aya の寫眞日記

写真をメインにしております。3GB 2006/04/08

履歴稿 北海道似湾編  真夏の太陽と天狗の太鼓 7の2

2025-03-21 12:53:42 | 履歴稿
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履 歴 稿  紫 影 子
 
北海道似湾編
 真夏の太陽と天狗の太鼓 7の2
 
 当時私の毎日は、母に呼び起されて毎朝五時に起きた。
 そうして前夜仕度をしておいたご飯と味噌汁を炊いて、兄の弁当を容器(その当時の容器は、柳の細い枝を編んで作った物であって、一般には弁当行李と称されて居た)に詰めたのだが、その副食は、塩鱒の焼いた物か、身欠鰊の煮付に、香の物か梅干をご飯の上へ載せると、次は私と次弟義憲の日の丸弁当を握る(畑を仕事に行く日に限る)のであった、そして六時半頃までには朝食をすまして兄は七時、父は七時半頃に出勤をするのであったが、私はその朝食の後始末をしてから夜中に汚した末弟のオムツを洗濯するのであった。
 そして八時半頃には次弟を連れて畑に行くのであった。
 そして雨の日以外で畑仕事の無い日には、矢張り次弟を連れて、川辺や沢へ行っては野生の蕗や三ツ葉のような青物か、付近の山へ行ってきのこを取るか、さも無くば鵡川川や似湾沢へ魚を釣に行くと言う状態であった。
 
 雨の降る日には、終日家に居ることが多かったのであったが、外へ出た日の帰りは、午后の四時頃か、日暮時までかと言ったように、その日の母の健康如何によって異って居たのだが、四時頃に帰った日は、夕飯の仕度をして父や兄の帰りを待って、その夕飯が終った後仕末をすると、どんなに急いでも七時頃になった。
 また日暮時に帰る日には、夕飯の仕度は母がしてくれるのであったが、後の仕末は矢張私がしなければならなかったので、終る時刻には変わりが無かった。
 
 
 
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 私の毎日がこんな状態であったから、勉強の方は雨降りの日は別として毎日夕食の後始末が終ってから、一時間程、三分芯の洋燈の下で講義録が読めると言う程度であった。
 
 次弟の義憲は、数え年の七歳になって居たが、彼の遊びに対する考え方が一年間で大きく変わっていた。
 
 それは過去一年の歳月が、彼の遊びに対する考え方を進歩させたものであったろうが、私が小出さんの畑へ行く日には、去年と同様に彼を連れて行くのであったが、その第一日目の日に、「さあ、お前はまたこれで遊んで居れよ。」と柳の木を切ってやっても、彼はもう去年のような馬遊びをしようとはしなかった。
 
 また、私の傍に来て仕事の邪魔をすると言うこともしなくなって居た。
 
 その年の耕作第一日目の天候は、北海道としては珍らしい程にポカポカと暖い好天気であった。
 
 私は去年の豆殻や八十糎程に伸びて居る薯畑の枯草を搔集めて燃すことに終始して一日を終ったのであったが、その間の次弟は横の小沢で石をひっくり返してはざり蟹を捕えて、終日楽しそうに遊んで居た。
 
 次郎は私の卒業後も学校の授業を終ってからよく遊びに来て、私が薪を切って居れば、それを割って手伝ったり、屋外の掃除をしてくれたりして居たのだが、この日も留守居の母から、私の所在を聞いて小出さんの畑にやって来た。
 
 「オイ、今年は一反増えたんだってなあ。楽じゃないなあ、でも心配するなよ。俺また手伝うからなあ。」と言って次郎は、私の掻集める枯草や木屑を運んで燃やすのを手伝ってくれた。
 
 そうした次郎が、小沢でチ’’ャブチ’’ャブ1人で遊んでいる次弟を見て、「オイ、おんじ(弟と言う意味)何やって居るのよ。」と尋ねたので、「ウン、あいつざり蟹捕って遊んで居るんだ。」と私は答えた。
 
 
 
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 「ウム、そうか、そりゃうまいぞ。なあオイ、ざり蟹焼いて食うべや。」と言って、次郎は弟の方へ歩いて行った。
 
 ざり蟹を焼いて食うと言うことを始めて聞いた私は、果たして食えるのかと言う疑問と朝から飽かずに遊んで居る弟が、どれ程捕ったかなと言う好奇心から彼に続いて小沢の岸へ行った。
 
