アジアはでっかい子宮だと思う。

~牧野佳奈子の人生日記~

家族の意味を知る。

2008-04-29 | ボルネオの旅(-2009年)
ここボルネオ島に来て、新しい家族ができた。

といっても、結婚したわけじゃない。

父さんは数年前に公務を退職して趣味のリサイクル等に明け暮れている。
母さんは中学校の現役校長。早朝から深夜まで忙しそうに動き回っている。
兄弟は5人。
一番上と四番目は、仕事と学校のため首都のクアラルンプールに住んでいる。
二番目の兄貴はジャングルの中。自分達の母語・クラビット語の辞書をつくっている。
三番目は私より二歳年下の弟で、年齢も顔立ちもスタイルも驚くほど実の弟にそっくり。大学の事務を仕事にしている。
そして末っ子が唯一の妹。高校生ながら母さんに変わって家事を完璧にこなし、それでいて兄貴たちへの甘え方もパーフェクト、という尊敬し得る愛しい妹だ。

ちなみに私の名前はキジャン。
友人が付けてくれた、クラビット族の名前。


ホームステイのお客さんだった私は、いつの間にか彼ら家族の一員になった。
家族の仲間入りをさせてもらった。

そして少しずつ、その意味や今まで感じることのなかった大切な感情を、彼らと過ごす日常の中でじんわりと学びとっている。


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「コミュニケーション」という言葉。
日本語に訳せば「会話」だけれど、もうちょっと英語のニュアンスを含めれば「交信」の方が近いような気がする。

私の苦手とするところ。

いや、正直にいえば、今までは得意だと思っていた。
実際、誰とでも話ができる。すぐに仲良くなれる。プライベートでだって友達はたくさんいる。

だけど、唯一苦手な相手があった。
それが自分の家族。
特に両親とは、反抗期が始まった若かれし頃から未だに上手く話ができない。
フツウに話をしようとしても、なかなか上手くいかない。

なんでだろう?と、ずっと思っていた。
原因はいくつか思い当たる。

私が幼稚だから。大人になりきれていないから。幼い頃に両親が仲良くなかったから。元々あまり話をしないから。両親が忙しくて話を聞いてもらえなかったことがトラウマになっているから。そもそも話をしたいと思えないから。

そして結局到達するところは、そんな自分の幼稚さを嘆き、両親を恨む醜い感情だった。



ここにきてようやく学べていることはそういうことだ。

「コミュニケーション」とは単なる言葉のやりとりではない。
お互いが心を開くこと、そのものだ。

「家族」というのは、そういう状態を完全に無条件で受け入れ合える間柄のことで、つまりだからこそ、自分が最も自分らしく居られる大切な場所(であるべき)なんだろう。


幸運にもマレーシアで得た私の家族は、別にこれといって私に優しくしてくれる訳ではない。
彼ら同士もまた、フツウに喧嘩をし、不平を言い、そして食事を共にし、フツウに笑い合う、きっと何ひとつ特別ではない、どこにでもいるフツウの家族。ただただ私という一人の日本人を受け入れ、また彼らのありのままを隠さずにさらし、君もそのままでオッケーだよ、とその一部として存在を認めてくれている。そのことがどんなに有難く、居心地がいいか―。


改めて思う。
「家庭を築く」ということは、お互いが心を開き、受け止め合える関係をつくることだ。

家族同士の会話や、スキンシップや、家族旅行はそのためのもので、単に多くの時間を共有すればいい、という安っぽい話ではない。だから簡単に心を開けないタイプの人は、きっとそれなりの努力をするしかないんだと思う。自分の「家庭」が欲しければ。



・・・ということは、どういうことだ?

私は自分の本当の家族に、心を開いていると言えるのか?

私を含めた家族の誰か一人でもが、今までにそういった努力をしてきたか?



会話が上手くできないのは、きっとそれが問題だ。
私は家の中で、頑なに心を閉ざしている。


一体どうしたらいいんだろう?

その答えを、私はマレーシアでの生活の中で見つけようとしているのだ。
それは簡単に言葉にできるようなものではなく、“なんとなく” 分かるような分からないような、まさに雲を掴むに等しい話なのだけれど、彼らの何気ない会話を聞いているうちに、相手の存在を認めることとか、自分が気に入らなくても許し合えること
とか、フツウでいることと自分勝手とは違うこととか、とにかく “なんとなく” そういった感覚を学んでいるのだ。

だけどもはや、いつまでも学んでばかりはいられない。
あとは実行あるのみ。
自分から心を開くことは容易ではないけれど、今なら、幼稚な私にもやればできるような気がする。

それはきっと、他でもない自分のため。
自分が自分を失わずに、いつも自分らしくあり続けるためだ。


がんばれ、自分。







「コミュニケーションが下手くそだ」と言われる現代の日本人。
暴力や殺人に露呈する「家庭」の問題も甚だしい。

本音と建前を使い分ける古き良き伝統とは別に、「コミュニケーション」の研究や教育がもっと盛んになってもいいんじゃないかと思う。それはきっといろんな事柄のすごく根本的な問題で、特に近所付き合いや親戚付き合いが少なくなってきている今の日本では、それらに代わる学びの場がもっともっと必要なんじゃないだろうか。

「建前のコミュニケーション」じゃなくて、「本音のコミュニケーション」。

本当の自分をどうアピールするか、そして相手の本音をどう受け止めるか。


いつか自分の家庭を築くときには、家族皆が心を開き合えるような、良い関係をつくろう。
マレーシアで学んだ “なんとなく” の感覚を思い出しながら。