海と空

天は高く、海は深し

教育の再生、国家の再生

2007年05月09日 | 時事評論

教育の再生、国家の再生

今の安倍内閣においても、教育改革は内閣の最重要課題に位置づけられている。それは現在の安倍内閣ばかりではなく、歴代の内閣においても教育の問題は最重施策として取り上げられてきた。前の小泉首相は、郵政改革で頭がいっぱいだったから、教育の問題はそれほど自覚されなかったかもしれないが、その前の森喜朗元首相の内閣でも、文部科学省に教育諮問委員会を作って教育改革を目指していた。森喜朗氏でさえそうだった。森喜朗氏は文教族の国会議員としても知られている。

確かに国家の再生には教育の再生が前提になるだろう。しかし、教育の再生には何が必要なのか。教育の再生には、国語教育の再生が必要であり、国語教育の再生には、なにより哲学の確立が必要であると思う。だから、少なくとも国家の再生といった問題に関心をもつ者は、まず哲学の確立によって国語教育の再生をめざし、国語教育の再生によって教育の改革を、そして教育の改革を通じて国家の再生を計るということになる。教育の再生は国語教育から、ということではないだろうか。


江戸時代から、日本には「読み書き、ソロバン」という教育上の標語があって、この標語の教育の核心をついた普遍的な真理は、今日においても意義があるだろうと思う。読み書く力を十分に育てることが教育の根本的な課題であることは今日でも同じだと思う。


読む能力は、知識や情報を外部から吸収するのに不可欠であるし、書くことによって、自らの意思を社会や他者に向って発信することができる。この二つの能力は、個人が充実した社会生活を営んでゆく上で不可欠のものであるし、また、どれだけ高いレベルでそれらの能力を育成できるかが、個人の生涯を意義のあるものにできるかどうかも左右するのではないだろうか。


確かに、現在の学校教育でも国語教育がおろそかにされているとは思わないし、生徒たちの国語能力の向上に向けて、それなりの努力は行われていると思う。朝の授業前の読書の時間は多くの学校で普及しているようであるし、作文の時間などで文章を書くトレーニングもそれなりに行われている。


ただ、それでもなお、日本の国語教育における「読書の訓練」は生徒たちの自然発生的な意欲や努力に任せられたままで、読書の技術などは、まだ学校の現場では洗練されも高められもせず、充実してはいないようだ。もちろん日本の教育の伝統としても確立されてはいない。それは、多くの人々から指摘されるように、今日の大学生がまともな論文を書けないということにもなっている。

だから日本で世界的に通用する学術論文を書くことができるのは、リテラシーという言葉で「言語による読み書きできる能力」が長年の伝統の中に確立されている欧米などの海外に留学して、そこで教授などから専門的な論文教育を受けて、論文の書き方に「開眼した」という留学体験のある、大学の修士か博士課程の卒業者に多いのではないだろうか。この点で今日なおわが国の普通一般教育や大学や大学院での論文教育は充実していないようにも思われる。


この事実は、かなり高名な日本の学者、教育者の文章が実際に拙劣であるという印象からも証明されるのではないだろうか。論文教育はいわば科学研究の方法論の一環として行われるべきものであり、その核心は、論理的思考力であり、哲学的な能力の問題である。自然科学系の有名な学者であっても、その文章に現われた認識や論理の展開で、正確さや論証力に劣っている場合も少なくないように思われる。


いずれにしても、これだけ学校教育の普及した国民であるのに、果たして、それにふさわしいだけの国語能力が確立されているだろうかという問題は残っていると思う。実際の問題として、一般的に国民における読み書きの力は、(自分を棚にあげて)まだまだ不十分だと思う。


それでも、今日のように、とくにインターネットが発達し、ブログなどで比較的に簡単に個人が情報を発信できるようになったので、なおいっそうそうした能力は求められると思うし、また、その能力育成のための機会も容易に得られるようになったと思う。多くの優れた学者の論説文もネット上で容易に読めるようになったし、また、語学力さえあれば、自室にいながらにして世界中の著名な科学者、学者の論文も読むことができるようになった。一昔に比べれば、翻訳ソフトなども充実して、語学能力の育成もやりやすくなったと思う。


蛇足ながら、私自身は文章を書くときに注意すべきこととしては、次のようなことを心がけるようにしている。それは、思考の三要素として、「概念」「判断」「推理」の三つの項目にできうるかぎり注意して書くことである。


「概念」とは、一つ一つの用語を正確にして、それぞれの言葉の意味をはっきりさせることであり、

「判断」とは、一文一文の「主語=述語」の対応が正確であるか「何が何だ」をはっきり自覚することであり、

「推理」とは要するに、文と文のつながりのことであり、接続詞や副詞などが正確に使われて、一文一文に示された判断が、論理的な飛躍や誤りがなく、必然的に展開されているか確認することである。

そんなことを検討し反省しながら書くようにしている。しかし、文章を書く上でこんな基本的なことも今の学校では教えられていないのではないだろうか。

なかなか、理想どおりにそれを十二分に実行できずに、現実にはご覧のような悪文、駄文になってしまっているのは残念であるにしても、これからも引き続き改善してゆくべき課題であると思っている。

今日の記事も、また、「教育の再生」や「国家の再生」といった大げさな標題を掲げてしまったけれども、多くの人がブログなどを書いてゆくなかで、「言語による読み書きできる能力」、、、いわゆるリテラシーを高めてゆくのに、こんなブログの記事でも、少しでも役に立てば幸いだと思っている。