履 歴 稿 紫 影子
北海道似湾編
吹雪 10の9
その時の私は、恰も無神経のような状態になって居たので、寒い、冷い、餓じい、と言った類の苦痛は、少しも感じなかったものであったが、執拗に襲って来る睡魔に、ウツラウツラして居たものであったから、兄と弁当の状景を只ぼんやりと傍観して居たものであった。
勿論その時の私には、弁当を食べようと言った意思は全然無かった。
それからどれ程の時が過ぎたのか、と言うことは判らなかったのだが、それまで私が忘れて居た、寒い、冷たい、餓じい、と言った諸々の感覚が蘇って仮睡の状態であった私の神経を呼び起した。
と、それはその時であった。ヒヒン、ヒヒンと嘶きながら路上を駈ける馬の鈴の音が、チャリンチャリンと強弱長短の尺度を瞬秒の間合に変えて、荒れ狂う烈風と吹雪をついて或時は近く、また或時は遠く微かに、生べつの方向から聞えてきた。
私は、咄嗟にそれが似湾と鵡川の郵便局の間を往復して居る逓送の馬橇であると感じたので、「そうだ、あの音は屹度逓送の馬橇だ、そしたら俺達はそれに乗せて貰って帰ろう。」と思って傍で、仮睡の状態になって居る兄を激しく揺り起こした。
私達は、急いで荒狂う吹雪の路傍に出た。
ヒヒン、ブルンブルンと、吹雪に怒る馬の嘶と、チャリンチャリンと鳴る鈴の音にまじって、コツ、コツ、コツと馬橇の側面を叩いて鳴る梶棒の音も次第に近づいて、やがてその全体が、吹雪の中に黒く浮んで見えた時には、「嬉しい」と言う、言葉だけではとても言い表わせないものが、涙となって私の頰を流れた。
「そうか、お前達は睡ったのか、フウン、併し危なかったぞ。吹雪で死ぬ人はなぁ、皆そう言うふうに睡った者がその儘凍れ死ぬんだぞ。」と私達を馬橇に乗せてから、一部始終を聞き出した逓送夫が、凍死をする者の原因を教えてくれた。
”睡った者が凍死をする”それまでの私は、生きるとか死ぬと言うことには、全然無関心であったのだが、この逓送夫の言葉を聞いて今更のように、慄然としたものであった。