161109 日本の訴訟制度の淵源考 文字使用と訴訟制度の起源・歴史
昨日は博多駅前の幹線道路での陥没事故が大変な騒動となりました。地下鉄工事が原因と報じられ、周辺のビルを含め多大の損害が発生したことから、補償問題から場合によっては訴訟による解決も考えられるでしょう。訴訟というと、アメリカは数百万人の弁護士を擁して訴訟大国と言われ、その拡大は止まる様子がありません。訴訟回避のために、予防的な膨大な契約書類の作成も、契約は裏切られるかのごとく、容易に紛争となる社会です。自由と平等を唱い、民主主義の旗手・盟主である大統領選挙は今日結果が出ますが、その選挙戦はとてもリスペクトするに値する内容ではないと感じる人が少なくないでしょう。そのアメリカも、19世紀イギリス、チャールズ・ディケンズが描いた欺罔と悪意に満ちた訴訟戦略の国から、自由・独立を求め、飛躍的な訴訟制度の改革をしたはずです。
と前置きが長くなりそうなので、ここらで本題に戻ります。わが国が欧米の訴訟制度を導入する前に、江戸時代から裁判制度があったことはよく知られています。むろん欧米の制度とは大きく異なる内容です。身分制度を前提に差別的な人権保障のない制度とも言われます。ちょっとこのことに触れる前に、いつ頃から訴訟制度があったのか、少し振り返ってみたいと思います。
日本最古の文字資料、記紀の中に、訴訟制度に触れているのは、17条憲法に言及したところだけではないでしょうか。聖徳太子の実在性とか(歴史の世界では厩戸皇子と呼称するのが一般のようですが、その実在というか、由来も議論が多いですね)、この最初の憲法制定した人物かは議論があるようです。古事記では推古朝までとりあげていますが、厩戸皇子も17条憲法も出てきません。日本書紀にのみ両者が記載されているものの、憲法そのものが書かれた原文はありません。ともかく、その10条が好きですが、ここでは5条を取り上げます。
五曰。絶餮棄欲。明辯訴訟。其百姓之訴。一日千事。一日尚尓。况乎累歳須治訟者。得利為常。見賄聴 。便有財之訟如石投水。乏者之訴似水投石。是以貧民則不知所由。臣道亦於焉闕。
この現代語訳のひとつを参考にします。
http://home.c07.itscom.net/sampei/17ken/17ken.html
五、飲食を貪る事を絶ち、他の欲望を捨てて。訴訟をはっきりと区別しなさい。百姓の訴えは。一日に千件あります。一日でさえそうなのに。永年にわたり訴訟を治める者は。利益を得る事を常にしている。賄賂を貰っては裁きをゆるす。すなわち財産を有する者の訴訟は石を水に投げるように易しい。貧乏な者の訴訟は水を石に投げるように難しい。このように、貧乏な民衆は頼りにするものが無い。臣下の道徳もここに欠けている。
600年代初頭、すでに百姓の訴えが膨大なもので、その裁許が当時の権威(この時代大王なのか、未整備の官僚組織なのか、あまりよくわかりません)に求められていたことはうかがわれます。この場合の百姓は、農民に限らず、さまざまな姓という意味で大衆からの訴えということではないかと思います。とはいえ割合的には断然農民が大半だったと思いますが。
ところで、訴訟を審理し、判断するのに、何一つ文章もなく、口頭だけで可能だったのでしょうか。この分野の歴史研究を知りませんので、どこかで研究成果があるのかも知りませんが、今のところ、裁判結果はもちろん、その資料も残っていません。記紀が最も古い文書となっています。大化の改新時、ときの最高権力者、蘇我蝦夷が一部を除き焼却したとするのが権力を握った側がつくった書紀の立場です。
しかし、日本各地では共通語はありません。明治維新まで、文書を介してでないと意思伝達が困難だったと思うのです。他方で、中国では竹柵や木間、皮などに文字を書いて、戦時の伝達手段として紀元前から長く汎用されていたのですし、朝鮮においても、これは韓国映画の影響もありますが、中国と対峙して戦争を繰り返していた国がそういう重要な手段を用いなかったとは到底思えません。
漢委奴国王印の発見は、紀元前後に日本の中で文字使用が行われていたことを裏付けるものとの見解はないようですが、3世紀中頃からの古墳時代の登場や刻印された刀剣、そしていつか言及したい隅田神社人物画像鏡の文字は、7世紀までに相当程度、文字使用があったことを彷彿させてくれます。
ともかく律令制による裁判基準的な意味合いも必要とされ、8世紀には唐の制度が一応確立しています。時代は飛びますが、頼朝が必要とされたのは、単に武士階級の台頭にとどまらず、土地紛争など訴訟の解決ができる権威と公正な判断が求められていたのではないかと思うのです。
そして江戸時代、幕府は多くの法令を発布して、裁判規範を確立していきますが、それらは中央部の江戸や大坂の奉行で行われる裁判に利用されものだったのではないでしょうか。他方で、多くの紛争、訴訟は、ムラの地域共同社会の中で、民主的に決定されたルールにより裁許されていたのではないでしょうか。
それは、江戸幕府が作った法令が上滑りして、各地では必ずしも拘束力がなかったのではないかと思うのです。たとえば有名な生類憐れみの令、これは多数の法令により複雑になっていますが、ともかく地域によっては釣りをしてもおとがめなしとか、漁業者の漁業は除外されるとか、いろいろ地域毎に決まりがあって、それこそが実効性のあるルールだったのではないでしょうか。
とくに有名な、田畑永代売買禁止令という農地売買の禁止は、それ自体確立した現代の法令とは異なるようです。そして、実体は大いに異なると思います。たとえば多くの百姓の蔵の中には、農地売買の証文が残っているとの報告もあり、事実、私もそのような古文書を相当数確認してまいす。紀州藩は、御三家で特別という見方もありますが、実際は、各地のムラで江戸幕府の法令とは異なる実体があったものと思われます。
面白いものに、草刈り権を争ったムラ同士の紛争で、当事者ムラだけでなく、周辺の名主層も集まり、代官も入って、調停して、それぞれの草刈権の内容を裁許した記録もあります。このように、水利紛争や入会紛争といった多くの紛争は、村社会の自律的秩序の中で、平穏裏に解決する制度が、遅くとも江戸時代の中で形成されていったように思うのです。
今日の主題は、何か、曖昧になったようにも思います。ただ、西欧の近代所有権思想や裁判制度は、必ずしも模範とはならないこともあり、わが国が培ってきた民主的制度や意識と調整しながら、独自の道を歩む必要を、最近のアメリカ大統領選を見ながら感じているこの頃です。