aya の寫眞日記

写真をメインにしております。3GB 2006/04/08

履 歴 稿 北海道似湾編  吹雪 10の6

2024-11-15 16:24:11 | 履歴稿
IMGR083-22
 
履歴稿  紫 影子
 
北海道似湾編
 吹雪 10の6
 
 私達が郵便局へ帰ったのは、午后の八時を三十分程過ぎた時であったが、早速各所の郵便函から集めて来た郵便物を、事務の閑一さんに引継いで家へ帰ったのは、それから三十分程後のことであった。
 
 「今日は、昨日より遅かったな。」と、父に言われて、「今日は郵便物が多かったから。」と兄は答えたが、その事実は遠道に馴れて居ない私の足が遅かった結果であった。
 私はこの日から、「兄さんが慣れるまで。」と言う母の意思に従って、向う一週間を毎日生べつへ往復をした。
 
 その結果、どうにか兄が一人で行けるようになったので、私は通学するようになったのだが、勉強の遅れが可成り私を苦しめた。
 
 併しその後も、郵便物の多い日や兄の体調の悪い日には、私が学校休んで手伝ったので、週間、二、三日位しか登校することが出来なかった。
 
 
 
IMGR083-19
 
 やがて、雪は降り積もり、河川は凍結して、人馬が対岸と氷上を往来すると言う厳冬期に這入って、学校は冬休みになったのだが、私の生べつ往復は、この冬休み中を一日も欠かさずに毎日続いた。
 
 やがてその年も暮れて、大正二年の元旦を迎えたのだが、私達兄弟にはお正月の喜びは無かった。
 
 その頃の私は、川向のキキンニから芭呂沢までの三部落と、芭呂沢を渡って畔道から道路へ出たその道路の右側の配達をキリカチまで受持って居た。
 
 また兄は、似湾村の部分を受持って、其処の配達が終ると峠を越えて中杵臼の部落を配達するのであった。そして生べつの本村へ這入ってからは、私の受持以外の道路から左側を配達しながらキリカチへ歩いて、郵便函の在る大久保商店で二人が落合うのであった。
 
 
 
IMGR083-18
 
 このように手分けをして配達をするようになって居たので、時間的には相当短縮して居たのだが、何んと言ってもお正月であった、十日頃までと言うものは、殆ど戸毎へ配る年賀郵便で、私達兄弟が家に帰り着くのは、毎日午后の八時以後と言う時刻であった。
 
 こうした私達兄弟が、ある猛吹雪の日に、「北海道では吹雪で人は死ぬ。」と言った、保君の言葉をそのままに、危く遭難をしかかることがあった。
 
 その当時私は、その状況を記録しておいたのであったが、長い年月のいつの日にか忘失してしまって、正確な日時が判らなくなってしまったのだが、年賀郵便も、小包も、特に多い日のことであった
 
 その日の朝は、明方から降り出した粉雪が、猛烈に降って居て積雪も既に三十糎程になって居たのだが、風はさして強くは無かった。
 
 
 
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履 歴 稿 北海道似湾編  吹雪 10の5

2024-11-14 22:13:18 | 履歴稿
IMGR083-05
 
履歴稿  紫 影子
 
北海道似湾編 
 吹雪 10の5 
 
 元来、キキンニ部落の人達は、学童の通学も、そして日常の所用も、渡船場を利用して対岸の似湾村と往来をして居たので、この山道を利用する者は、郵便配達以外の者は至極稀だと兄は言って居たが、私は淋しくて嫌な道だなと思った。
 
 クウナイの次は芭呂沢と言う部落であって、川から西側の集配は此処が終点であったが、クウナイから此の芭呂沢への道程は約二粁程あって、部落と言っても、パロノ沢と言う小沢の流域に、愛奴の家が三戸程在ったに過ぎなかった。
 