 その時の次弟は、小沢の岸に直径三十糎程の穴を掘って深さが二十糎程の底に十個程の小石を並べて其処に浅い溝で小沢の水を流し込んだ中に大小無数のざり蟹を泳がせて喜こんで居た。
 
 「オイ、これ焼いて食うととても美味いんだぞ、だからデッカイ奴を焼いて、三人で食うべや。」と次郎が、弟を促すと、「ウン」と言って一応頷いた弟が、「デッカイ奴だけだぞ。小さい奴は俺家に持って帰るんだからな。」と注文をつけて焼いて食うと言うことに賛成をした。
 
 次郎は早速マキリ(小刀)で柳の枝を削った串に大きいざり蟹を四匹づつ突刺したものを、三本作った。
 
 木屑や枯草の焚火で次郎が上手に焼いたざり蟹を三人で食べたのであったが、次弟の義憲も「美味い、美味い。」と言いながら喜んで食って居た、併しその時の私は、「何か海老に似た味だな」と不図思った。
 
 馬鈴薯、青豌豆、唐黍、金時、小豆、大豆と次々に種を蒔き終ると馬鈴薯から始まる除草に取掛かるのであったが、弟は小さい馬欠と笊を持って来ては毎日、小沢の雑魚を掬うやら、ざり蟹を捕っては喜んで遊んで居た。
 
 また、次郎も欠かさず手伝ってくれた。
 


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履歴稿 北海道似湾編 真夏の太陽と天狗の太鼓 7の1

2025-03-20 13:58:27 | 履歴稿
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履 歴 稿  紫 影 子
 
北海道似湾編
 真夏の太陽と天狗の太鼓 7の1
 
私達の家が、下似湾から市街地の吏員住宅へ引越た年の秋に、末弟の渡四男が誕生をした。
 
父は、その末弟の誕生を、
一、大正二年十月二十八日、四男出生、渡四男と命名す。
と、その履歴稿に記録をして居る。
 
 父が末弟の名を渡四男(トシヲと読む)と言った一寸変わった命名をしたのは、北海道へ渡ってから、四男として生まれたと言うことを意味づけたのだと、後年の父は私達兄弟に聞かせて居た。
 
 病身の母は、その末弟の渡四男が生まれてからは、めっきり弱くなった。
 
 当時小学校の尋常科六年生であった私が、次弟の義憲を連れて登校をするようになったのも、父も兄も、そして私が登校をした留守中を隣の夫人(私はおばさんと呼んで居た)の世話になって居たので、次弟の義憲が居ると言うことが、母もそして隣の夫人も、お互に負担になるからと言う母の意思によったものであったが、朝夕の炊事には殆んど私が当たって居た。
 
 その翌年の三月に私は、公立似湾尋常小学校を首席の成績で卒業をした。
 
 
 
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 その当時の似湾村には、高等科と言うものの設置が無かったことが、そうさせたのだと思うのだが、私の同級生で高等科へ進学した者は、役場の戸長をして居た家の三男坊であって、私と同じ机に席のあった、高松獅郎と言う少年が只一人と言う状態であった。
 
 その高松君は、札幌の高女(校名は不詳)を卒業した姉さんが、教鞭を使って居た輪西の鶴ヶ崎小学校の高等科に進学をしたのであった。
 
 当時、私の心境は高等科に進学したい一心であったのだが、併し家庭の実状が、私の希望を居れ得ない状態であることを私には良く判って居た。
 
 併し私は、一応進学をしたい自分の希望を父に訴えて見たのではあったが、「お前も良く判って居るように、お母さんが弱いので、お前が居ないと家が困る。それに下宿をしなければならないのだから、お金が沢山かかる。お父さんと義潔の二人が貰う現在の給料では、とても送金が続かないから、可哀想ではあるが、高等科への進学を諦めてくれ。」と言う結果になった。
 
 無理にとは言えないので、とても残念ではあったのだが、私は進学を諦めてその当時東京で発行して居た、高等小学講義録と言う通信教育によって勉強をすることにした。
 
 私が学校を卒業したからということによって、畑の借地を更に一反歩増すことになった。
 
 朝夕の炊事、次弟と末弟の世話、講義録による勉強、三反歩になった畑の耕作と忙しい毎日を送らなければならなくなったので、それまで母を喜ばして居た臨時集配人としてのポストを開ける仕事を三月限りで辞めてしまった。
 
