履 歴 稿 紫 影 子
北海道似湾編
真夏の太陽と天狗の太鼓 7の2
当時私の毎日は、母に呼び起されて毎朝五時に起きた。
そうして前夜仕度をしておいたご飯と味噌汁を炊いて、兄の弁当を容器(その当時の容器は、柳の細い枝を編んで作った物であって、一般には弁当行李と称されて居た)に詰めたのだが、その副食は、塩鱒の焼いた物か、身欠鰊の煮付に、香の物か梅干をご飯の上へ載せると、次は私と次弟義憲の日の丸弁当を握る(畑を仕事に行く日に限る)のであった、そして六時半頃までには朝食をすまして兄は七時、父は七時半頃に出勤をするのであったが、私はその朝食の後始末をしてから夜中に汚した末弟のオムツを洗濯するのであった。
そして八時半頃には次弟を連れて畑に行くのであった。
そして雨の日以外で畑仕事の無い日には、矢張り次弟を連れて、川辺や沢へ行っては野生の蕗や三ツ葉のような青物か、付近の山へ行ってきのこを取るか、さも無くば鵡川川や似湾沢へ魚を釣に行くと言う状態であった。
雨の降る日には、終日家に居ることが多かったのであったが、外へ出た日の帰りは、午后の四時頃か、日暮時までかと言ったように、その日の母の健康如何によって異って居たのだが、四時頃に帰った日は、夕飯の仕度をして父や兄の帰りを待って、その夕飯が終った後仕末をすると、どんなに急いでも七時頃になった。
また日暮時に帰る日には、夕飯の仕度は母がしてくれるのであったが、後の仕末は矢張私がしなければならなかったので、終る時刻には変わりが無かった。
私の毎日がこんな状態であったから、勉強の方は雨降りの日は別として毎日夕食の後始末が終ってから、一時間程、三分芯の洋燈の下で講義録が読めると言う程度であった。
次弟の義憲は、数え年の七歳になって居たが、彼の遊びに対する考え方が一年間で大きく変わっていた。
それは過去一年の歳月が、彼の遊びに対する考え方を進歩させたものであったろうが、私が小出さんの畑へ行く日には、去年と同様に彼を連れて行くのであったが、その第一日目の日に、「さあ、お前はまたこれで遊んで居れよ。」と柳の木を切ってやっても、彼はもう去年のような馬遊びをしようとはしなかった。
また、私の傍に来て仕事の邪魔をすると言うこともしなくなって居た。
その年の耕作第一日目の天候は、北海道としては珍らしい程にポカポカと暖い好天気であった。
私は去年の豆殻や八十糎程に伸びて居る薯畑の枯草を搔集めて燃すことに終始して一日を終ったのであったが、その間の次弟は横の小沢で石をひっくり返してはざり蟹を捕えて、終日楽しそうに遊んで居た。
次郎は私の卒業後も学校の授業を終ってからよく遊びに来て、私が薪を切って居れば、それを割って手伝ったり、屋外の掃除をしてくれたりして居たのだが、この日も留守居の母から、私の所在を聞いて小出さんの畑にやって来た。
「オイ、今年は一反増えたんだってなあ。楽じゃないなあ、でも心配するなよ。俺また手伝うからなあ。」と言って次郎は、私の掻集める枯草や木屑を運んで燃やすのを手伝ってくれた。
そうした次郎が、小沢でチ’’ャブチ’’ャブ1人で遊んでいる次弟を見て、「オイ、おんじ(弟と言う意味)何やって居るのよ。」と尋ねたので、「ウン、あいつざり蟹捕って遊んで居るんだ。」と私は答えた。
「ウム、そうか、そりゃうまいぞ。なあオイ、ざり蟹焼いて食うべや。」と言って、次郎は弟の方へ歩いて行った。
ざり蟹を焼いて食うと言うことを始めて聞いた私は、果たして食えるのかと言う疑問と朝から飽かずに遊んで居る弟が、どれ程捕ったかなと言う好奇心から彼に続いて小沢の岸へ行った。
その時の次弟は、小沢の岸に直径三十糎程の穴を掘って深さが二十糎程の底に十個程の小石を並べて其処に浅い溝で小沢の水を流し込んだ中に大小無数のざり蟹を泳がせて喜こんで居た。
「オイ、これ焼いて食うととても美味いんだぞ、だからデッカイ奴を焼いて、三人で食うべや。」と次郎が、弟を促すと、「ウン」と言って一応頷いた弟が、「デッカイ奴だけだぞ。小さい奴は俺家に持って帰るんだからな。」と注文をつけて焼いて食うと言うことに賛成をした。
次郎は早速マキリ(小刀)で柳の枝を削った串に大きいざり蟹を四匹づつ突刺したものを、三本作った。
木屑や枯草の焚火で次郎が上手に焼いたざり蟹を三人で食べたのであったが、次弟の義憲も「美味い、美味い。」と言いながら喜んで食って居た、併しその時の私は、「何か海老に似た味だな」と不図思った。
馬鈴薯、青豌豆、唐黍、金時、小豆、大豆と次々に種を蒔き終ると馬鈴薯から始まる除草に取掛かるのであったが、弟は小さい馬欠と笊を持って来ては毎日、小沢の雑魚を掬うやら、ざり蟹を捕っては喜んで遊んで居た。
また、次郎も欠かさず手伝ってくれた。