2022年「俳壇」6月号掲載 野木桃花俳句作品集 神々の国
古代神殿の御柱『宇豆柱(うずばしら)』
平成12年の春、出雲大社境内の八足門前より古代神殿の御柱が顕現。
拝殿の地下室拡張工事に先立っての事。
前調査によって明らかになりました。
調査後、南棟持ち柱に相当する宇豆柱が、島根県立古代出雲歴史博物館で公開展示されています。
伊勢神宮に代表される神明造や住吉大社に代表される住吉造と共に、もっとも古い神社建築様式とされている出雲大社(いずもおおやしろ)に代表される大社造。
本殿の平面図
本殿は南面する六間四面の建物で、千木(ちぎ)までの高さは、8丈(24m)もあります。でも、創建当初は32丈(約96m)、つまり現在の4倍の高さの壮大な木造建築だったらしいのです。現在の建物は3x3=9本の柱によって支えられ、中心にある柱を心御柱(しんのみはしら)といい、直径が3尺6寸(109cm)と一番太い。
屋根を支えている柱は心御柱の前と後ろにある2本の宇豆柱で、2尺8寸8分(87cm)の直径を有します。
その他の6本の側柱でも径2尺4寸(73cm)の太さがあり、南面には15段の階段が付いています。神明造は奥行きより幅が大きい長方形で、高床式倉庫から発展し穀物の代わりに神宝を納めるように変化したものと考えられ、住吉造は大嘗祭の建物に近似しています。
それに対して大社造はほぼ正方形の古典的な日本家屋に近い「田の字」形であるため、祭祀の場に使われていた宮殿が社殿に発展したとされているそうです。
その理由として、出雲大社の背後にある八雲山が神体であったとする説があります。
出雲大社の社殿に関しては鎌倉時代より前の記録がないため、延享元年(1744年)建立の現社殿が基本形とされるようです。
『古事記』や『日本書紀』が伝える記紀神話によれば、オオクニヌシノカミ(大国主神)が葦原中国(あしはらなかつくに)を天つ神に譲る代償として、天つ神の御子が住む宮殿と同じように立派な神殿を造営してくれるならば、自分は遠い幽界に隠退しようと申し出て、その合意の上で造営された神聖な神殿とされています。
古代出雲大社想像図
神殿は地底の盤石(ばんじゃく)に宮柱を立て、大空に千木(ちぎ)を高々とそびえさせた建物だったそうです。出雲大社の言い伝えでは、神殿の高さは上古には32丈(約96m)もあったといわれています。天禄元年(970)に源為憲(みなもとのためのり)が書いた『口遊(くちずさみ)』という本に、当時の日本の三大建築物が「雲太(うんた)、和二(わに)、京三(きょうさん)」として記されています。これは、所在地を姓として大きさの順を表したもので、「雲太」は出雲太郎の略で、出雲大社の本殿を指しています。
同様に、「和二」は大和二郎の略で東大寺大仏殿を、「京三」は京三郎の略で京都の大極殿を表しています。その当時の東大寺大仏殿の高さは15丈あったそうです。
したがって、出雲大社の神殿はそれを越える十六丈(約48m)はあったと想定され、「天下無双の大廈(たいか)」と讃えられました。
出雲大社で地下祭礼準備室の建設計画が持ち上がり、平成11年(1999)年9月から建設予定地の発掘調査をおこなったところ、翌平成12年になって驚くべき発見がありました。神殿の柱の根本部分が、拝殿北側から3本も出てきたのです。これらの柱は大社造りの9本柱のうち、最も重要な心の御柱、本殿の棟を支える宇豆柱(うずばしら、棟持柱)、および側柱(がわばしら)でした。しかも、いずれの柱も3本の木を束ねて1本とした巨大なもの。3本を束ねた柱の直径は約3mであり、『金輪御造営差図』に描かれた柱の太さは現実でした。発掘された巨柱の調査によって、さらに様々なことを明らかになりました。
拝殿裏に置かれた巨柱の模型
先ず、柱材は9本の木のうち7本は杉であることが確認。柱材はすべて赤く塗られていたことも判明しました。また、柱材の化学分析の結果や他の出土品の年代観から、巨柱は平安時代末から鎌倉時代初め頃に造営された神殿のものとわかりました。さらに発掘では古墳時代前期(4世紀頃)の祭祀遺物も確認されるなど、大社の歴史を解明する上で重要な成果が得られたそうです。
※ 下記 「マシュマロ」さんのブログから引用転記させていただきました。
https://ameblo.jp/myuu-hina/entry-11951887918.html
古代神殿の御柱『宇豆柱(うずばしら)』
