海と空

天は高く、海は深し

8月30日(金)のTW:「キリスト教と自由」

2013年08月31日 | Myenzklo

基督教のおかげで、人間が人間として(すべての人が)自由であり、精神の自由が人間のもっとも固有の本性をなすものであるという意識に達した。この意識は最初は宗教の中で、すなわち精神の一番奧の領域で起ってきた。けれどもこの原理をまた世俗生活にも押し及ぼすということが次に来る課題であったが


この課題の解決と遂行とは困難な、長年月にわたる教化の努力を要した。例えば、キリスト教が採用されたからといって、すぐに奴隷制が廃止されたわけではなかった。まして、それによって国家の中に自由が行われることになり、政府や憲法が理性的に組織され、自由の原理の上に打ち立てられるまでには


中々ならなかった。この原理の世俗への適用、すなわちこの原理が俗世間に普く行われ、浸透するようになるには、長い年月を要することであって、その過程がすなわち歴史そのものなのである。原理そのものと、原理の適用、すなわち原理を精神と生活との現実の中に導入し、普及させることの区別については


私はすでに注意しておいた。この区別は我々の科学における根本原理の一つであるから、心に留めておかなければならない。――要するに世界史を必然性において認識するのが我々の任務なのである。【歴史哲学上 s44】


精神の世界は実体的な世界であり、物質の世界はあくまでも精神の世界に従属的なものである。これを思弁的な言葉で言えば、物質の世界は精神の世界に対して何らの真理を持たないものであるから、精神の使命と世界の究極的目的として、自由の意識と、その自由一般の現実性とを挙げておいた。 s 48


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