 この芭呂沢も、キキンニと同じように、郵送の新聞を沢の一番奥に住っていた本田バロカトクと言う人の所へ配達しなければならないので、毎日来なければならないのだ、と兄は言って居た。
 
 そしてバロカトクと言う人の家は、昔は酋長であった家柄であって、当時のバロカトクは、熊討の名人なのだとも言って居た。
 
 私達兄弟は、そのバロカトクと言う人の所へ郵便物を届けると川岸に在った渡船場へ戻って其処から対岸の生べつ村の本村へ渡った。
 
 
 
IMGR083-07
 
 生べつの本村へ渡った私達は、畔道を急いで嘗て私達の家族が鵡川の市街地から生べつへ歩いた道路へ出た。そして其処から鵡川方面へ約二粁程あるキリカチと言う所まで、郵便物を配達しながら南下したのであった。
 
 私達がそれまで歩いて来た、川向のキキンニ、クウナイ、芭呂沢と言った三部落とは異って、生ベツの本村は、矢張り本村としての風格を備えて居た。
 
 それは地理的条件が備わって居たからではあったが、鵡川川が西側の山脈添に流れて居る関係で、小沢の流域を畑地とした狭い農耕地で生活をして居る川向の三部落とは異なって、農耕面積の広い、立派な農村風景であった。
 
 キリカチと言う所は、行べつと鵡川の村界に在って、此処までが兄の担当区域であった。
 
 私達がキリカチへ着いたのは、午后の二時を少々過ぎた時刻であったが、郵便函の在った大久保と言う店の火鉢に暖をとりながら、私達兄弟は昼食の握飯を食った。そうした私達は其処から折返して途中の配達をしながら、嘗て四月に私達が一週間ほど寄寓をした、生べつ小学校まで帰った時には、既に夜の帷りが四辺を包んだ午后の六時頃であった。
 
 
 
IMGR083-15
 
 生べつ小学校の在る所から、似湾との村境に在る峠を超すまでには、約五粁程の道程があったのであったが、その中間に在って字の名を中杵臼と呼ぶ所へ行くまでは、道の両側が密林になって居て、人家と言うものは全く無かった。
 
 その日の郵便配達は、この中杵臼にあった人家の戸数が二十戸程と言う小部落で全部終るのであったが、この中杵臼から一粁程を歩くと、その水源地に冷泉が湧いて居ると言うことから、湯の沢と呼ばれて居た幅が二米程の小沢が流れて居た。そして其処には土橋が架橋されて在った。
 
 湯の沢の土橋を渡った私達は、間も無く村界の峠にさしかかったのであったが、嘗て似湾沢で聞いた時のそれと同じような無気味な梟の啼声と、スタスタスタと何者かが私達の後を追っているように聞える自分達の足音の他は、只闇黒寂然とした峠であったので、此の峠が一番淋しい所だなと私は思った。
 
 

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履 歴 稿 北海道似湾編  吹雪 10の4

2024-11-13 21:59:34 | 履歴稿
IMGR083-02
 
履歴稿  紫 影子
 
北海道似湾編
 吹雪 10の4
 
 そうした私の様子に兄は、「駄目か。」と言って首を項垂てしまった。
 
 それはその瞬間のことであったが、「よし、欠席しよう。」と決心がついたので、「兄さん、手伝うよ。一緒に行くよ。」と言った私の声に顔をあげた兄が、「ウン、手伝ってくれるか、すまんが頼む。」と言った時の表情は、とても明るかった。
 
 私が市街地の函を開けて帰るまでに、兄が郵便物の配達区分をして家で待って居ることに打合せをして私は、例の大きな鞄を肩にかけて市街地へ急いだ。
 
 学校の欠席は、母に届けて貰うことにして、私は下駄を編上げ靴に履きかえた。
そして兄が書簡の這入った鞄を、私が三個の小包を綿糸で綯った紅白の紐で背負って出発をした。
 
 
 