 
 
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 従って、毎月母に喜ばれた三円の給料は、もう貰えなくなった。
 
 学校を卒業してからの私が一ヶ月間に必要とした費用は五十銭程度のものであったのだが、その内訳をして見ると、講義録が二十銭、少年雑誌の日本少年が十銭、そして雑記帳や鉛筆と言った文房具費が二十銭程度と言った経費であった。
 
 その当時の兄は、月収十二円の内から九円を母に渡して残りの三円を自分の小遣銭にして居た。
 
 兄はその小遣銭で、当時流行して居た講談文庫の単行本やハーモニカ、銀笛、明笛といった楽器類を、私が購読をして居た日本少年の広告欄から選んで、振替用紙を使っては注文をして居た。
 
 学校を卒業するまでの私は、月月に貰う給料の三円をその儘母に渡して、「日本少年」を一冊買って貰って居たのであったが、その臨時集配人を辞めて無収入となった私が、逆に講義録その他で出費が増えたことが、当時の私としてはとても淋しく感じたものであった。
 
 併し、幸いなことに五月からは、役場の小使さんが休んだ日には、一日五十銭の割で代務者として私を使ってくれたことと、集配人が休むと、郵便局でもその代務者として私を使ってくれて、その休んだ人の日給を日払で支給をしてくれたので月間三円は欠かさない収入があるようになったので、私はホッとしたものであった。
 
 
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履歴稿 北海道似湾編  古雑誌と次郎 7の7

2025-02-08 19:24:25 | 履歴稿
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履 歴 稿  紫 影 子
 
北海道似湾編
 古雑誌と次郎 7の7
 
 これは後日の物語りに属したことではあるが、私が二十八歳であった時に苫小牧町(現在は市政)の沼ノ端で父母と三人で生活をした時代であって、その当時の私は、現在では、国鉄日高本線となった鵡川駅から分岐をして居るのだが、その当時は室蘭本線の沼ノ端駅を分岐点として居た北海道鉄道株式会社(その当時は現在の千歳線の主要駅である、東札幌へ東京に在った本社が、駅前に新築をした建造物に移って居た。)の派出事務所に、その辞令面は車掌職と言う資格ではあったが、その実質的にはその派出事務所の次席と言った役割であった。
 
 私の父は、前にも書いたように、幼少の頃から関学を学んだ人であって、また書を良くした人であったのだが、その他に自分の趣味であった漢詩、短歌、俳句等を創作した物を、色紙や短冊に書いた場合に、自分の雅号であったその頭に、必ず五十翁と書くと言った程に弱々しい人になって居た。
 
 
 
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 勿論、当時の父は肋骨カリエスと言う難病と必死に闘って居た時代であったので、そうしたことも無理からぬことであったかも知れない父ではあったかも知れないが、当時の私としては、何んとかして今一度元気な父になって貰いたいと言う一念で、その当時の沼ノ端に蛇捕りのとても上手な人が住って居たので、そうした父の強壮に役立たせようと思って、その人に蝮を捕えて貰ったことがあった。
 
 私が頼んだその翌日に、その人は早速蝮を捕えて持って来てくれたので、「お母さん、似湾に居た時代に布施の次郎から貰った蝮を、美味い美味いと言って食べたお父さんでしょう。だから今日一日天日で干してさ明日蒲焼きにして、お父さんに食べさせておくれ。」と私は母に頼んだのであったが、その蒲焼を父の食膳に載せると、「義章、お父さんには、似湾時代の匂いがするぞ。」と懐かしそうにとても喜んで食べてくれた。
 
 次郎と私の古雑誌から生まれた交友は、その後父が室蘭市に程近い幌別の役場に転勤をした、大正四年の十二月まで続いたのであった。



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履歴稿 北海道似湾編  古雑誌と次郎 7の6

2025-02-07 11:46:15 | 履歴稿
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履 歴 稿  紫 影子
 
北海道似湾編
 古雑誌と次郎 7の6
 
 馬鈴薯の塩煮と「シシャモ」、それに甘酒といった饗応ですっかり満腹した私が、「どうもご馳走さんでした」と挨拶をして、「さあ帰ろう」と立ちあがった時に、「ホイ、俺すっかり忘れて居た。」と言って次郎が野蕗の葉に包んだ蝮の剝身を懐中から取り出して包を開いた。
 
