たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

才蔵ウォークイベント 才蔵の聞書と現代版聞書のいろいろ

2016-11-23 | 大畑才蔵

161123 才蔵ウォークイベント 才蔵の聞書と現代版聞書のいろいろ

 

今日は大畑才蔵の偉業を顕彰する、というか多くが何をしたかは実際には知らない、その農業遺産の一つ、小田井という潅漑事業用水の現場を歩いて、体験するイベントに、私も参加しました。

 

私自身、才蔵を知って約8年余り、いろいろな文献、たとえば古文書の解説文や農業技術の専門誌あるいは橋本市郷土資料館などで学んできましたし、現代の龍之渡井や小田井堰を何度も見てきましたが、その用水路の現状を見る機会がありませんでした。今日は土地改良区で担当されている専門家の案内・説明で、その一部を大勢の参加者とともに歩いてきました。

 

今回のウォーキングルートは、小田井(橋本市小田から岩出市根来まで)のほんの一部ですが、やはり百聞は一見にしかずです。と同時に、解説者のYさんや参観者のそれぞれの話しを伺うことができ、一見は百聞を栄養にしてさらに大きな実りになるように思いました。

 

さて、小田井は5000分の1ないし3000分の1の勾配をおおむね維持して、橋本市小田から根来まで延長約30km、約1000ha超の水田を創出し、紀州藩の米生産を飛躍的に増大したと言われています。

 

でその勾配は、なかなかイメージできませんが、小田井用水を歩いてみて、その実際を体験できました。ほとんど平坦なのです。それもかなりの高台です。現代の用水路上に立つと、紀ノ川の流れはずっと低いところに流れていて、その距離は相当なものです。

 

才蔵が開削した当時は、そのすぐそばまで紀ノ川が流れていたことが分かります。今日歩いた用水路のそばに、船つき松の跡を示す顕彰碑が建っていました。以前、宝來山神社を訪問したとき、神社の職員?と話をしたとき伺ったことが裏付ける痕跡が残っていました。

 

で、さきほどから用水路と言っていますが、また、その上からとも言いましたが、用水路であれば、水遁の術といったあの天武天皇が得意とした?術でも使わないと、川面に経つことができませんね。実は、用水路は、何年か前に、ボックスカルバート工事が行われ、いまではその中を流れ、上はかつらぎ町道になっているとのこと。

 

その用水路の上、つまり小田井の上を通って、ウォークイベントを実施したわけです。それで用水路の大きさを改めて驚いてしまいました。橋本市小田井の取水堰から取水した用水は、小田からほぼ同じ大きさの幅、深さで、この笠田まで流れていたのです。幅は(図りませんでしたが)2mを超え、深さも1m以上あるように思えます(龍之渡井の直前で開溝されています)。

 

これほどの規模の開削工事を、機械もなく、人の手だけで、たいしてた道具もない中、よくやりとげたものだと感心してしまいます。しかも5000分の1の勾配を、素人の百姓を指揮してやったわけですので、いかにその技術と管理が適切に行われたか、改めて才蔵の能力を実感してしまいました。

 

ところで、ちょっと脱線して、吉宗と才蔵について、津本陽著「南海の龍」(190~192頁)で、見事に吉宗・才蔵の実践的経済再生策を活写している部分があるので、少し長いですが、引用してみたいと思います。吉宗が紀州藩主になったとき、藩は膨大な赤字財政で倒産寸前。そのとき吉宗がとった策の一つは、家臣からの差上金の借り上げ(いわば賃金カット)という大胆なもので、自らも一日3食から2食、品数も2,3に限ったという、小池都知事もびっくりの倹約策です。もう一つは職員整理です。三つ目が米生産の拡大などの経済政策です。その部分を一部引用します。

 

 第三の布石は、領内用水工事の開発である。用水をた-わえれば当然米の収穫は増大

する。農業生産の増強は、歴代の藩主がもっとも意を用いてきたところであった。

紀州藩には、土木工事に天才の手腕を発揮する技術者がいた。彼は、大畑才蔵という高野山麓学文路村の庄屋であった。彼は地方の農村経営に堪能で、御勘定人並とい-低い役柄ではあるが、高名は藩の内外に聞えている。

と才蔵の評判をとりあげ、その後その詳細を説明した後、才蔵に小田井開削を命じる場面を見事に表現しています。

 

「吉宗と忠八は、地図をひろげ、潅慨工事をあらたに行う地域を検討する。忠人は、大畑才蔵にすでに意見書を差し出させていた。 才蔵が意図しているのは小田井の開鑿(開削)である。 忠八はいう。.

