アジアはでっかい子宮だと思う。

~牧野佳奈子の人生日記~

原発の取材で思うこと

2013-07-09 | 2013年たわごと

最近ずっと原発に絡んだ取材をしていて、なんともやるせない毎日が続いている。

2月に始めてから、かれこれ5ヶ月。

当初考えていた方向性とは大きく変わって、随分、地に足がついてきたような気はしているんだけれど…。

 

5ヶ月という期間は、これまで原発と直接向き合ってきた人達からすれば、ほんの一瞬の時間にすぎない。けれど、何が大変って、「反対!」の人達の声を聞きながら、「単純に反対できない」人達に寄り添うという、その中間路線を模索しているということ。

当初考えていたように、反対運動だけを追っかける取材だったら、こんな風な悩み方はしてないんだろうなと思う。

 

前回、取材先の福井県小浜市に行った時、あまりにいろいろなことを感じすぎたせいか、まるでドラッグを打ったかのように、急に全身の感覚が鋭くなってワーッと涙があふれて止まらなくなった。

風の音、木の葉が揺れるざわめき、におい、光、空気の色… そういったものに身体がわしづかみにされて、特に心臓が、縮み上がって震えていた。

あれは何だったんだろう、と今でも思う。

いろんな人が、いろんな思いを抱えて、それぞれに生きているという当たり前の事実が、どうしようもなく切なかった。

 

この5ヶ月間に悶々と揺れ動いた心の軌跡は、なかなか簡単に文字化できない。だって今も、未整理のまま揺れ動いている気持ちの一片が、まだ心臓の辺りでぶるぶる震えているんだもの。

だけど、そろそろちゃんとアウトプットしなくては。

これを自己満足で終わらせるのは、あまりにもったいないと確信できるようになったから。

 

それにしても、どうして原発なんてややこしいことを取材するようになったのか。化学や物理の難しい話は大嫌いで、しかも経済オンチ・政治オンチの自分が原発問題に手を出すなんて、ほとんど無謀な試みだと自分でも心底思うのに。

原発問題は避けて通れないなと腹をくくった理由は、必ずしも原発自体への関心や問題意識からではない。原発は放射能を出すから、とか、エネルギー問題だからとか経済問題だからとか、安全か危険か、とか、そういうことが問題の核心ではないと思っている。

たとえば原発以外でも、国策に対して地元の人が反対してきた(している)問題はたくさんある。沖縄の米軍基地だってそう、ダム建設だってそう、空港拡張だってそう、障害者に対する生活保障政策も、多分同じなんじゃないかな。

それらを推進してきた国や大企業のやり方がどうだったのか。そこに楯突いた一部の人達がどんな仕打ちを受け、世間にどんな風に見られてきたか。その人達の言い分を、たとえ最終的には退けたとしても、少しでも耳を傾けてきたかどうか。

その過程と姿勢は、社会問題といわれる日本のいろいろな問題に、どれも共通するんじゃないかと思う。
原発は、それが最も顕著で分かりやすい問題だという点で、また最も深刻な影響を及ぼすという点で、避けて通れないだろうと思ったわけです。 

 

原発問題は民主主義の問題だ、とよく聞く。

民主主義って何かといえば、民意をいかに反映させるか?ということ。民意が一番大事ってこと。
それって、システムの話じゃなく、コミュニケーションの話なんじゃないの。
顔の見えにくい集団(政府や大企業)が、いかに市井の人とコミュニケーションをするか。そのためにはどんなシステムが必要か。

そこには、多分、ゴールというものはない。
選挙でも何でも、システムができればオッケーということではなく、コミュニケーションという面倒なプロセスは、その都度、それをやる人達のモラルや熱意にかかってくるんじゃないかと思う。

だってコミュニケーションというのは、相手の話を聞こうとする姿勢がないと絶対に成立しないものだから。姿勢というのは、機械やシステムが示すものではなく、人が示すものだもの。

営業交渉だって、いくら相手を打ち負かそうと腹の中で思っていたって、まずは相手の言い分を聞き、妥協点を探そうと(せめて表向きには)するじゃないの。
ところが自分が最初から頑に出たら、相手もどんどん頑になっていく。

それが原発の場合、国や企業側が先に頑だったのか、それとも反対住民側が先だったのか…?
この間わたしが観察している限りでいえば、反対している人達はコミュニケーションこそを求めているように見える。「再稼働反対!」と一方的な訴えをしているように聞こえるけれど、少なくとも交渉の場では(国と交渉している人達は)、双方向の意見交換と歩み寄りを大事にしようとしているように見受けられる。

 

一方で自分に置き換えて、考える。

たとえば電気屋さんで商品を安くしてもらおうとするとき。たとえば間違って乗ってしまった電車で引き返してきたのに「ホームで迷ってました」と誤摩化そうとするとき。たとえば引っ越しの見積もりを出してもらうのに、わざと他社の訪問時間を近づけて営業マンの人を焦らせようとするとき。たとえば… 

自分が得をするために、もしくは自分が手柄を得るために、そうした些細な小細工や誤摩化しは日常茶飯事で(私は)してしまっている。
我ながらせこいなぁと呆れ返るけれど、それでも、相手の利害が個人的なものでない限り、やっちゃっているんだなぁ。恥ずかしながら。

ただ、たとえそれに失敗したとしても、嫌がらせをしたりネット批判をしたりなんかはしない。だけどね、それが自分個人ではなく、大企業の中の1人としての交渉だったらどうなんだろう。
思うようにコトが進まなかった場合、どんな手を使うだろうか。ましてや社長からの圧力があり、その上にも更なる圧力があって、何が何でもコトを進めなければいけない状況だったら。 

 

 

結局、原発という泥沼は、考えれば考えるほど、知れば知るほど、単純に「賛成」「反対」で割り切れるものではない。だけどそれは「中立」がいいということではなく、自分の主張以外に、相手の言い分を聞くだけの“余白”を持ち合わせているかどうか、ということなんだと思う。推進せざるを得ない人達も、反対せざるを得ない人達も。

ただひとつ、自分事として考えてるわけでもない人が、原発に懐疑的な人を「反対派」とカテゴライズし、原発に誇りを持っている人を「推進派」にカテゴライズしてモノゴトを単純化したがる風潮に、私は強い違和感をもつ。

そうやってカテゴライズしてしまうこと自体が、お互いのコミュニケーションを阻む要員になっているんじゃないかと、どうしても思ってしまうから。

 

こうやって頭の中はぐるぐるぐるぐる回る。

まさに、日々、修行。

コミュニケーションというのは、本当に難しいし、疲れるね。

そして思う。
直接議論し尽くせずに、こうやってむしゃくしゃしながらブログに書きなぐっていること自体が、その表れなんだろうなぁ…。(だけどがんばって続けるぞー )