 「オヤッ、次郎お前蝮捕って来たのか。」と言って彼の父親は、その裸に剝かれた蝮をじいっと見詰て居たが、「こりゃ、とても良い蝮だぞ。次郎この蝮綾井さんのセカチさやれや。」と次郎の同意を促すように、次郎へ目をやった。
 
 「ウン、良いよ。義章さんが気味悪く思わないのならやるから持って帰れよ。」と、次郎が蕗の葉に包みなおして、私に手渡そうとするのを「一寸待て。」と言って次郎の父親は、表へ出て行った。
 
 「オイ、親父なあ、屹度この蝮を干す串を作りに行ったんだぞ。見て居れ、今にその串持って帰って来るからなあ。」と次郎は言ったが、私には何故蝮を干すのか、そして次郎が言う串とは、一体どんな串か、と言う疑問以外に彼の言葉から、何の興味も湧かなかったので、只「ウン、そうか。」と頷いて見せただけで、あとは少々慣れた乗馬の話しを「オイ次郎、俺今度の日曜には一人で乗って見たいんだが。」と彼の意見を求めて居た。
 
 「ウン、そうか。多分大丈夫かと思うけど、どうかなぁ。よし、それでは馬を二頭借りて一つやって見るべや。そうして俺と二人が並んで行くべ。そうすりゃ屹度大丈夫だよ、そうだ、そうだ」と、次郎が一人で合点して居る所へ、彼の父親が帰って来た。
 
 
 
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 成程、次郎の言ったとおりであった。その右の手には柴木を細く削った、長さが三十糎程の串を持って居た。
 
 「どれ、蝮よこせ。」と言って次郎の手から蝮を受取った彼の父親は、その蝮を頭の方から尻尾の方へ幾曲りにも折曲げて串刺にした。
 
 これなあ、家さ持って帰ったらよ、何処さでもよいから高い所さ刺しておけ。すぐ乾くからなあ。そして乾いたらなあ、鋏でよ、好きなところから切って、焼いて食えよ、とても元気がつくからなあ。」と言ってから、更に次郎の父親は、この日次郎は捨て来たのだが剝いだ蝮の皮を干して保存をして置くと、負傷をした場合の切傷に、その皮をあてておくと血止めにとても良く効くと教えてくれた。
 
 私が串刺の蝮を持って帰ると不審そうに、その串刺の蝮をじいっと見詰た母が、「義章、お前が持っているそれは何じゃい」と訝るので、私は次郎と遊んだその日の一切を
詳さに説明をした。
 
 「ウン、そうじゃったの、そりゃ面白くて良かったな。でも、次郎の家には随分迷惑をかけたなあ。まあ良いわ、今度お母さんがそのお返しをするから。それはそうとしてその蝮たら言う口なご(香川県では蛇のことを”口なご”と称した)は、体にはとても良いのだと此の辺の人も言って居るのだから、教わったとおりに何処かに刺しとかないかんなあ。」と言って茶の間の四辺を見廻したのだが、葭で囲った次郎の家とは違って、板で囲った吏員住宅には、その蝮を刺した串を刺込む適当な箇所は、一寸見当らなかった。
 
 
 
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 「なあ義章、困ったことにその串を刺込所が無いなあ。」と困惑をした母は嘆息をしたのだが、「お母さん、何もそんなに心配すること無いよ。愈々無かったら、糸で何処かにぶらさげて置けば、すぐ乾くよ。」と言いながら私は、汚れた手を洗うべく台所へ行った。
 
 それは、手を洗い終った私が洗面器の水を流して正面の窓の上部に設けた棚へうつ伏せようとした時のことであった。棚から三十糎程上の方に小さな節穴があるのを発見した。「ウム、この節穴へ刺込んでおけば良いな。」と思ったので、「お母さん、あった、あった。」と私は大声で母を呼んだ。
 
