hishikaiさん、懇切なご返事ありがとうございます。現在話題になっていて、昨日も参議院の外交委に参考人として招致されて意見を述べていた田母神前空幕長の懸賞論文問題について、今ちょうど私も論じようと思っていたところでした。
今回のあなたの文章を読んで、あなたの問題意識がさらによくわかったように思います。いくつかの興味ある論点がありますが、時間も限られていますので、とくに気にかかった二三の点に絞って私の考えを述べさせてもらおうと思います。
一つはキリスト教の問題です。これは今回のテーマである「グローバリズムと伝統」の問題とは少し外れています。それにもかかわらず、あなたがご返事の中でかなりのウェイトをもって語られているのが印象的でした。この問題についても、もう少し補足して述べておいた方がよいかもしれません。
その中であなたはカルヴァンの予定説を取りあげられていました。それについて私はよく知らないので断定はできないのですが、「人間倫理の最終的な課題は絶対者に預けておくことができる」というその言説は、何か現実回避の、あるいは勝手な人間の現実逃避のような印象を持ちます。
いずれにせよ、有限な人間に、肉体を背負った人間に完全な倫理をそもそも求めることはできないのだと思います。自然的な人間は「悪」であることを宿命づけられていると思うからです。あの大金持ちの青年に対してだけではなく、すべて人間に完全な徳を、完全な倫理を求めるのは、昔のユダヤ人のように律法主義に陥るのではないでしょうか。
人間が自力で自分を救うことができるなら、何もイエスが十字架で死ぬことはなかったのではありませんか。「律法によっては罪の自覚しか生まれない。神の前には誰一人として正しい者はいない」とも書かれてあります。(ロマ書3:20)
先の論考で引用した「持ち物を売り払って貧しい人に施し、私に付いて従え」というイエスの言葉を、「律法」のように受け取られているのではないかと気になりました。新約聖書以後の今日に生きる私たちには、そうした律法主義からは解放されているのではなかったでしょうか。「人が義しいとされるのは律法の行いにではなく、信仰による」とも書かれてあるのではないですか。(ロマ書3:26)
また、hishikaiさんがおっしゃるように、「世間」が最終的な価値基準であるような伝統の私たちの社会で、仏教の「無の哲学」や、あるいは儒教のような「有の哲学」に終始するときは、前者おいてはすべてが「虚無」の中に解消され、後者においてはすべてが政治主義に陥ってしまうのではないでしょうか。
そして、もう一つの問題、これが私たちが今回のテーマにしていることだと思いますが、「袋小路の設問」の問題があります。
「袋小路の設問」とはあなたの文脈でいえば
①「西欧化の不可避」と「伝統文化の防衛」、
②「全体の状況(グローバリズム)」と「伝統の縮約である諸基準(ナショナリズム)」
などのそれぞれ二者が「一体不可分であるディレンマ」にある中で懊悩している事態です。
hishikaiさんは、私の論考のなかに「アメリカグローバリズムの悪しき申し子竹中平蔵や堀江貴文」と「日本の古き良き伝統文化」の対立設定による衝突、あるいはその優先順位を巡るディレンマを発見され、そしてその懊悩の捌け口を反米に、あるいは反日の憤激の中に(またその反動としての媚米と自惚れ愛国心に)解消しようとする傾向を社会に見て、その解決の理路を探らんとされておられるようです。
こうした問題提起で感じるのは、いわゆる「悟性的思考」の限界であるように思います。二律背反する二者の矛盾関係を、「悟性的な思考」が解決することができず、ニッチもサッチも行かずに懊悩し破綻して自暴自棄に陥る有様です。
問題の核心は、悟性的な思考による「袋小路の設問」ではなく、理性的な思考(弁証法的な問題認識)による「出口の見える設問の仕方」ができるかどうか、その能力にあると思います。
hishikaiさんが述べられたような「二律背反」する矛盾関係の問題解決のためには、どうしても理性的思考(弁証法的思考)が必要であると思います。それら相互に対立し矛盾する二者を否定し去ることなく、それぞれを契機として含む新しい状況にアウフヘーベンする方向で問題解決をはかるべきでしょう。
その能力を育成すること、弁証法的な問題解決能力を日本人も修得すること、これが核心的な課題であると思います。私が以前に「国家指導者論」で、大学や大学院教育の中心課題が、弁証法的能力の育成にあると主張した根拠もここにあります。
以前にブログ上で議論のあり方について考えたことがあります。
「ブログでの討論の仕方」
そして、「伝統とグローバリズム」を巡る議論は、私の方は取りあえずここまでにしたいと思います。さらに興味あるテーマで、議論、討論のできることを楽しみにしています。