平成12年の春、出雲大社境内の八足門前より古代神殿の御柱が顕現。
拝殿の地下室拡張工事に先立っての事。
前調査によって明らかになりました。
調査後、南棟持ち柱に相当する宇豆柱が、島根県立古代出雲歴史博物館で公開展示されています。
伊勢神宮に代表される神明造や住吉大社に代表される住吉造と共に、もっとも古い神社建築様式とされている出雲大社(いずもおおやしろ)に代表される大社造。
本殿の平面図
本殿は南面する六間四面の建物で、千木(ちぎ)までの高さは、8丈(24m)もあります。でも、創建当初は32丈(約96m)、つまり現在の4倍の高さの壮大な木造建築だったらしいのです。現在の建物は3x3=9本の柱によって支えられ、中心にある柱を心御柱(しんのみはしら)といい、直径が3尺6寸(109cm)と一番太い。
屋根を支えている柱は心御柱の前と後ろにある2本の宇豆柱で、2尺8寸8分(87cm)の直径を有します。
その他の6本の側柱でも径2尺4寸(73cm)の太さがあり、南面には15段の階段が付いています。神明造は奥行きより幅が大きい長方形で、高床式倉庫から発展し穀物の代わりに神宝を納めるように変化したものと考えられ、住吉造は大嘗祭の建物に近似しています。
それに対して大社造はほぼ正方形の古典的な日本家屋に近い「田の字」形であるため、祭祀の場に使われていた宮殿が社殿に発展したとされているそうです。
その理由として、出雲大社の背後にある八雲山が神体であったとする説があります。
出雲大社の社殿に関しては鎌倉時代より前の記録がないため、延享元年(1744年)建立の現社殿が基本形とされるようです。
『古事記』や『日本書紀』が伝える記紀神話によれば、オオクニヌシノカミ(大国主神)が葦原中国(あしはらなかつくに)を天つ神に譲る代償として、天つ神の御子が住む宮殿と同じように立派な神殿を造営してくれるならば、自分は遠い幽界に隠退しようと申し出て、その合意の上で造営された神聖な神殿とされています。
古代出雲大社想像図
神殿は地底の盤石(ばんじゃく)に宮柱を立て、大空に千木(ちぎ)を高々とそびえさせた建物だったそうです。出雲大社の言い伝えでは、神殿の高さは上古には32丈(約96m)もあったといわれています。天禄元年(970)に源為憲(みなもとのためのり)が書いた『口遊(くちずさみ)』という本に、当時の日本の三大建築物が「雲太(うんた)、和二(わに)、京三(きょうさん)」として記されています。これは、所在地を姓として大きさの順を表したもので、「雲太」は出雲太郎の略で、出雲大社の本殿を指しています。
同様に、「和二」は大和二郎の略で東大寺大仏殿を、「京三」は京三郎の略で京都の大極殿を表しています。その当時の東大寺大仏殿の高さは15丈あったそうです。
したがって、出雲大社の神殿はそれを越える十六丈(約48m)はあったと想定され、「天下無双の大廈(たいか)」と讃えられました。
出雲大社で地下祭礼準備室の建設計画が持ち上がり、平成11年(1999)年9月から建設予定地の発掘調査をおこなったところ、翌平成12年になって驚くべき発見がありました。神殿の柱の根本部分が、拝殿北側から3本も出てきたのです。これらの柱は大社造りの9本柱のうち、最も重要な心の御柱、本殿の棟を支える宇豆柱(うずばしら、棟持柱)、および側柱(がわばしら)でした。しかも、いずれの柱も3本の木を束ねて1本とした巨大なもの。3本を束ねた柱の直径は約3mであり、『金輪御造営差図』に描かれた柱の太さは現実でした。発掘された巨柱の調査によって、さらに様々なことを明らかになりました。
拝殿裏に置かれた巨柱の模型
先ず、柱材は9本の木のうち7本は杉であることが確認。柱材はすべて赤く塗られていたことも判明しました。また、柱材の化学分析の結果や他の出土品の年代観から、巨柱は平安時代末から鎌倉時代初め頃に造営された神殿のものとわかりました。さらに発掘では古墳時代前期(4世紀頃)の祭祀遺物も確認されるなど、大社の歴史を解明する上で重要な成果が得られたそうです。
※ 下記 「マシュマロ」さんのブログから引用転記させていただきました。
https://ameblo.jp/myuu-hina/entry-11951887918.html
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