 それはその翌朝のことであったが、洗面の時の父が、この串刺の蝮を見つけて、「これは何んだ。」と母に尋ねた。
 
 「それ、昨日義章が次郎の家から貰って来た蝮たら言う口なごですが。」と答えて母は、昨日私が母に話をした一切を父に説明をした。
 
 「ウム、そうか。そんならこれを一切れ蒲焼にしておいてくれ。晩酌の肴にして見るから。」と父は母に言ったのだが、その晩酌の盃を手にした父が、「こりゃ、いける。」ととても喜んでその翌日も翌々日も連続、その蝮が無く毎夜の食膳にその蝮の蒲焼を母に調理させては食べ続けた。
 
 
 
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履歴稿 北海道似湾編  古雑誌と次郎 7の5

2025-02-06 10:54:28 | 履歴稿
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履 歴 稿  紫 影 子
 
北海道似湾編
 古雑誌と次郎 7の5
 
 皮を剝いだ蝮の胴体を野蕗の葉に包んで懐に入れた次郎が、「オイ義章さんよ、苺は駄目なんだからもう帰ろうや。」と言うので「「ウン、そうだなあ、帰るとするか。」と私は、彼に同調をして二人が馬を繋いだ箇所へ歩いた。
 
 次郎が巧みに飛び乗った馬を近くの切株に歩かせたので、私はその切株から次郎の背後に乗り移った。
 
 走る時には薄く曇って居た空の所々に蒼空が覗いて居て、其処からの日射しが私達に影を踏ました。
 
 また、渡船場の川辺では、美声の音頭に流送人夫が、来る時と同じようにキビキビと働いて居た。
 
 私達が小石川さんに馬を返して次郎の家に帰り着いたのは、午后の三時頃であったが次郎の両親は「おお、帰って来たか。」と二人を笑顔で迎えてくれた。
 
 窓らしい窓が無いので、家の中が少々薄暗い感じがしたが、天上の梁から囲炉裏に釣るされた自在鍵の鍋には、皮を剝かれた馬齢薯が蓋の隙間から白い肌を覗かせて居た。
 
 
 
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 「今に薯が煮えるから、それまでこれを食って居れや。」と次郎の母親が、片隅の大きな木箱から笊に「シシャモ」の干したのを出して来て、次郎と私の二人に勧めた。
 
「シシャモ」と言う魚は、体長が十二、三糎程の小魚であって、形も味もチカに良く似た魚であったが、鮭や鱒と同じように、その産卵期には必ず川に登って来る魚であった。
 
 「シシャモ」の漁期は至極短期間であって、一週間程しか続か無かった。そしてその時期は、十一月の上旬か中旬の頃に太平洋から、鵡川川へ登ろうと群来るのを川口の付近で漁獲をして、石油箱(十八立入りの罐が二個這入る)に一箱が三、四十銭程度と言った価格で売買されて居たようであったが、それをヨムギの茎で目刺にしたものを、煮付けにするか、焼いて、食膳に載せるのが普通であった。併し、一般の家庭では、生干のうちに食い尽してしまうので、次郎の家のように、翌年の六月頃までも保存をして居る家は、稀であった。
 
 囲炉裏の火を掻き分けて、砕けて炭火のようになった物を一箇所へ掻き集めた上へ、針金で作った手製の網渡の上にシシャモを並べて次郎が、焼き始めた時に鍋の薯が丁度煮揚った。
 
 
 
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 私と次郎が、焼たてのシシャモを副えて、これも煮揚ったばかりの薯の塩煮を、フウフウと吹きながら食べて居る傍で、次郎の父親も矢張り「シシャモ」の焼たてを副えて、プンプンと、それが丁度甘酒のような匂のする濁酒を愛奴の家庭以外では一寸見られない丼大の漆器に波々と注いで、さも楽しそうに呑んで居たが、やがてその濁酒を別の漆器に七分目程注いだ物を私に差出して、「オイ、お前これ呑んで見れや、なあに弱く造ってあるんだから、呑んでも酔っぱらうこと無いよ。」と次郎の父が勧めたので、「ウン」と頷いた私は、その濁酒を一口啜って見たのだが、その味はとても美味かった。
 
 舌鼓を打った私は、次郎の父親を真似て「シシャモ」を肴に二杯も平げた、勿論次郎も二杯呑んだ。
 
 「この濁酒なあ、甘く造ってあるから酔っぱらわ無いんだ。俺の親爺は酒を呑まないから何時も甘く造るんだ。」と次郎は、その甘い理由を説明した。
 
 
 
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