「小田と申しまするは、九度山の麓の在所でござります。そこより紀の川の水をとりいれ、北岸に沿い、まずは伊都郡笠田にまで新渠(溝)を設けまする。つづいてそこより紀の川口に向い開渠をすすめ、根来に至るという目論見にてございます」

吉宗は地図をにらみ、捻った。

「これは大なる堰じゃ。長さはすべてでいかほどになるのか」

「笠田までで五里、そこから根来までは六里にて、延十1塁とあいなりまする」

「うむ、そのうるおすところは、いかほどじゃ」

「千三百町歩ということでございます」

紀の川北岸は、月夜でも田が乾-といわれるほどに水利の悪い土地である。藤崎井にひきつづき、小田井が完成すれば、乾いてひびだらけの痩田が、一転豊沃な美田となるのである。

「よし、大畑なる者を、すぐに江戸へ呼べ。ただちに開墾の手筈砿かかろうではないか」

吉宗はふるいたった。

と今日歩いた笠田に言及しながら、さらに広大な新田開発を才蔵に命じて、米将軍への道の礎を作ったわけですね。少し異なりますが、昨年11月、皇太子も国連の会議での基調講演で、才蔵ではなく上司だった井沢 弥惣兵衛の話しとして、小田井開削の話しをされており、これまた驚きです。

 

ところで、再びウォークイベントに立ち戻ります。歩きながら、小田井用水には相当量の水が入っていることに驚いた私は、灌漑期でもないのに、なぜこれだけの水量を流しているのですかと、Yさんに聞くと、一つは災害用と、環境用水として利用しているとのこと。環境用水としては、ハウス栽培などの畑での利用にも提供されているとのことでした。

 

で誰が負担するかという問題ですが、本来の潅漑用水は、さらに水量が多く、それは受益者である農家が規定の水利費として負担しているわけです。では、灌漑期以外は関係する行政が分担割合を決めて負担しているとのことでした。

 

翻って、農業潅漑用水事業は、水田の休耕田化ないし遊休農地化もあり、水あまりが実態でしょう。そのため、吉野川・紀ノ川潅漑事業としては、奈良県側に取水する大決断をした戦後初期の状況は失われ、奈良県では景観価値を評価し、費用対効果の重要な一部に取り入れています。同様に、小田井用水でも、冬期湛水事業なり、環境用水なり、環境目的を付加して、用水利用とその負担の公平を図ろうとしていると思われます。

 

ただ、水の利用は、さらにいえば農地の利用は、より住民レベル、国民レベルで、さまざまな議論をして、将来の利用価値の多様性を生かすやり方が求められているように思うのです。北米では、80年代後半以降、長い間水戦争というバトルが、農家、都市住民、漁業者、カヌー協会など多数の利害関係者を交えて協議を積み重ねて、多様な利用方法を案出してきた歴史があります。才蔵・吉宗が考案した水利の策は、現代の状況に適合するように、そして多くの関係者が協議できる舞台で検討されることが望まれているように思います。その意味では、小池都政とは違いますが、参考にしつつ、より「紀州流」の解決策を練り上げてはどうかと思う次第です。

 

もう一つ加えたいテーマがあります。参加者の一人Nさんの話しです。橋本市高野口はパイル産業が有名ですが、江戸時代綿栽培が吉宗に奨励され殖産興業の一つとなったそうで、それが才蔵の小田井開発により、紀ノ川の清浄な水質が綿栽培を盛んにしたと言われているそうです。以前、応其上人の紙芝居(手芸・タペストリー)を作って上演しているそうで、今度は才蔵をテーマにしたいとのこと。楽しみです。

 

才蔵は、米生産にこだわったわけではなく、むしろ土地の多角的利用を創意工夫でやっていくことを考えていたと思います。いかに経済的に農地を有効利用すべきか、そういう農地経営をおこなっていたように思うのです。

 

この点、児玉幸多著「近世農民生活史」は1957年以来重版を重ね、超人気の書物で、現代の歴史教科書の基礎になっているのではないかと思いますが、その基本的視点は、農民は牛馬のごとく働くもので、それは封建社会制度の下、自由のない奴隷的立場であったという揺るぎない信念だと思われます。むろん児玉氏は幕府の法令や全国各地の藩の法令など紙などに書かれた資料に基づき、その意味では十分な根拠のもとに、言及しています。

 

しかし、書かれているものがすべて真実をあらわしているとは限りません。まして役人が書いたものです。現代の法令は、江戸時代はもとより戦前に比べると、極めて詳細化し、時代の要請に適合しようと、毎年のように多様化、詳細化しています。それでも実態が法令のようになっていっているかというと、その隔絶はなお相当なものと言わなければならないと思います。

 

脱線がすぎたので、そろそろお開きとします。いつかこの件について、もう少し具体的な事例を元に話してみたいと思います。