつつある証拠である。聖書によって神とイエスから愛を学ぼうとしない罪の結果である。どんなに物質的に富んでも、両親から愛を受けない子供は不幸である。だが、父母といえども、生きる人間である限り、弱さ、愚かさから免れない。この愚かで弱い両親から見放されたときにも、主は、詩人の身近におられ、愛されているという。たとい両親兄弟姉妹からも見捨てられるという苦難の状況にも、常に愛そのものである主に祈り保護を求めるようにと、この詩篇は教えるものである。 詩人は、生きて再び、主の恵みを味わうことを確信している。そして、主に対する信頼を決して失わず、信仰を固く保って失望することなく、主の救済を待ち望むことを勧めて、この詩篇を終える。
ダビデの詩
主は私の光、私の救い。私は誰も恐れない。
主は私の命の砦、私は誰にも怯えない。
悪人どもが私を攻め、私を殺そうとするとき、
私を害する敵どもこそ私に躓き、よろめくだろう。
たとえ、敵陣が私を囲んでも、私は恐れない。
もし、彼らが戦いを挑んでも、私は信頼している。
唯一つのことを私は願い、それを主に求める。
生涯の日々、主の宮に住まい、
主の麗しさを仰ぎ見、主を黙想することを。
災いの日には、主は私を仮庵の中に匿い、
幕屋の奥に隠し、硬き岩の上に立たせてくださるから。
今こそ、取り巻く敵どもの上に私は頭を高く挙げ、
主の幕屋の中で歓びの生け贄を捧げ、
主に向かって誉め歌を歌う。
主よ、私の叫びを聴き、私を憐れみ、私に答えてください。
あなたは言われる。「私を探し求めよ」と。
私はあなたを尋ね求めます。
あなたの御顔を隠されることなく、
怒りによってあなたの僕を退けないでください。
私を助けて、私から離れず、見捨てないでください。
神よ、私の救い。
たとえ、わが父と母が私を見捨てても、
主は私を呼び寄せてくださる。
教えてください。主よ、あなたの道を。
そして、陥れる敵から、私を穏やかな小道に導き、
害する者たちに私を渡さないでください。
彼らは偽りの証言をし、私を虐げ罵るのです。
もし私が生きてあなたの恵みを見ることを信じないならば。
主を待ち望め。
強く、勇ましくあれ。そして、主を待ち望め
第一節で、主が光であり、救いであることを詩人は言う。主は抽象的で観念的な存在であるが、客観的に存在する実在者として、闇夜の道を照らして安全な道を指し示し、困難から救う光にたとえられている。あらゆる危険から守ってくださる主は「救い」でもある。それゆえに、主に信頼を寄せる詩人は、あらゆる危険に対しても恐れることはない。敵の全軍が自分を取り巻き、敵が私に攻撃を仕掛けて命を奪おうとしても、主である神に固く信頼するゆえに詩人は恐れることはない。むしろ、悪しき人々が、自分を殺そうとする悪しき彼らこそ、躓きよろめく。
そして、詩人が願うことは唯一つ。生涯に渡って主の家に宿り、主の宮で、主の美しさを調べ黙想し尋ねることである。共同訳では、「主の家で朝を迎えること」となっている。英訳では、「主の指導を求める」となっている。