IMGR083-03
 
 似湾村の部分は、人家が五十戸足らずであったが、遠近に点在して居るので、配達を終るのに約一時間程かかった。
 
 似湾村の配達を終った私達は、村境に在った渡船場から、鵡川川の対岸に在る生べつ村のキキンニと言う部落へ渡った。
 
 キキンニと言う所は、鵡川川へ合流して居る小沢の流域を耕作して居る農家が、僅か五、六軒と言う小さな部落であったが、「此処はなぁ、全戸で新聞を取って居るから、毎日配達する郵便物があるんだ。」と兄が言ったのだが、新聞が配送されて居るとすれば、当然そう言うことだろうなあと私は思った。
 
 キキンニ部落の配達を終ると、次はクウナイと言う部落であったが、このクウナイと言う所は、現在旭岡と呼んで三十戸程の人家と国鉄の駅も在るのであるが、未だ鉄道が施設されて居なかった当時は、僅か四、五軒の農家が点在して居たに過ぎない、淋しい部落であった。
 
 
 
IMGR083-04
 
 キキンニからクワナイへの道程は、約三粁程あったが、その突端が鵡川川の川岸まで延びて居る一つの峯を超えなければならなかった。
 
 当時は、輸送が不便であった関係か、付近の山々も、そしてこの峯にも、斧釿の這入らない原始林であった。
 また、私達が超えた峯の道も、人工で開さくしたものでは無くて、往時蝦夷鹿の群が季節的に移動をした時の通路が、自然に路を形造ったと言う幅が三十糎程の小路に、笹や雑草が覆いかぶさって居るのを、膝や腰で押分けて歩くと言う状態であった。
 
 私達がその峯を超えたのは十時を少々過ぎた時刻であったのだが、秋晴れの日射も、老樹の枝葉に阻まれて、丁度黄昏時の明るさにしかなかった。
 
 

 
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履歴稿 北海道似湾編 吹雪 10の3

2024-11-09 21:03:27 | 履歴稿
IMGR081-13
 
履 歴 稿  紫 影子

北海道似湾編 
 吹雪 10の3 
 
 兄の発令は、十月二十日付であったが、月末までの十日間は見習として前任者に同行して集配区域を覚えた。
 
 兄が担当した集配区域は、郵便局を境にした似湾村の南部一帯と、隣村の生べつ村全村であって、その往復の道程が約四十粁と言う広い区域を歩かなければならなかった。
 
 母は兄の就職問題には何んの意見も挟まなかったが、その就職が決定すると、早速兄の作業衣として、裾が膝小僧から十糎程下がる綿入れを裁縫した。
 
 郵便集配人とし出勤をする見習第一日の日の兄は、母が仕立てたこの綿入を着て、メリヤスのズボン下に巻きゲートル、そして草鞋履と言う身仕度で、私と同じ時刻に郵便局へ出勤をした。
 
 
 
IMGR081-19
 
 前任者に教わりながら郵便物の区分をして居る兄に、「兄さん元気でネ。」と言って、私は一足先に郵便局を出たのだが、「ウン」と頷いて私を見送った兄の顔は、何となく淋しそうに見えた。
 
 第一日目の見習を終えた兄は午後の六時頃に帰って来たが、「只今」と言う声には何となく元気が無かった。
 
 「兄さんどうだった。」と私が尋ねても、只「ウン」と言ったきりで、夕食もそこそこに寝床へ潜ってしまった。
 
 そうした兄の様子に「兄さんは辛かったんだな。」と思うと、私も何となく物寂しい気持になったので、早々に寝床へ潜り込んだのだが、「無理も無いなぁ。坊チャン坊チャンと皆からチャホチャホされて勝手気儘に暮して来た兄貴だもんな。それが郵便配達をやるんだもんな。屹度内地の生活が恋しいんだろう。俺だって丸亀が恋しいもんなぁ。」と思うと、ひしひしと慕郷の執念が胸に迫って、容易に私を睡らせなかった。
 
