aya の寫眞日記

写真をメインにしております。3GB 2006/04/08

履歴稿 北海道似湾編  古雑誌と次郎 7の1

2025-01-26 20:04:11 | 履歴稿
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履 歴 稿  紫 影 子
 
北海道似湾編
 古雑誌と次郎 7の1
 
 私が、似湾村に移住をしてから、その頃までに親しくなった友人は、未だ五人程しか居なかったが、その中に私より学級が二学級遅れた四年生の中に、愛奴の少年で布施次郎と言う、とても親しい少年が居た。
 
 私達が北海道へ移住をした当時の制度では、愛奴の少年少女の入学年齢が、私達和人よりも一年遅れて居た。
 
 当時は、年齢の数え方が現在のそれとは違って生れた年を一年に数える制度であった、従って、八年目の春には皆入学をすることになって居た。
 
 併し、一月元旦から三月末日までに生まれた者は、早生れと称して七年目の春に入学をするようになって居た。従って、二月七日に生れた私は、七年目の春に入学をしたのだが、遅生れの次郎は和人よりも一年遅れると言う制度によって九年目に、入学をしたと言うことが、私よりも二学級遅らせて居たのであった。
 
 その次郎は、私によくこんなことを言って居た。
 
 「義章さん、お前は和人に生れて良かったなぁ、俺は愛奴だもんなぁ。いくら頑張っても和人にはなれないもんなぁ。」と、しょげて居た。併し彼は、ポチャポチャとした円顔の可愛い顔をした少年であって、当時濁音の発音が不明瞭であった愛奴族としては、立派にその発音の出来る少年であったので、方言の多い讃岐弁の私より遥かに聞き易い標準語であった。
 
 その当時の似湾村には、雑誌類を取扱って居る店が一軒も無かった。従って、生徒で雑誌を読んで居た者は、高松戸長の三男坊と私の二人きりであった。
 
 
 
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 その高松戸長の三男坊であった獅郎君とは、前にも書いたように同じ机で席を同じうして居たので、お互が話し合っては、彼の「少年倶楽部」と、私の「日本少年」を交換しあって読んだ。
 
 私の「日本少年」は、本社から直送、高松君の「少年倶楽部」は、当時札幌駅に勤務をして居た米治さんと言う長兄から送ってくるのであった。
 
 雑誌と言うものを全然知らない生徒達は、私と高松君が、授業の休み時間中に読んで居た雑誌には、これまた全然無関心であったが、次郎はとても読みたがって私達二人が、読んで居る傍に来ていつも覗き込んで居た。
 
 そうした次郎に或日、私が「次郎、お前雑誌欲しいか。」と言うと、彼は「ウン、俺も読みたいなぁ。」と言ったので、その翌日、古い雑誌を五冊、彼に与えるととても喜んだので、その後自分が読み終ったものを彼にやることにした。
 
 次郎は、私の家が下似湾の学校の傍に在った時には、一度も遊びに来なかったのだが、市街地の吏員住宅に移ってからは、時折り遊びに来るようになって居た。
 
 その日は私が薯蒔をした日曜日のことであったが、「もう帰って、晩ご飯の支度をしなければならないから、今日はこれ位にして、サア皆帰りましょう。」と母に促されて、私と弟の三人が家に帰ったのは、午后の四時頃であったが、その時私の帰りを次郎が表で待って居た。
 
 「次郎、お前いつ来たんよ。」と、私が呼びかけると「ウン、俺一時間位待ったわ。」と言って、次郎はニコッと笑ったが、私の肩から鍬を取って、裏の物置まで彼が持ってくれた。
 
 「オイ義章さん、畑はどの位作って居るのよ。」と次郎に言われて「ウン、二反歩位あるんだ。」と私は答えた。
 
 「そうかそんなにあるんか、それぢゃお前大変だなぁ。よし、そんなら俺これから毎日手伝ってやるから、畑をやる時学校で俺に話してくれや。」と彼は親切に言ってくれた。
 
 
 
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 そうした次郎は、その翌日から毎日のように私の畑仕事を手伝ってくれた。
 
 小出さんの畑も、一応種蒔が終った或日私は、始めて次郎の家に遊びに行ったのだが、次郎の家は郵便函の在る山岸さんの店の向って左の角を斜に曲って神社前から似湾沢への丁字路に抜けて居る細道を約五十米程行った右側に在って、同じ造りの葭葺の家が、四米程の間隔で五軒程が並んで居た中程の家で在った。
 
 家の構造は、四方を葭で囲った堀建造りであって、玄関を這入ると家の内部は、三尺程の土間から直接上がるようになって居る十畳敷程の部屋が一部屋しか無かった。そして玄関の這入口には三尺の板戸があったが、土間から部屋へは仕切りがして無かった。
 
 玄関を這入った正面に土間から直接土足で踏み込める、囲炉裏が在ってその囲炉裏で燃やす薪の煙に燻った天井の無い梁の全体が黒く光って居た。
 
 部屋には明り取りの窓が一つあったが、一、五米程の高い所に硝子の這入て居ない五十糎米平方程の物が、吹抜になって南側の中程に在るだけであった。
 
 家屋その物は、とても薄暗い家ではあったが、彼の家庭内の雰囲気は、とても明朗な明るい家であった。
 
 その当時愛奴の人達は、その年輩が五十歳以上と思われた男子は、肩までの長髪を伸して居て、鼻下から頬、そして顎に、長々と鬚を伸して居たものであった。
 
 また女の既婚者は、口唇の周辺と手首に一見毒々しいものに見える入墨をして居た。
 
 
 
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