遊びをせんとや

人生総決算!のつもりで過去・現在のことなどを書きます
といっても肩肘はらずに 楽しく面白く書きたいと思います

伊庭心猿~もう一つの木場の物語(改めて)

2024年04月08日 | 人物
版画 南紀風景

 木場こと伊庭心猿は 1908/M41年 東京日本橋に生まれる
 本名は猪場毅 14歳の時に俳人富田木歩に入門 
俳号宇多川芥子(うたがわけし)の名をもらうが 素行不良で破門される
明治末期か大正初め 詩人佐藤春夫に入門
22歳の時に東京から和歌山市に移住した
理由は佐藤からの何かの調査を依頼されたが その内容は知られていない

猪場は1931/S6年 雑誌「南紀芸術」を編集・発行する
「南紀芸術」 は和歌山市に設立された南紀芸術社により発行された雑誌で
1931/S06年9月の創刊号から1934/S9年1月の10号まで発行された

「南紀芸術」の内容は多彩で 評論・随筆・研究・翻訳・短歌・詩・絵画など
参加作家は 南紀に縁のある人物が多く 総勢100人以上に上ったという
一例を揚げる(リンク先はWikipedia) 
保田龍門:和歌山生まれの日本画家・彫刻家
川端龍子:和歌山生まれの日本画家・俳人
佐藤春夫:和歌山新宮生まれの詩人・小説家
井上吉次郎:和歌山生まれのジャーナリスト・ 社会学者
谷崎潤一郎:小説家・関東大震災後に関西へ移住
そのほかゴッホ・ロダンらの翻訳物も掲載
猪場毅は「刊行の辞」や「あとがき」などを書いている
 
「南紀芸術」10号まで出した後 猪場毅は東京に戻った(1934/S9年頃?)
その後 廃刊になったというから 彼は優れた編集者でもあったのだろうか
東京に戻ってから市川に住み 雑誌「真間」を発行しているが情報は皆無

佐藤春夫の調査とは何か分からなかった
「南紀芸術」で故郷の文化向上を図る目論見なら少しは分かる
ただ ずっと後に 佐藤は猪場をモデルにした小説を書いている
まさか 永井荷風「来訪者」への対抗心でもないだろう・・・

木場名で書いた「来訪者のモデル」を再読して見たら 気になる箇所があった
(青空文庫から原文のまま引用)

・・・白井は市川にゐるときは一人であつたから、退屈まぎれに可磨庵にあつ
た先生の自筆原稿を寫しはじめた。それが餘りに出來榮えがよく、本物とい
つても人が容易に信じるところから、つひいたづらが過ぎて色紙や短册にま
で手がのびた。それには利にさとい都下有數の古本屋なども絡まり、昭和の
洒落本らしい話があるのだが「來訪者」には書かれてない・・・中略・・・
 
僞物をさげて偏奇館へ箱書きをたのみに行つたのが、誰あらう筆者である
白井自身なのだから振つてゐる。事實は小説よりも奇なりといふが、「來訪
者」の事件をそのまゝ書けば、面白い話が澤山ある。しかし、あの小説の目
的は他にあるのだから、それを書かぬといつて作者を責めるわけにはゆかない。・・・

荷風は「戦後日瀝」1947/S22/10/21の日誌にこう書いている
・・伊庭毅 「来訪者」の事で復讐するという不穏の噂・・・  

そして木場貞「来訪者のモデル」が発表されたのは
1947(昭和22)年8月5日発行 眞間第二册」掲載

つまり荷風の「来訪者」は贋作した木場と白井への復讐譚である
贋作の中には荷風が死ぬまで秘匿したかった「四畳半・・・」があった
荷風はそれも偽筆されたことを知らなかった?が 不安ではあっただろう
それが「日瀝」の記述につながるわけである

木場の「来訪者のモデル」は「来訪者」を書いた荷風への復讐譚でもある
とはいえ上述引用文下線のとおり仄めかすだけ 荷風には分る筈だから

この後の事態は以下の通り運ぶ
1948/S23 5月 春本「四畳半・・・」発売でロゴス社摘発
 荷風が警視庁より事情聴取を受ける(調書を取られて放免)

今日はここまで 明日またお会いしましょう
[Rosey]