 
 
IMGR081-24
 
 大正元年十一月一日。
 それは兄が愈々一本立ちの郵便配達になった日であったが、その朝も私は兄と連れだって家を出た。
 私の家から郵便局までは、五十歩足らずの距離であったが、玄関から十歩程歩いた所で、突然立止った兄は、「義章、すまんが今日一日俺を手伝ってくれんか。俺には未だ自信が無いんだ、それに途中の道がとても淋しいんだ。」と沈痛な面持で言ったのだが、その一瞬私は返事に惑ってしまった。
 と言うことは、兄を手伝うとすれば当然学校を休まなければならないことと、臨時集配人の私は市街地を往復をする朝の函開けで学校を毎日三十分遅刻をして居るのであったから、欠席をすると言うことは実に苦しいことであったからであった。
 
 併し、私が手伝わなければ兄はどうなるのかと言うことを考えると、私は右すべきか、それとも左すべきかと、その去就に迷ったものであった。
 


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履歴稿 北海道似湾編  吹 雪 10の2

2024-11-07 21:05:49 | 履歴稿
IMGR081-05
 
履 歴 稿  紫 影子
 
北海道似湾編 
 吹 雪 10の2 
 
 そして、保君の話が真実となって、私に身近な体験をさした。
 
 保君が言ったように、風も確かに音を立てて唸った、そして深夜に大木の幹が、バリバリと言う音を響かせて裂る音もしばしば私は聞いたのであった。
 
 郵便函を開函するために、市街地へ毎日往復して居た私は、幾度か吹雪の猛威にも遭遇をした。
 
 積雪と言う物を、生れて始めて踏む私は学校で授業の休憩時間中に保君はもとよりのこと、高学年の男、女生徒の少年少女が、下駄スケートを履いて学校の坂をとても面白そうに滑って居たのだが、そうしたことに経験の無い私は、低学年の橇を借りて「オイ、これは下まで滑って行っても大丈夫か」と言って、その操縦方法を教わってギコチ無く滑るのが、精一パイの者であった。
 
 また、あの時の保君が沢山の人が吹雪で死ぬと言ったが、そのことを真実であることをも、私は身を以て体験させられる日が待って居た。
 
 
 
IMGR081-04
 
 私の兄は、似湾へ移住をした四月からずうっと自宅でぶらぶらして居たのだが、それは十月中旬の或夜のことであったが、父が役場を退宅をして夕食をすました所へ、突然郵便局長が訪れて来て、「義章さんが毎朝市街地へ往復をして元気に函開けの仕事をやって居るのに、その兄さんが毎日ぶらぶらして居るのは、あまり外見の良いものではないですぞ、それでですな、今私の局では、生べつ方面の集配を担当して居る集配人が、今月限りで辞めるんですよ、それでどうです、その後を兄さんに一つやらして見ませんか、日給は四十銭ですが、多少は生活の足しになりますよ。」と、兄の集配人就職を父に勧誘をした。
 
 
 
IMGR081-03
 
 結局「皆と良く相談をして、明朝必ずお伺いしてご返事を致します。」と言って、局長さんを送り出してから、「義潔、お前も傍で聞いて居たんだから、お父さんと局長さんとの話しの内容は判ったと思うが、お前ももう十五歳だ、昔なら元服をして大人の仲間入りをする歳だ、義章も働いて居るんだから、お前も一つやって見ないか。」と言って、兄の説得に努めたのだが、「郵便配達になるのなんか嫌だ。」と兄は、再三拒否をしたが、「義章が毎朝市街地まで行って函開けをやって働いて居るのに、大きいお前がぶらぶら毎日遊んで居て体裁が悪いとは思わ無いのか。」と言われて、「仕方ない、やるよ。」と、吐き出すように答えて、渋々ながら就職を承諾したので、父は翌朝出勤の途中に局長さんと逢って、兄の集配人就職の手続を済ませた。



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